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獣の譬  作者: 灰撒しずる
山犬の瞳
8/20

経過

 風少なく、寒くとも穏やかな日が続いていた。

 あれからおよそ二年が過ぎた。私は未だカグー連峰領から出ることなく、山中の城で日々を過ごしている。それでも、あれ以後急にやることが増えた為に、時間は思いの外早く過ぎ去った。望んだ忙しさとやりがいだった。

 燕麦が実るようになって山裾の畑を広げることになり、更に寒冷地に強い作物を導入する運びとなって、春には都から馬車団で荷が届けられた。同時に家畜も数が増え、多くの食料や毛皮の類が領内で安定して手に入るようになったことは本当に喜ばしい。新しい鉱山が見つかり、開拓者を受け入れる準備が始まったのは昨年のことだ。

 友人から送られてくる手紙に、遜色ない――と言うには及ばないが、そこそこの厚みの手紙を返せるようにもなった。向こうは向こうで話題が尽きないようだが、こちらも最近では負けていない。

 吝嗇の大臣がどうにかやっている話を読み終え、一文足された挨拶で締められていた手紙を箱に戻す。目もくれず声もかけずに指先で呼ぶと間髪入れず、子供に比べても軽い、忍ぶような薄い靴音がする。

 ――拾って以降、山犬は、私からでも部下からでも、人から与えられたものは余すことなく受け入れた。食事でも衣服でも、教育でも、苦手なものはあっても、それでも厭うようなことはありはしなかった。酢漬けの野菜も襟の締まる衣服も、讃美歌も聖典の精読も、すべてを受け止めた。これ以上ないほどに従順で、蛮族とは思えぬほどに器用で賢い。文字と文法はなかなか覚えないが、会話は一年のうちに見目相応にできるようになっていた。そのうちに侍女たちも慣れていった。遠巻きながら、触れずに、しかし餌ぐらいはくれてやる。野良犬か、浮浪児でも相手にするようだった。

 そんな彼女たちも、本当に犬でも可愛がるかの男たちも、褒賞も悪態も、そして、退屈さえも、何もかも与えられるがままにシュノーは生きていた。呼べば来るし、呼ばなければ来ない。

「……今日の空はどうだ」

 放っておけば何もしないで、例の端部屋でじっとしている。何か言葉を発するどころか、物音すら立てず、ただ胸に手を当てて黙り込んでいる。瞑想する僧侶のようだとは部下たちから聞いたことで、私はその姿を見たことがない。見たいとは思わなかった。あのときのような顔をしていたらと思えば、正面に立ってやる気など起きなかった。

 そう。何よりもこれは、敬虔な信徒だった。聖典の教えを解し、それを実行することへの熱心さは、場合によっては領民の子供たちをも超えていた。聖典を読み聞かせてやる時の顔はあのときほどに眩しい面持ちではなかったが、至極穏やかだった。

 間違いなく神を知っているものの表情であるように、私には思えた。

「夕方から雪です。きっと降り続けますが、それまでは、降りません」

 傍らに寄ってきたシュノーは、相変わらず小姓のような格好をしていた。真冬の今にしては薄着だが、訊けば寒くないと答える。山野を駆けていた時代に比べれば、と言うことだろうか。眼帯を外した顔は横を向けば何と言うこともないが、鳥に食われた右目が窪みとなっている。歪に刳り貫かれ抉られ、その後丁寧に処置された傷の表面は意外なほどにきれいなものだ。

 普通なら目を引く肉の凹凸よりも無事な左目に視線が寄るのは、やはりそれが人の物ではないからだろうか。

「そうか。なら好いな――」

 山暮らしの者は皆そうだと言うが、山犬は獣らしく、人よりも随分、空模様を見るのに長けていた。山の具合を尋ねて、鈍い返事で終わったことはない。

「狩りに出よう。エフィンたちを呼べ。お前も支度だ」

 シュノーは胸に手を当てた。百合十字の隠れた胸を抱く神への証立てを、これは日に何度も繰り返す。僧侶たちより多いのではないかと思うほどに。この獣は一体、何をそのように、神に伝えることがあると言うのか。

「はい、パンジャミ」

 この犬は相変わらず、私を領主(フャーダ)とは呼ばない。どんなに言葉が巧みになっても事あるごとにパンジャミと、例の言葉で鳴く(、、)。部下が調べたところによれば、どうも蛮族の言葉で、土地の主という意味らしい。それなら領主と呼んでも代わりはなかろうに、咎めないで放っているうちにそのままになった。今更言うのも馬鹿らしい。

 それにしても、会ったときから私がこの地を預かる者だと、知っていたとでも言うのだろうか? ……問えばまた部下が困り顔をするに違いないので、それも今更口に出しはしなかった。

 逆のことを言えば、これは自らを呼ばう名が山犬を示しているのだと知っても、態度を変えることもなかった。侮辱を解する頭もないのかも知れぬと部下たちは言うが、どうだか。

 犬が黒い髪を結わえて革の帯を眼窩に押し当てるのを眺めながら、友人からの手紙の最後の一文を反芻した。彼の愉快な気分を伝えるように跳ねた文字だった。

 ――カグーに行く暇ができそうだ。やっと君の犬を見ることができる。待っていたまえ。

 何が暇か。百合の騎士が忙しくないはずも無かろうに、どのような手で捥ぎ取った暇なのだか。まあ、それは彼がこの城を訪れてから聞けば良い話だ。領主として友人として、喜んで迎え入れた後に、その騎士の不誠実をたっぷりと詰ってやろうではないか。手紙を出したのは一月は前だろうから、場合によっては、本当に来るならば、もう来る頃合いだろうか。

 ……それにしても、文字でも十二分に伝わる浮かれようだった。身綺麗で賢いとはいえ泥の輩(グラシナロ)の子供――と言うには語弊があるが――を見物しに来るのがそのように楽しみとは、都住まいの癖に持て余していると見える。吝嗇の大臣に首を掴まれてでもいるのだろうか。

 見せるほどのものでもないが、親しい彼の前で秘しておくほどのものでもない。この二年の間興味が尽きない素振りだったから、見せてやればまあ喜ぶことだろう。また音少なく部屋を出て駆けた当の犬がどう思うかは知れないが。

 狩りに出るのは半月ぶりになる。猟犬たちも退屈していることだろう。少し遊んでやらねばなるまい。

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