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獣の譬  作者: 灰撒しずる
山犬の瞳
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9/20

追憶

 シュノーを城に入れて最初の春、戯れに猟犬の代わりにしてやったことがある。馬の横に身を置き、黙って従い走る様は本当に何も、猟犬と変わりなかった。

 獲物を見つけ、それを仕留め拾い上げる腕も、昔から聞く泥の輩たちの噂に違わぬ働きだった。部下に命じて戯れに十字弓を持たせ撃たせてもみたが、弓を貸した彼らが驚嘆するほどの腕を持っていた。兎を三羽、鴨を二羽、瞬く間に仕留めた。聞けば少しばかり遊び教えたとヴラスは言ったが、それだけの技術ではないことは確かで、これが狩りで生きる蛮族の術かと感心した覚えがある。

 本当ならば仕掛け弓ではなく、指で弦を引いて放つ弓矢を使う蛮族が、そうした道具を使っているのを見るのは殊の外に愉快なものだった。賢い犬は使い方を覚えるのに手間取ってぐずぐずすることもなく、日常に用いる他の道具もどうにか使って、諸々の仕事をして見せた。やはり得意なのは狩りに関わることで、それに関してはいつも十分どころか十二分に役立った。足場の様子も空模様の急転も、他の騎士たちより早く見て取るのだから勝手がいい。

 そうして、狩りの際には必ず連れていってやるようになり――いつのことだったか。狩りを楽しんだ帰りの道で、シュノーは猟犬たちと揃って木立の奥を見て動きを止めた。声をかけても動かず、何かと思えば、顔が向いた先には苔色の羽を膨らませたあの化け鳥が歩き回っていた。産卵期で気が立っているのが目に見えた。

「シュノー」

 思いつきの呼びかけに見上げる目は獣のもの。じっと据えられたそれに鋭さはなく、狼の牙は見えない。だが、私は命じた。

「仕留めろ」

「はい」

「弓は使うな。剣で討ち取ってみせろ」

「――はい」

 瞬き、目を伏せる。怯えるかと思えばそのようなこともない。部下に請うて剣を引き抜き――切っ先が私に向けられることも少し考えはしたのだが、そのようなことも起こらず。緑に埋まった山中で奔った血に濡れず久しい刃は、光を纏って見えた。

 それについてを評する知識を、私はあまり多く持たない。友人や部下たちが打ち合いをして見せたのと、僅かな稽古だけが私の剣のすべてだった。ただ、素人目に評するならば、実に鮮やかで見事な剣捌きだった。

 駆け出し武器を構えた敵を見つけたクリクが悲鳴のように咆え、翼を広げる。その羽を削ぎ、山犬は突き出された嘴を掻い潜る。手にした剣が肉を抉り骨を砕いた。動脈が断たれて多量の血が溢れ、いつかとは違い雪のない地面に零れる。

 山犬が隠していた爪牙を存分に振るい、あの化け鳥を打ち倒す様を、私も部下も、やはり見世物のように見ていた。十字弓の扱いと同じく、驚嘆に値する振る舞いだった。

 倒れ痙攣する体に石を落とすようにまっすぐ、剣が突き立てられる。墓標のように、深く。

 兎や鴨と比べればかなりの時間と手間をかけて仕留めた鳥をどうするのか、山犬は問わなかった。噛み千切られたように無残な首を撫で、長い尾羽を二、三、引き抜いて剣と共に手にして踵を返す。

 こちらを向いた顔は、返り血でいつぞやのように赤く濡れていた。目は塞がれていない片目だけはっきりと開き、馬上で待つ主を見ている。

「あのときは何故戦わなかった?」

 城に連れ帰ってから、誰かに手ほどきさせたわけではない。大きな化け鳥を仕留めるだけの技術は、元より持っていたに違いなかった。それだのに、あの日は無残に転がされていたではないか。

「初めてお会いしたときのことですか」

 汗の滲む頬を擦りクリク鳥の血を顔に塗ったシュノーは、それを恥じ入るでもなく、仕留めた証の、毟り取った尾羽を差し出して薄く笑んだ。馬が怯えても、周囲から「蛮族め」と謗る声が聞こえても気に留めることなどない。

「あのときはただ恐ろしかったのです」

「今日は恐ろしくなかったと?」

「はい」

 それは、獣の条理か。本能で生きるものの道理か。それとも、神を知ったものの得た勇気か。

 問いに答えたシュノーの手は、胸に添えられていた。百合十字の上に。祈るように。この犬は事あるごとにそうして触れるが、幾度も胸の前で手を重ねるが、本当に神を畏敬しているのだろうか。何か違うような気もした。

 疑問こそ抱けど、日々に見えるその顔だけは、本物に見えた。疑いようもなく信心者の顔をしているように。

 あの日のよりは少ない血で汚れた顔の、目玉を残した左側を見て。その時私は、こちらも抉ってやったらあの日のようになるものかと考えていた。それとも神を知ったこの犬はそこで訪れる暗闇と痛みすら恐れることなく、諾々と受け入れ、いつかのように平伏して見せるだろうか、と。

 その私の考えこそ、蛮族と畜生のように野蛮に違いなかった。


 ある晩に、侍女たちが囁いているのを耳にしたことがある。茶飲みの遠回しな会話を噛み砕いて言えば、こうだ。

 領主は我々を試しておられる。ご自分の命で、自分たちが蛮族でも世話をするかを見ているのだ。それならばあの犬は大人しくて助かる。間違って何をしでかしたとして、噛みも蹴りもしないに違いない。犬や馬の世話をするより随分楽ではないか。

 成程と思った。確かに、とりとめのない、気まぐれそのものの私の行動は、そうとられても仕方がないのかも知れぬ。犬の扱い一つで城の者たちを見限ることなどありはしないが、突飛な行動の裏付けには十分だろう。

 そして彼女たちが言ったように、シュノーは大人しい犬だった。命じなければ誰を襲うこともない。傷つけることもない、極めて大人しい山犬。そこを見るなら、仔犬より老犬と呼んだほうが相応しいように思えた。

 そういえば――城に入れた次の秋頃には既にそうだったように思うが――その頃には、シュノーを部屋に入れても誰か他の部下が付いてくるようなことはなくなっていた。当時にはもう誰もが気を抜いて、この犬の大人しさに、呆れさえしていたのだ。武器を持たせても何もしないのだから、見張るだけ無駄な話だった。

 後のある日、火掻き棒で暖炉の火をあやしながら、今度は面と向かって、年嵩の侍女が私に言った。あの山犬は領主様がお救いになったのだからあれほど懐いていても不思議ではない、きっと長く仕えて恩を返すつもりなのですわ、と。そのようなことを。

 実の所救ったのが部下と医者だと言うのは、置いて。懐いている。これはそう言うのだろうか。犬なら尾を振るものを、人の形をして、魂はどうだか知れぬ山犬はただ黙ってすべて従うだけ。言葉ばかり達者になったが、何を考えているのだかまるで分からぬ。

 そういえば彼女も私の出自を知っているはずだから、それで一種の勘違いをしているのかも知れなかった。私の気まぐれが、何か聖なる行為であると。

 首を傾げる私に、務めて長い侍女は笑って胸に手を当て、部屋を出た。菓子をくれてやる程度には、割にシュノーに甘い侍女であった。

「お前が老いて髪が白くなろうものなら」

 その日の夜に、思ったままに呟いたものだ。暖炉の中に不要となった書状を放りながら、横に控えた山犬に。じっと耳を欹てて聞いていた犬は緩慢に顔を擡げた。黒い髪の隙間から獣の瞳が覗く。

「本当に獣のようだろうな。ん? この黒い髪も、白くなるのか」

 手負いの片側は隠れて見えない。隠す前髪を指先で摘まんで持ち上げると、変わらず影に落ち窪んでいる。

 汚れた色と思っていた黒髪は、この城に入れてからは幾分丁寧に扱われている為か、品評に出す毛皮のような艶を帯びていた。とはいえこのような色のものが、果たして白髪になどなるものだろうか。私の髪でさえ未だ色を抜かないと言うのに。

 額の上にある指を見上げ、黒い山犬は震えた息を吐いた。

「そのほうが、よろしいですか?」

 黒い犬が雪山に潜む白い毛皮の獣どものようになるとして、それまでにどれだけの時間がかかるだろうか。十年、二十年でもまだ遠い。それほどの時、私が永遠のように持て余した時をこれから経て、それでようやっとだろう。

 二十年は長い。その頃には私も老いているだろうか。その頃カグーは、都は、この国はどんな風だろうか。

 美しい、だろうか。私は何処に居て生きているのだろう。この犬はまだ隣に居るのだろうか。

「易々なれるものならなってみろ、馬鹿者が」

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