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紅き天使の黙示録  作者: 碧亜
第二章
13/17

-12 別離

 静けさに満ちた森の、長い時をかけて育まれた木々の合間を縫ってラキエル達は進んだ。


 ラグナは魔術を使って召喚した光を杖の先端に灯し、ラキエルの一歩先を歩いている。黒衣に身を包んでいるラグナは、その手に持つ杖の先端に光がなければ、暗闇と同化してしまいそうだ。


 先を歩くラグナが足を止めた。横まで歩き進み並ぶと、ラキエルはラグナの視線の先に目を向けた。


 空に顔を覗かせた青白い月に照らし出されているのは、石壁の塔だった。森の木々が途切れ、円形に空間を広げたそこの真ん中に、背の高い塔はどっしりと聳え立っていた。


 淡い灰色の石を重ねて造られたであろう塔には、つる草が絡みつき、扉は大人二人が並んで通れるほどのものが一つ。窓はずいぶんと高い位置にだけある、円筒形の塔であった。


「ここにシシリアが?」


 隣で黙ったまま塔を見上げていたラグナは、金色の瞳で塔の天辺を見つめながら頷いた。


「ああ。間違いないな。塔の上にいるらしい」


「行こう」


 扉の方へラキエルが一歩を踏み出せば、ラグナはそれを制止した。


「待て、門から入っていったんじゃローティアに警戒される。まずはシシリアの様子を伺おう」


「どうやって?」


 塔の上にシシリアがいるといいながら、扉を使わないというラグナにラキエルは訝しむ。


 ラグナは何か哀れなものを見つめるような視線をラキエルに向けた。


「翼で飛べばいい。こんな鬱蒼とした森じゃ、誰かの視線も心配ないだろ」


 そう言って、ラグナは背の翼を具現化した。


 天使の翼は具現化した時は触れられるが、普段は具現化せずにいることが多い。翼は鳥の羽を連想させ物質的なもののように見えるが、それは天使たちが法力で具現化させているからであって、実際は魔力の結晶のようなものに近い。空を飛ぶときや、強い法力を使うときには、翼を具現化させるが、日常の生活を送る際は背の中に魔力をしまい込んで翼は見えないようにしているのだ。具現化した翼は空を飛ぶことができ、便利な反面、眠るときや椅子に腰かける場合には邪魔になる。故に、普段の生活を送る天使の背に翼は具現化していないことが多いのだ。また、翼は天使の魔力の源でもある。それを傷つけられるようなことがあれば、命に係わりかねないのだ。


 ラグナは白銀の三枚羽を確かめるように広げると、大地を蹴って飛び立った。


 ラキエルはそれに続き自らも翼を目に見えるように顕現させる。シシリアに出会うまで痛みを感じていた翼は、純白のまま痛みはなかった。


 塔の天辺までたどり着いた二人は、窓のある露台に近寄り、音を立てないよう細心の注意を払い降り立つ。塔の中へ続く窓の脇の壁に背を当て、積み重ねられた石に耳を当てた。


 ひっそりと静まり返った塔は、風の音だけがしていた。


 誰もいないのかと不振に思ったラキエルは一歩部屋へと近寄る。


 静寂に満たされていた部屋は、よく耳を澄ませば微かな声が零れていた。


 それは女のすすり泣きだった。


 部屋には燭台があるのか、光がゆらゆらと揺れる先に、人影のようなものが壁に映り込む。


 声の主はシシリアだった。一人きりで泣いているのであろう。


 その声が、あまりにも悲しげでラキエルは一歩部屋へと踏み入れていた。


「おいっラキ待て」


 抑えた声で止めようとするラグナの制止を無視して、ラキエルは部屋の真ん中の寝台に腰かけるシシリアに向けて歩き出した。


 足音に気付いたシシリアが、顔を覆っていた手をどかし、視線を窓の方へと向ける。シシリアは冬の空のように蒼い瞳を大きく見開いた。


 近づく背に翼を生やした存在に驚きを隠せず、シシリアは警戒して立ち上がる。しかし、燭台の灯りがラキエルに届けば、その見知った顔にシシリアは安堵する。


「ラキエル……なの?」


「ああ……」


 驚いた様子のシシリアに、ラキエルは背の存在を思い出す。背の翼をしまい忘れていたのは盲点だった。


 ただ、すすり泣くシシリアの声が哀れに思えて、いてもたってもいられなかったのだ。


「それは翼なの?」


 信じられないというように、シシリアはラキエルへ一歩近寄る。


 ラキエルは翼を消すべきか迷ったが、シシリアが興味を示している以上説明しなければいけないと考え、広げた翼を折りたたむにとどめた。


「そうだ」


「……ラキエルは天使なの?」


 ラキエルはどう答えるべきか迷い、曖昧に頷いて見せた。


 にわかに信じられないようで、シシリアはラキエルに近づき、その翼に手を伸ばす。


 ラキエルが片翼をシシリアの手の届くところまで広げてみれば、シシリアは躊躇わずに翼に触れた。


「鳥の翼に似ているのね……」


「驚かないのか?」


「とっても驚いたわ……でもなんていえばいいのかな……とうとう、天国からお迎えが来たのかなって」


 どこか愁いを帯びた表情で、シシリアは力なく笑った。


「どうしてそう思う?」


「どうしてかしら……最近ずっと、目覚めが辛いの。命が消えてしまいそうな、そんな気分になる」


 シシリアは己の持つ力が、自身の命を脅かすものだと気付いていないのだろう。


 彼女が人を癒し続けてきた結果、シシリアは身体の衰えを感じ取るまでになった。日に日に衰弱していく実感に、遠からず死が訪れることも頭に入れていたのだろう。


 何も知らずにいるのでは、本当にシシリアは儚く命を散らせてしまう。


 ラキエルは迷った末、真実を伝えることにした。


「シシリア、君の力は神の恩寵だと教えたと思う。神の恩寵は、人や天使に大いなる力を与えるとされている。だけど君が授かったのは、水の神の治癒能力じゃない。大地母神が司る、命を授かったんだ」


「命……?」


「そうだ。その命を分け与えることにより、君は人の傷や病を癒していたんだ」


 人や天使は一つの命しか持たない。しかし、シシリアは人より多くの命を授かり生まれてきたのだろう。故に、彼女は命を分かつことによって人を癒してきた。だが、その行いはシシリアの命を削ることにも等しい。衰弱している自覚のあるシシリアの命は、限りなく少ないといっても過言ではない。


「多くの命を授かったとしても、それを与えてばかりいればやがて命は尽きる」


 ラキエルが言い切ると、シシリアは俯き自嘲気味に笑った。


「やっぱり……そうだったのね」


 薄々気づいてはいたのであろう。ラキエルの言葉を受けて確信したシシリアは、死を恐れ取り乱すような真似はしなかった。静かに、己の死を受け入れている。そんな散り行く前の花の儚さがあった。


「――だから、これ以上姉さんにその力を使わせるわけにはいかない」


 窓の反対側の壁にある扉が開かれたかと思うと、中性的な青年の声が部屋に響いた。


 ラキエルとシシリアが扉に視線を向ければ、ローティアが部屋へと入ってくるところだった。


「ローティア……」


「姉さん下がって」


 ローティアはシシリアを背に庇う様にしてラキエルの前に立ちはだかる。


 暖かな海の色をたたえた瞳は、警戒の色を濃く宿していた。


「まさか天使だったとはね。……目的は何? どうして姉さんに近づいた」


 まっすぐと濁りのない瞳で見つめてくるローティアに、ラキエルは取り繕うのは無駄だと悟る。


 同じように正面から深紅の瞳で見つめ返し、ありのままの真実を告げた。


「俺とラグナは天使だが、天を裏切り堕天した身。天から逃げる時に怪我を負い、たどり着いた小さな村でシシリアの話を聞いた。治癒能力を頼ってドルミーレの村の前で力尽きたところ、シシリアに出会ったんだ」


「堕天……? どうして?」


「話せば長くなる。ただ、俺もラグナもシシリアの敵じゃない。それは信じてほしい」


 正直に話してみても、ローティアから警戒の色が薄れることはない。


「お前たちは僕が魔導を使うのを見ただろう……悪魔と敵対する天使なら、僕を裁くのが道理じゃないのか?」


 強い意志をたたえるローティアの瞳の奥には、微かな感情の揺れが伺えた。


 それは罪悪感なのかもしれないと、ラキエルは思った。シシリアを守るために悪魔と契約を交わしたのだろう。しかし、それは人の道から外れる行い。周りのすべてが敵になったような錯覚を覚えているに違いない。


 謂れなき罪を問われたラキエルは、堕天という道を選ばざるを得なかった。神を裏切るその行為と、恩師であるディエルの悲し気な瞳を思い出す度、罪悪感はとめどなく溢れ心を苛む。堕天という罪を犯したラキエルは、引け目を感じていた。道から外れたという点で、今のローティアの立場と似ていた気がして、ラキエルは共感を覚えた。


「言ったはずだ。俺たちは天を裏切った。今は翼はあるが天使じゃない。ローティアを裁く理由もない」


「それを信じても……良いのか?」


 手負いの獣を連想させたローティアの鋭い眼差しに、不安の色が混じる。


 ローティアは一人で、戦うつもりだったのだろう。シシリアを害するもの全てと。


 年端もいかない青年一人、どれほど心細かったのだろうか。悪魔の力を借りるほどに追い詰められていたローティアに必要なのは、信頼できる者の存在なのかもしれない。


 ラキエルはシシリアへの恩とは別のところで、ローティアの手助けをしたいと思った。彼は孤独だ。それがかつての自分と重なって見えた。ラキエルにはラグナが手を差し伸べてくれた。ならば、ローティアに手を差し伸べるべきなのは、ラキエルではないだろうか。


 ラキエルはローティアの海のような青緑色の瞳を覗き込み、静かに頷いた。

 ローティアは微かに驚いたような表情を浮かべた。困惑だろうか。


 その時、ローティアの背の扉の先より、慌ただしく階段を駆け上る足音が響いた。


「ローティア様! 大変ですぅー!」


 木製の扉が開かれると、血相を変えたミーナが駆け込んできた。荒い息も整える余裕もないまま、ローティアを見つけると普段の穏やかな口調からは想像もできないほど口早に話始めた。


「ローティア様! ドルミーレの村の人がシシリア様を探してます! 王に差し出すんだって……森にもたくさん捜索の人が入ってきてます!」


「思ったより早かったか……」


 忌々しそうにローティアは毒ずくと、シシリアを振り返った。


 シシリアは青ざめた顔色で、絶句して立ち尽くしていた。それもそうだ。村人のためにと働いてきたというのに、恩をあだで返されているのだ。その悲しみは計り知れない。


「ローティア様、今すぐに出立の準備を!」


「それは無理だと思うぜ」


 窓辺から翼を羽ばたかせる軽やかな音をさせて、ラグナが部屋へと入り込んできた。


 ミーナは窓辺へ視線を向けると、そこにいた三枚羽のラグナを見つけ慌てふためく。


「えっ? 天使? 嘘、本物!?」


 ラグナの三枚羽をまじまじと見つめた後、シシリアの横にいたラキエルの背にも翼があると気付いたミーナは戸惑いのままローティアの陰に隠れるように移動する。


「ど……どうして無理だと思うんですか? っていうかラグナさんですよね、ラキエルさんも……」


「俺たちのことは気にしなくていい。窓の外を見てみろ」


 指先でラグナは窓の先の露台を指す。そこにいた者たちは皆、無言のまま一斉に窓辺へ駆け寄り、手すりの先の塔の外を見渡した。


 森のあちらこちらに、火が灯っていた。ゆっくりと移動しているそれが松明の灯りだということに気付くと、ローティアは小さく舌打ちする。ミーナは予想よりも早くに塔へと忍び寄り囲むようにして広がる灯りに驚き、同時に出立は無理だと悟った。このままでは逃げ道は無い。


「こんなに早く見つかるなんて……」


 ミーナは身をひるがえすと、廊下に続く扉を勢い良く締め、近くにあった暖炉の薪を扉の取っ手に挟むようにひっかけた。かんぬきをして少しでも時間を稼ぐべく、扉が押し開かれないように自らの背でさらに蓋をする。


「ラグナさん、ラキエルさん、こんなことまでお願いするのは忍びないですが、飛べるんですよね? シシリア様とローティア様を連れて逃げてください!」


「ミーナはどうするつもりだ?」


「わたくしは後から追いかけますぅ! 村の人たちもローティア様たちがいなければ、別の場所を探しに行くでしょうし」


「危険だ。君を置いてはいけない……」


 一人残ろうというミーナに、ローティアは首を横に振る。


 ミーナはそれでも扉を背にしたまま動こうとしない。


 ラキエルとラグナはそれぞれ翼無い人を抱えて運べるのは一人が限界だ。三人同時に運ぶことは難しい。


「ラグナ、転移で全員移動できないのか?」


 翼で全員運ぶことが困難ならば、魔術を使ってはどうだろうか。


 ラキエルが問いかければ、ラグナは難しそうに唸り、首を横に振った。


「五人を同時に長距離移動させるのは無理だ。リスクが大きい……」


 空間転移は異次元の隙間を通り移動する術。移動する距離が長ければ長いほど、異次元の隙間に滞在する時間が長くなる。最悪次元の狭間に落ちる可能性もあり、そうなれば二度と現世に戻れない。少ない人数と短い距離であれば問題ないのだが、村人の目の届かないところまでとなると、術の難易度は格段に上がるのだ。


 となれば脱出できるのは翼で運べる二人まで。


「……無理を承知で頼む。姉さんとミーナを連れて逃げてくれ」


 最善の策として、ローティアは自ら残る道を選択した。


 シシリアとミーナが無事であれば、ローティアは気兼ねなくこの場所で追っ手を撃退できる。そう考えての結論だろう。


 しかし、ローティアの言葉にいち早くシシリアが反論する。


「駄目よ、ミーナもローティアも置いていけない。私が残れば、納まるはず」


 一人犠牲になろうというシシリアに、当然のように否定の言葉が飛んだ。


「それは駄目だ!」


「それは駄目ですぅ!」


 誰も譲れないまま押し問答を繰り広げているうちに、塔を駆け上がるいくつもの足音を聞き取ったミーナは、ひときわ大きな声で叫んだ。


「シシリア様もローティア様も守るべきご主人様なのです! どうかお逃げください!」


 次の瞬間、扉を衝撃が襲った。何人かの村人が体当たりを繰り返しているのか、ミーナの背に叩きつけるような痛みが広がる。それでも逃げるようなことはせずに、ミーナはラキエルとラグナにすがるような視線を向けて、二人を連れだすようにと懇願する。


「どうか行ってください!」


「ミーナ! 離れ……」


 ローティアの言葉が言い切る前に、鋭い痛みがミーナを襲った。鈍い音をさせてミーナの腹部から現れたのは、銀色の矛先だった。頑丈なかんぬきに痺れを切らした村人が、槍で扉ごとミーナを貫いたのだ。


「ローティア様……おに……げくだ、さい……」


 槍が引き抜かれ、ミーナをはりつけにしていた杭が外れると、ミーナはローティアに手を伸ばし、よろよろと数歩進む。部屋の中央まできたところで、ミーナは糸の切れた人形のようにその場に崩れ落ちた。


 ローティアとシシリアはミーナの名を叫び、駆け寄った。


 うつぶせに倒れたミーナを、ローティアは仰向けにすると、腹部の傷口を確かめる。貫かれた腹部からは鮮血が溢れ、石の床に血の雫が零れた。


「ミーナ! 無茶なことを……」


「ミーナ、今治してあげる」


 シシリアはすぐさまミーナの腹部に手を伸ばし、癒しの力を使おうとするが、それをミーナは弱々しい手で止めた。


「駄目です……シシリア様。これ以上、力を使わないで下さい」


「そんな……」


「わたくしの、為に、命を……投げ出しては……いけません」


 シシリアの残された命が一つであるとうっすらと理解していたミーナは、シシリアの癒しを拒んだ。


「わたくし、シシリア様と、ローティア様に……お仕えできて、とても……幸せでした……」


「駄目よ、ミーナ。死なないで……」


 蒼穹の瞳に溢れる涙を拭うこともなく、シシリアはミーナの手をどけて再び癒しを施そうとする。


 その手を、ローティアが阻んだ。


「姉さん……駄目だ。次にその力を使えば、姉さんが死んでしまう」


 扉は絶えず、みしみしと悲鳴を上げ、今にも蝶番が壊れてしまいそうだった。一刻の猶予もないまま、ローティアはラキエル達を振り返った。


「頼む、姉さんだけ連れて逃げてくれ」


 絞り出すような声でそれだけ告げると、ローティアはミーナの頬に張り付いた髪をそっと払ってやった。


 扉のかんぬきにした薪がめきりと音を立てて折れると、堰を切ったように扉の先から村人たちがなだれ込んできた。ローティアとシシリアを見つけると、二人を囲むようにして各々松明や手にした武器の切っ先を向ける。ローティアは俯いたまま静かに、立ち上がった。


 ローティアの様子にどこかおびえた村人は、それでも威嚇するように口を開いた。


「ローティア気の毒だがここまでだ。シシリアは王都へ行ってもらう」


「……」


 ローティアは答えず、うつむいたまま小さな声で何かを呟く。ローティアを不審に思った村人が、矛先をローティアに向けると、ローティアは顔を上げて、腕を横なぎに払った。その腕は炎を纏い、ローティアの指先から鞭のように伸びた炎が村人を打ち据え、吹き飛ばした。


「ローティア!」


 シシリアが制止するように弟を呼ぶが、ローティアは構わず倒れた村人に一歩近寄る。


「姉さんを差し出して、助かる命は何? お前たちのような畜生にも劣る命など、必要ないだろう?」


 凍てついたような無表情のまま、ローティアは再び村人を炎で打ち据える。


「ひっ! なんだこれは!」


 ローティアを囲っていた村人の表情が恐怖に染まる。


「あ、悪魔の子だ。ローティアは悪魔の申し子だ!」


 魔導の力など、今まで一度も見たことがなかったのだろう。


 ローティアを悪魔と称する村人に、青年は心の中で毒づいた。


(僕が悪魔なら、姉さんを差し出すお前たちは何だというのだ)


 ローティアは灼熱の鞭をしならせて、感情のこもらない表情のまま村人を吹き飛ばした。


 見苦しく悲鳴を上げて逃げ始めるもの、大火傷を負って苦しみもがくもの、恐怖に動けずにいるもの。部屋が村人たちの阿鼻叫喚に染まろうとしたとき、シシリアはローティアの陰から浮き出た見覚えのあるものをみつけた。


 それは異形の悪魔だった。悪魔はローティアの陰から這い出ると、息も絶え絶えのミーナに手を伸ばす。鋭い爪の切っ先がミーナの首筋に触れようとしたところで、ローティアが振り返り、悪魔へ向けて炎の玉を飛ばした。悪魔は口元を三日月に歪ませて笑うと、ローティアの攻撃を軽くいなした。


「ミーナに手を出すな」


 牽制するようにローティアが悪魔に言い放つと、悪魔は低い声を鳴らして笑い出した。


 悪魔の存在に気が付いた村人たちは、その醜悪な姿に恐怖を抱き、矛先を悪魔へ向けたまま後ずさる。


「なんだあの魔物は……」


 にたりと嗤った悪魔は村人たちに視線を向けると、ローティアの陰から完全に這い出した。立ち上がってみれば、悪魔は天井に角先が届くほど巨大で、太い腕の先には人の腕の長さにも近い鉤爪が伸びている。長い尾の先には鋭い棘があり、山羊に似た角が生えている顔の目は、白目がなく黒くくぼんでいた。


「お前と契約して正解だった……こんなに新鮮な肉と魂は久しぶりだ」


 悪魔は低くおどろおどろしい声で言う。村人の表情が凍り付いた。


 悪魔は後ずさる村人に逃げる隙を与えず飛び掛かり、その鋭い爪で串刺しにした。血飛沫が飛び、村人の潰れたような悲鳴が上がれば、次の瞬間別の村人が串刺しになっていた。


 倒れた村人の松明が床に転がり、絨毯へ燃え移りだすと、地獄のような光景が広がっていた。

 爪先に絡みついた鮮血を紫色の舌先で舐めると、悪魔は恍惚としたように奇声を上げて喜んだ。


 突き刺し、ちぎり、肉を食らい魂まで飲み込んでいく悪魔は、恐怖に捕らわれ動けずにいるシシリアを一瞥すると舌なめずりをした。村人が誰一人動かなくなると、巨体からは想像もできない俊敏さでシシリアに襲い掛かった。しかし、次の瞬間ローティアの炎の鞭に打たれて一瞬だけひるむ。


「姉さんには手を出さない契約だ」


「さぁ? そんなもの忘れたな。神の恩寵を頂く娘、さぞやウマいだろうな……」


 悪魔が一歩シシリアに近寄れば、すかさず悪魔とシシリアの間にローティアが入り込む。


「契約を破るというのか?」


「ククク……約束など違えるものよ」


「なに?」


 獲物をローティアに切り替えた悪魔は、鋭い爪でシシリアを庇い前に出たローティアを切り裂いた。


 ローティアの胸に三本の裂傷が走る。赤い鮮血が舞いシシリアの頬を赤く染めた。目の前で繰り広げられた最悪の出来事に、シシリアは声も出せなかった。息を止めた一瞬の間に、苦し気なうめき声をあげてローティアは膝をついた。


「ローティア……?」


 悪魔が再びシシリアに目標を定めたところで、ラキエルが剣を抜き放ち、悪魔へと斬りかかった。


「シシリア離れろ!」


 悪魔は太く硬い鱗に覆われた腕で剣を受け止めたが、ラキエルの長剣は悪魔の予想を上回る鋭さを以って悪魔の腕を切り落とした。咆哮を上げて怒りを露わにした悪魔は、ラキエルの背を見て忌々し気に舌打ちをした。


「おのれ……何故天使がおるのだ」


「そんなことはどうでもいい……お前は、やりすぎだ」


 巨大な悪魔にひるむ様子もなく、ラキエルは剣に絡みついた悪魔の青い血を払う。


「これ以上、犠牲はたくさんだ」


 ラキエルは悪魔に狙いを定めると、床を蹴って駆け出した。


 悪魔は迎え撃つべく、鉤爪を降り下ろした。ラキエルは悪魔の一撃を軽々と身をひねりかわすと、悪魔の残された腕をも斬り伏せ、一歩後ろへ後退する。そのまま休む暇を与えず、悪魔の心臓目掛け止めの一撃を繰り出した。心臓を貫き、確かな手ごたえを感じたラキエルは、シシリアとローティアを一瞥すると、静かに剣を引き抜いた。


 悪魔は断末魔の叫びをあげて、後ろへと倒れた。


 床を舐めるように広がる炎が、意志を持つように息絶えた悪魔や村人を飲み込む。


 その光景を背に、シシリアがローティアに癒しを施そうとしていた。


「痛いでしょう? ローティア、すぐ治してあげるから」


「駄目だ、姉さん。力を使っては、いけない」


 苦し気にローティアはシシリアを止めようとするが、シシリアは構わず癒しを続けた。悲しみの涙を流しながら癒しの力を使役するシシリアを、ラキエルは制止することもできずそっと見守った。


 シシリアの指先から、ローティアの胸の傷に向けて光の粒子が零れ落ちる。しかし、シシリアがどんなに命を分け与えようと、ローティアの顔色がよくなる気配も、傷口が閉じる気配もない。


 ローティアはそれでも癒そうとするシシリアの手を掴んだ。


「もういい、いいんだ姉さん。ありがとう」


「どうして……どうして治らないの?」


 シシリアは始めて癒せない存在に動揺を隠せず、己の手をまじまじと見つめた。


「……悪魔と契約した者に、神の恩寵は無意味だ」


 全てを静観していたラグナが、残酷な真実を告げた。


 ローティアは知っていたかのようにこくりと頷いた。


「そのようだね」


 ローティアの胸からは止め処なく血が滲み、染み込み切れなくなった血は石床へと滴り落ちる。


 シシリアは縋るようにラキエルの服の裾を掴むと悲痛な声で懇願した。


「お願い、……天使の力で、ローティアとミーナを助けて」


 僅かな命を削ったせいか、シシリアの身体は危なげにふらついている。それでも、ローティア達を救ってほしいと、手の力は強まるばかり。


 ラキエルはシシリアの蒼穹の瞳から視線を外し、睫毛を伏せて呟いた。


「天使でも、命に関わるような傷は癒せない……癒しの術は、とても難しい」


「そんなっ」


 絶望したように、シシリアは項垂れる。そんなシシリアを悲し気に見つめながら、ローティアは硬い声で呟いた。


「頼む……姉さんを、連れて行ってくれないか?」


 ラキエルがどう答えるべきか悩むと、ラグナが答えた。


「……俺たちに目的地はないぜ? それでもいいのか?」


「……ここでなければ、いい。誰も姉さんを知らない場所へ連れて行ってほしい」


「行かない。私はどこにも行かない。ローティアとミーナと一緒にいる」


 ローティアとミーナの傍から離れまいと、シシリアは決意したように言う。


「シシリア様ぁ。行ってください。わたくしたちがお守りしたんです、……生きて、くださいな」


 苦しそうに血を吐きながら、ミーナが声を絞り出す。


 優し気な視線をシシリアに向け、ミーナは精いっぱいの笑顔を浮かべた。


「いや、私だけ逃げるなんてできない」


 頑なにローティアとミーナの傍を離れないシシリアを、ローティアはそっと抱きしめた。愛おしそうにその頬に口づけをすると、シシリアの肩を押した。


「村人がまた来る……行ってくれ」


 既に立ち上がる余力もなかったシシリアの身体は抵抗することもできずに、ラキエルの方へ倒れこむ。ラキエルはシシリアを抱きとめると、静かに頷いた。


 ラキエルにできることは、シシリアを連れてこの場を離れることだけ。傷を負ったローティアやミーナを連れて行けば、シシリアは命を削ってまで癒そうとするだろう。そうなれば、二人の犠牲は無駄になってしまう。ローティアとミーナが守り通したシシリアを生かすことが、今は最善のように思えた。


 シシリアは戻ろうとするが、身体が思うように動かず、伸ばした指も燃え移った絨毯の炎に阻まれる。手を伸ばせば届く距離のはずなのに、シシリアは炎で遮られた距離を遠く感じた。見つめた先のローティアはいつもの柔和で優しい笑みを浮かべていた。幼いころから変わらない、綺麗な笑み。シシリアは涙で歪む視界の中、それでもローティアから視線を外さなかった。


「行って」


 ローティアの言葉を受けて、ラキエルは翼を羽ばたかせる。シシリアは必死にもがくが、弱り切った抵抗は意味をなさず、次第にローティアから遠ざかっていく。


「いや、ラキエル。お願い、戻って。ローティアが……ミーナが……!」


 悲痛な声を上げるシシリアの様子に胸が痛むも、ラキエルは何も答えず、ローティア達に背を向けて露台から飛び立つ。ラグナも、ローティアを一瞥したものの、ラキエルに続いて飛び立った。


 淡い満月が空高く昇り、惨劇の繰り広げられた塔を静かに照らす中、シシリアの悲しみの慟哭だけがいつまでも消えなかった。


 シシリアの姿が遠ざかり、完全に見えなくなると、ローティアは隣で横たわるミーナをそっと抱き起した。


 ミーナはか細い息を繰り返していたが、血色の良かったピンク色の頬は今や蒼白で、口からこぼれた鮮血だけがやけに赤かった。


「よく、できましたね……ローティア様」


「ミーナ、こんな形で君まで巻き込んで、本当にすまない」


 悲し気な青緑の瞳を覗き込んで、ミーナは首を横に振った。


「いいんですの。ミーナは、ローティア様とご一緒なら、それで、いいんです」


 ミーナが小さく咳き込めば、鮮血がまた口から溢れた。


「君を檻から連れ出したのは、幸せに笑ってほしかったからだ……」


 かつて、ミーナと出会った頃を思い出しながら、ローティアは南海の瞳に涙を滲ませる。


「それ、なら……ミーナは幸せです」


 掠れる声。息をするたびに溢れる鮮血は、床に血だまりを広げた。


 それでもミーナは精いっぱい伝えようと口を開く。


「わたくし……ローティア様を……お慕い、して、いました……。どんな形でも、最期を、ご一緒で、きて……嬉しいん、ですの」


 ゆっくりと言葉を吐き出し全てを言い終えると、ミーナは優しく微笑んだ。


 母のように、姉のように、妹のように、無償の愛で包んでくれたミーナ。シシリアを守り通すために死をも厭わず悪魔と契約し、覚悟した孤独に、安らぎを与えてくれた少女。ローティアはミーナに感謝をした。


「ミーナ……ありがとう。君が一緒にいてくれて、嬉しいよ」


 その言葉を聞き終えたミーナは、満足したように瞼を閉ざす。静かになっていく呼吸が、完全に沈黙するまでそう時間はかからなかった。


 ローティアの腕の中で、ミーナは幸せそうに微笑んでいた。


 ローティアはそっと己も瞳を閉ざす。


 塔の階下から喧騒とともに大勢の足音が響く。


(もう少し、もう少しだけ……)


 ローティアは聞き取るのも困難なほど小さく呪文を唱え始めた。


 扉をの先に松明の灯りが映り込んだところで、ローティアは凍てついた海色の瞳を開いた。


◆◇◆◇◆


 次第に遠ざかる塔を、ラキエルの肩越しに見つめていたシシリアは、突然塔の最上階付近で光が弾けるようにして爆発した光景に絶句した。遅れて轟音が爆発の大きさを示すように響いた。


「ローティア……ミーナ……」


 シシリアは塔に残った二人の名を、小さく呟いた。


 空色の瞳には途方もない悲しみだけが浮かび、シシリアは溢れる涙を拭うこともせずに嘆き叫んだ。


 月夜に照らし出された夜の森に、悲しみの声だけがいつまでも木霊していた。

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