第二十六幕 春日山城の朝
日本の北陸沿いに広がる越後国。その越後国の実質的な国主である戦国大名、長尾景虎が住まう居城たる春日山城。
その名の通り上越の街を見下ろす春日山に建つ山城ではあるが、大名の居城だけあって旭山城のような通常の山城とは規模が違い、広大な山腹の大部分に渡って城郭が広がり、その中に本丸から三の丸までの防衛施設、そして景虎やその重臣達が実際に住まう武家屋敷などが、森の中のそこかしこに点在しているという構造が特徴的であった。
旅の退魔尼僧である妙玖尼は、そんな武家屋敷の中でも最も敷地が広く造りがしっかりしている、大名たる景虎の屋敷の客間で起床した。
景虎によって客人として招かれた彼女らは、夕餉を馳走になり、寝床まで用意してもらってそのまま屋敷に泊まる事になった。信濃に入って以降まともな夕餉や寝床にありつけた事は数える程度で、それすら精々が僻村の安宿くらいだ。
それがここに来ていきなり大名の屋敷だ。質素ながらしっかりと味付けされた人間らしい食事と、夜露や隙間風に悩まされない清潔な寝床。綾御前に「遠慮することはない」と言われていた事を言い訳に、恥ずかしながら存分に食事を堪能し、惰眠を貪ってしまった。こんな事は本当に久しぶりであった。
久方ぶりの安眠を堪能した妙玖尼だったが、元々禁欲的で自己節制を習慣としていた彼女である。その眠りは浅く、早朝には目を覚ましていた。まだ朝靄が掛かっている刻で、直ぐ側では紅牙や伽耶がまだ惰眠を貪っていた。
「…………」
妙玖尼は彼女らを起こさないように静かに寝所を出た。そして厠で用を足した帰りに屋敷の裏庭のような場所を通ると、そこには簡素な袴姿で一心不乱に薙刀を素振りしている一人の女武者の姿が。
「……!」
景虎だ。ここには民も兵士もおらず、彼女の『秘密』を知る身内の者しかいないが故の気楽な装いだ。その意味でもこの屋敷は彼女にとって、常に張り詰めていた気を緩める事ができる安息地なのかも知れない。
だがその「安息地」であるはずの自分の屋敷でも、このような早朝から得物を振るって鍛錬している姿に、妙玖尼は景虎の精神的な余裕の無さを感じ取った。彼女が今現在置かれている状況を鑑みれば致し方ないことではあったが。
「む……! 妙玖尼殿か……起こしてしまったか?」
妙玖尼に気づいた景虎が素振りを止めて向き直る。妙玖尼はかぶりを振った。
「いえ、元々早起きの気質でして。どうぞお気になさらずに。景虎様こそこのような早朝から随分と精が出るのですね。折角遠征を終えて久方ぶりにお屋敷に帰られたのですから、もう少しゆっくり休まれてもバチは当たらないかと」
「尼僧たる妙玖尼殿にお墨付きを頂けるなら、確かにバチは当たらなそうだな」
景虎は彼女にしては少し可笑しそうな笑みを浮かべて薙刀を納めた。そして裏庭に面した軒下に腰を下ろして休憩する。妙玖尼も腰を下ろしその隣に正座した。
「……やはりご実家でも落ち着きませんか?」
「ふ……そなたには見抜かれてしまうな。私とてこの越後の大名となるまでに、そしてなった後も国内の豪族や親族たちとの幾多の内紛を制してきた身だ。だが……血を分けた実の兄と戦うというのは初めての経験故な。様々な雑念が去来してしまい、それを振り払いたくて身体を動かしていたのだ。我ながら不甲斐ないとは思うのだが……」
景虎は自嘲気味に苦笑する。だが妙玖尼はかぶりを振った。
「不甲斐ない等という事はあり得ません。例え非情な戦国の世であっても、いえ、戦国の世だからこそ血の繋がりが拠り所となって然るべきです。己の血を分けた実の兄弟と殺し合って平気な人間など本来いないはずです。戦国大名である前に一人の人間。景虎様の感じておられる憂慮や煩悶は人として当然の感情なのです」
「……!! ……不思議だな。僧侶だからというのは別として妙玖尼殿にそう説かれると、何とも心の重荷が軽くなるような想いだ」
言葉だけでなく実際に表情が和らいだ様子の景虎が妙玖尼に向き直る。
「……何度でも言うが、やはりこの危難の時に在ってそなたと出会えた事、そして味方とする事ができたのは毘沙門天の采配としか思えぬ。例えそなたが本当の意味での天女ではなかったとしても、その事だけは絶対に疑うまいぞ」
「か、景虎様……」
真摯な瞳で見つめられた妙玖尼は、こそばゆさから若干赤面して顔を伏せてしまう。男装の麗人と言って良い景虎からこのような顔と言葉を向けられると何やら妙な気分になってしまうので困り物だ。とりあえず天女扱いを止めてくれただけでも進歩だろうか。
と、そこにこの場に近づいてくる気配と足音があった。
「景虎、ここにいましたか。あ、妙玖尼様も……おはようございます。昨夜はよく眠れましたか?」
景虎の実姉、綾御前であった。景虎の横にいる妙玖尼を認めると、相変わらず柔和そうな外見の中に鋭さを内包した笑顔で挨拶してきた。妙玖尼もまた柔和な笑顔を作ってお辞儀する。
「おはようございます、綾様。ええ、お陰様で久方ぶりにまともな屋根の下で安眠する事が出来ました。改めて御礼申し上げます」
「ふふ、それは良かったわ。景虎から随分信頼されているらしい『お客様』に粗相があっては長尾家の名折れですから」
綾御前も柔和な笑みを崩さずにお辞儀を返す。二人とも穏やかで柔和な笑顔で挨拶し合っているだけのはずなのに、妙にピリついて張り詰めた空気が流れる。どうやら綾御前の態度は単に余所者が信用できないというよりは、景虎に個人的に信頼されている妙玖尼に対する反感のような物が根底にあるらしい。
(……ご自分の物である景虎様が、私のような流れ者に懐くのが気に入らないといった所でしょうか)
だがそれが分かっても、このような態度を取られて大人しく萎縮する妙玖尼ではない。にこやかに笑う二人の優美な女性の間に火花が散った……ような気がした。
「おほん!! ……そ、それで姉上。私を探していたのか?」
その空気を感じ取ったらしい景虎が居心地が悪そうに咳払いしつつ、その空気を払拭しようと綾御前に問いかける。音に聞こえた『越後の龍』は、姉に頭が上がらない性質らしい。
「ああ、そうでした。このような事をしている場合ではありません。景虎、宇佐美殿らが訪ねて来ております。あなたが帰城したという報せを受けてすぐに馳せ参じたようです」
「……! 定満が? ふ……相変わらずせっかちな奴だ」
その名を聞いた景虎が口の端を吊り上げる。どうやら宇佐美定満という景虎配下の武将がこの城を訪ねてきているようだ。要件は間違いなく晴景の『謀反』の件だろう。
「丁度良い。政景殿も呼んで、朝餉を兼ねて軍議を行うとしよう」
政景とは綾御前の夫でもある上田長尾家の当主、長尾政景の事だろう。景虎が信濃に遠征するに当たって綾御前と共にこの春日山城の留守を預かっていたはずだ。景虎が妙玖尼に向き直る。
「そういう訳で妙玖尼殿。私はこれから定満たちと会って、兄上の件について話し合わねばならん。朝餉は別室に用意させる故、済まぬが妙玖尼殿たちはそちらで――」
「――紅牙さんたちにはそれでお願い致します。私は……景虎様にご一緒させて頂いても宜しいでしょうか?」
彼女がそう申し出ると景虎は少し目を丸くした。反対に綾御前が僅かに眉を顰める。
「妙玖尼殿? だが……」
「勿論話し合いの内容に口出しする気は一切ございません。ただ同席させて頂くだけで構いません。旭山城の例もあります。……正直どこに敵が潜んでいるか分かりません故、あくまで景虎様の護衛として同席させて頂くだけです」
「……!!」
景虎が目を瞠った。旭山城で実際に、麾下の武将に裏切られた事を思い出したのだろう。
「むぅ……そうだな。それに今回の兄上の件に妖魔が絡んでいる事を説明する際に、妙玖尼殿にも居てもらった方が良いかも知れん。姉上もそれで宜しいか?」
「……まあ良いでしょう。確かに妖魔の件は由々しき事態ですから」
渋々といった体で認める綾御前。流石に個人的感情で妖魔の脅威を蔑ろにするほど愚かではないようだ。
こうして妙玖尼は紅牙たちとは別行動で一人、景虎達の会議兼朝餉の場に同席する事となった。




