第二十五幕 龍使い
越後国。現在は長尾景虎が大名として治める、北の寒海に面した領国である。信濃国とは妙高山を始めとする所謂『北信五岳』によって隔てられており、双方の行き来はこの山々を縫った険しい谷道を超えるしかなく、冬の降雪期に入ってしまうと少なくとも軍隊の行軍は不可能で、春の雪解けを待たねばならない程だ。
前越後国主である長尾晴景の挙兵を知った景虎は、この谷を越えて迅速に越後国へと帰還していった。幸い信濃で仮の拠点としていた旭山城は比較的越後との国境に近く位置しており、長尾軍が整然とした規律を保って迅速に行軍した事もあって、特に大きな問題なく山越えをこなし越後国へと入ることが出来た。
「見えてきたぞ。あれが我が領都の上越だ」
「...…!」
山越えをした後もしばらく北進を続け妙高を抜けた長尾軍の行先に、大きな川に沿って広がる城下町が見えてきた。大名であり軍の総大将でもある景虎が、その城下町を指し示す。遠目からでも解る街の規模に妙玖尼は僅かに目を瞠った。
因みに妙玖尼たち一行は「先の旭山城防衛で『多大な働き』があり、景虎が個人的に雇った傭兵」という扱いとなっていた。妙玖尼個人は傭兵になったつもりは微塵もなかったが、長尾の家来たちを納得させる必要があったために止むなくその設定を受け入れた。
「へぇ、あれが上越の街かい。アタシも見るのは初めてだね」
元越後出身の紅牙も感心したように頷いている。それを聞いた伽耶が目線をくれた。
「上越に行ったことがないの? 越後のどの辺りの出だったの?」
「あー、アタシはもっと南西にある糸魚川の辺りの出身だよ。……まあアタシの事はいいだろ。それより街に着いたあとはどうすんだい?」
明らかにあまり触れて欲しくなさそうな様子の紅牙は、景虎に別の話題を振る。まあそれも無理からぬ事だろう。因みに紅牙が越後出身であるという事だけは景虎に伝えてあり、事情があるため余り詮索はしないで欲しいと妙玖尼の方から念を押してある。妙玖尼のことを信頼(崇拝?)している節がある景虎は、それだけで深く頷いて了承してくれたのは余談だ。
「街に着いた時点で一旦軍団は解散だ。各々の将や豪族たちも一旦自分の領地に戻らねばならんしな。そなたらは私と一緒にあそこの春日山城まで来てもらいたい。見ての通り広さだけは無駄にある城ゆえ、客人を泊める場所はいくらでもある」
「……! あれが、春日山城……」
景虎が指し示したのは、上越の街を麓に控えたなだらかな山の中腹にへばり付くように広がる建造物群であった。離れたここからでも視認できる程度には立派な、そして広大な敷地を持つ山城であった。
妙玖尼も『越後の龍』の棲家として名高い春日山城の噂だけは聞いた事があったが、よもや自分が客人として訪問することになろうとは夢にも思わなかった。
そのまま上越の街に着いた信濃遠征軍は景虎の指示通り一旦解散。従軍していた多くの将兵らは、各々の故郷の町村へと帰路についていった。次に彼らが再び上越の街に集うのは、最低でも冬の雪解けが終わり農地の収穫が済んだ約一年後となるだろう。
尤も今回は事が事だけに、場合によってはすぐに再び招集が掛かる可能性もあるが。
景虎と彼女に従う元々上越に所属する将兵たちだけが入街すると、街にいる多くの領民が仕事の手を止めて景虎に対して歓声を上げて手を振ってきた。それに手を挙げて応える景虎。彼女は領民から大分慕われているようだ。最も彼らは景虎が「彼女」である事は知らないだろうが。
「へぇ……流石越後長尾家のお膝元ね。甲府の街にも劣らない賑わいだわ」
上越の街並みを眺めながら伽耶が呟く。甲府は『甲斐の虎』武田晴信(武田信玄)のお膝元だ。武田の密偵として日本全国を旅する彼女だが、他にも密偵は沢山いることもあってか上越には初めて来たようだ。そんな彼女に景虎が念を押す。
「これから春日山城に入るが……くれぐれも愚かな気は起こさぬようにな。妖魔退治の恩がある故に信用するが……その事を後悔する事態にならぬよう願っているぞ」
春日山城は伽耶にしてみれば、いわば宿敵の本拠地だ。本来ならこのような形で中に入るなどあり得ない事で、それ故にこの状況を利用して春日山城の弱点や長尾家の内実を探るような真似はするなと景虎は言っているのだ。
もし伽耶が景虎の信用を逆手に取るような真似をし、それが発覚した時は、恐らく景虎は今度こそ文字通り問答無用で伽耶を斬り捨てるだろう。
「……勿論重々承知しているわ。私がここまで来たのは、むしろ武田の内実を探るため。それ以外に余計な真似は一切しないと八百万の神々に誓うわ」
伽耶もそれが解っているので、神妙な表情で請け負う。この場ではとりあえずこれで納得してもらうしかないだろう。後は彼女の行動次第だ。
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一行は城下町を抜けて、街の西側にある春日山城の大手道に入る。ここで今まで付き従っていた殆どの武士が解散し、信濃遠征軍は完全にその形を失った。城へ続く城門を守っていた門番たちが、主の姿を認めて城門を開く。景虎と妙玖尼たち、そして元々城務めの僅かな近侍たちはそのまま大手道を道なりに登っていく。
登山道の両側は高い木々の森に覆われて視界を遮っていたが、そう長く登らない内に少し開けた場所に出てきた。そこは大きな神社の境内のようであった。
「あれが春日山神社だ。済まぬが少し立ち寄っても良いか? 出征の前と帰ってきた時には必ず詣でているのだ」
験担ぎのようなものだろうが、この時代の戦国大名たちなら大なり小なり行っている事だ。ましてや信心深い景虎なら尚の事だろう。勿論ここまで来て妙玖尼たちに否があろうはずもない。折角立ち寄ったのだからという事で、妙玖尼たちも春日山神社に詣でる景虎にそのまま随行して鳥居を潜る。
山の中腹に建つだけあってそこまで広い境内ではないが、周囲を木々の緑に囲まれ木漏れ日と草木を揺らすそよ風が心地よく、落ち着いた雰囲気の神社であった。
「ん? あそこに誰かいるよ」
「……! あれは……」
そのとき紅牙が、拝殿前に誰かが立っている事に最初に気づいた。こちらに背を向ける形で本坪鈴を鳴らしつつ参拝している様子のその人物は、明らかに女性のようであった。その後ろ姿を見た景虎が少し目を見開いた。
「姉上……!!」
「え……!?」
妙玖尼は驚いて景虎とその女性を見比べた。景虎が『姉』と呼ばわる人物と言えば……
「……景虎!?」
その女性が振り向いた。それは景虎とはまた違った優美さを持つ柔和な印象の若い女性であった。仕立ての良い明るい柄の着物姿が良く合っていた。
「景虎、帰ってきたのですね! 良かった……!」
「姉上、此度も良くこの城の留守を預かってくれました。この景虎、無事に帰参いたしました」
二人の姉妹?は無事の再会を喜び合う。
「あらあら、長尾景虎の『姉』という事は……もしかして彼女が綾御前その人なのかしら?」
「綾御前……!?」
興味深げな伽耶の言葉に、越後出身の紅牙が少し目を瞠った。綾御前は長尾為景の長姉にして景虎の実姉であり、景虎が現在の越後守護代の座に就くにあたって多大な貢献があった人物と云われている。そもそもが自分の兄である晴景を戦国大名の資質なしと断じて、家臣団に「妹」の景虎を最初に推薦したのが彼女であるというのはその筋では有名な話であった。
いわば『越後の龍』誕生の影の立役者とも云え、更にはそれが原因で生じた有力豪族である長尾政景との不和も自らが政景に輿入れする事で一触即発の状況を収めてしまい、尚且つその輿入れ先で影響力を増して逆に彼を景虎の忠臣に作り変えてしまったという逸話まである程だ。
因みに彼女は政景に輿入れしてから後継ぎである義景と顕景(後の上杉景勝)を産んでおり、二人の世継ぎの生母という立場になった事も、彼女が上田長尾家で発言力を強める要因となったのは余談だ。
景虎とは違う、本来の意味での『女傑』という形容が相応しい人物。綾御前は女性でありながら、自分達とは違って歴史を動かす側の人間だ。妙玖尼は彼女をひと目見て、そう確信した。
「あら? 景虎……何やら珍しいお客様を連れているようですね? どういう取り合わせでしょうか?」
その時、綾御前もこちらに気づいて可愛らしく小首を傾げた。彼女の経歴からすると考えられないような子供っぽい仕草だが、恐らくこれが曲者なのだろう。
ただ確かに尼僧と巫女と妖艶な女武者という取り合わせは、それを連れているのが戦国大名の景虎という事も相まって、綾御前でなくとも疑問を抱くのは不思議ではない。
「う、うむ、実は信濃で少々……いや、かなり厄介な事態に陥ってな。この者たちの助力を請けて切り抜ける事が出来たのだ」
「厄介な事態? 武田の軍勢以外で、という事ですか?」
「うむ……詳しくは後ほど説明するが、恐らく此度の兄上の謀反にも繋がっているものと思われる。故に此度もこの者たちの力が必要になると判断して、私の方から越後まで同道を請うたのだ」
「……!!」
綾御前はその柔和な垂れ目を少し見開いた。どうやらそれだけで事態の深刻さをある程度理解したらしい。聡明であるのは、噂ではなく事実のようだ。綾御前が妙玖尼たちの方に向き直った。
「仔細は後で伺いますが、信濃で景虎を助けてくれたそうですね。私からも御礼を言わせて下さい。景虎の姉である綾と申します……が、どうやらもうご存知でいらっしゃるようですね、ふふ」
どこの馬の骨とも知れないはずの妙玖尼たちに、躊躇いなく頭を下げて礼を述べる綾御前。そして自己紹介しつつも少し悪戯っぽく笑う。それは彼女の一見柔和そうな美貌と相まって、例え初対面でも相手の警戒心や緊張を解してしまうような不思議な魅力を醸し出していた。
綾御前が『女傑』たり得ている要因の一つを垣間見たような気がした。
「……お初お目に掛かります。金剛峯寺の妙玖尼と申します。景虎様とは信濃において数奇な縁で知り合いました。以後お見知り置き下さいませ」
「あー……紅牙だよ。本名は聞かないでおくれ。この尼さんの個人的な護衛と思ってくれればいいよ」
「……宇波刀神社の伽耶よ。私もまあ……ただの傭兵と思って頂戴」
三者三様の挨拶を返す妙玖尼たち。
「宇波刀神社……?」
その中で特に伽耶の自己紹介を聞いた綾御前が一瞬眉を上げるが、すぐに元の柔和な笑顔に戻ってお辞儀を返した。
「まあ、これはご丁寧に。皆様からは女性でありながら、何やら只者ではない空気を感じますわ。景虎が頼ったというのも誇張ではなさそうですね」
一瞬こちらを値踏みするような鋭い視線を感じたが、すぐに再び今度はあの悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「でも、ふふ……! それでいて皆様いずれ劣らぬ美女揃いで吃驚しましたわ。もし景虎が『弟』であったなら、ようやく不犯の誓いを解いてくれたのかと喜ぶ所でしたわ、うふふ!」
「あ、姉上……!? 冗談が過ぎますぞ……!」
景虎が慌てたように顔を赤くする。やはり彼女はこの手の話題に関して非常に初心であるようだ(まあ妙玖尼も人の事は言えないが)。しかし綾御前は景虎が既に妙玖尼たちに対して、自身の秘密を打ち明けている事を見抜いていたらしい。
「さあ、景虎も皆様も、長い行軍で疲れていることでしょう。信濃での話などは全て明日以降にお伺いしますから、今日のところは一先ずお屋敷に戻って身体を休めて下さいませ。すぐに夕餉と寝床の準備をさせますわ。お風呂……は、明日で宜しいですね」
「助かる、姉上。正直屋敷の寝所が恋しくて仕方なかったからな」
手を叩いて促す綾御前の言葉に、景虎も笑顔になる。妙玖尼たちも内心は同じ思いであった。北信五岳の山越えは、旅慣れた彼女たちにとっても決して楽な行程ではなかったのだ。
春日山神社に立ち寄った本来の目的である帰郷の参拝を済ませた景虎と一行は、そのまま綾御前に付き添われて、神社のすぐ近くにある景虎の屋敷へと向かっていった。




