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獣の譬  作者: 灰撒しずる
山犬の瞳
10/20

終幕

 ――狩りに、と言ったが、目立った獲物も見つからず、興も乗らず。ただ山の峰と木立の成す風景を眺めては昔を思い出し、時の長さ早さを思い、ああまた本格的に冬が来るのだ、と、そんなことばかりを考えていた。灰色の空は雪を撒いて、連峰を最も見栄えのしない、退屈で厳しい季節へと変えようとしている。

 最早獲物を探す気もあまり無く、森を抜けて崖の方へと馬を進めた。かつて巨人が住んだと云う深く切り落ちた大地。深い谷底は河になっていて、落ちれば一溜りもない。今時期はもう、凍っているだろうか。

 さすがに崖の端には近づかず、ただ愛馬と猟犬を歩かせ道をふらつくだけの私に部下は皆黙って従った。山犬は少し離れた所で、他の、本当の猟犬たちに混じり歩いていた。

「今年の冬は、」

 エフィンが言った。

「雪が深くなりそうですな」

「――ああ」

 思えばおかしな話だった。カグーで雪が少なかったこともないと言うのに。

 けれど確かに、そんな気がしたのだ。例年より雪深くなる気配を何処からか感じて、新しい作物や家畜に影響が出なければよいと、極めて自然に、案じたのだ。蹄を埋めるほど積もった雪は、明日にはその足まで飲むやも知れぬと。厚く積もった雪は固くその身を繋いで、来る春の足並みを遅らせるかも知れぬと。

 笑いは白く濁る息になって襟から溢れた。

「やることが増える」

 近頃の日々は、奪われるように過ぎてゆく。今年の冬は長いだろうか。昼前に仕事を終わらせられる日が何日あるだろうか。こうして狩りに、散歩に出れるような穏やかな日がいくつあるだろうか。

 日々を埋める仕事も、合間のそうした思案も、暇を見つけての娯楽も、この一年ほどは、どれもがよい手触りで手中に収まっている。私はこのカグーを愛しているのだと、実感していた。信頼に足る部下たちが集った城も、灰色に濁った冬の峰も、凍てつく中で微笑む領民も、皆愛おしいのだと。

 強風が谷底から吹きつけ、髪と帽子の毛皮を揺らして視界を奪った。粉雪が渦を成す中で、カンと何かを打ちつける音が聞こえ、黒い影が視界の端を横切る。

 それは山犬の横顔だった。灰褐色の片目は、温い考え事に氷でも刺し込むような鋭さで――緩やかな斜面の先を睨んでいた。心臓が跳ねた。

 また音が鳴った。覚えがある。十字弓が矢を吐く乾いた音だ。雪の積もった地面に矢が突き刺さり、馬が怯えて嘶いた。手綱を引き、山犬の目の先を追いかける。その先にクリク鳥の幻影を見たのは束の間のこと。

 魔物の代わりに木立に立つあの姿は、王の使者ではあるまいか。馬に跨った長躯の男と、その付き人が、今日は八人。背の高い男が構えた十字弓の矢の先は、私を向いているように見えた。

 音。矢が馬の胴を射る。暴れた馬の上で天地が回り、衝撃が肩を打った。冷たい地が顔に触れる。帽子が落ちて、耳も頬もすぐに冷えた。

「アナトーリ様!」

 恐らく、部下たちも私と同じに考えたのだろう。何故、王の使いが私を撃つのか。何がどうなっているのか、考えたのだろう。

 その中で山犬だけが、何も考えなかった。何故かと言えば、神は教えたが、王とその威光については誰も、何一つとして教えなかったからに違いない。何も考えずに、山犬は敵に牙を剥いたのだ。

 鳥を仕留めろと命じたときのように、微塵の恐れもなく、怯えもなく。強風に矢が流されると知り、剣を抜き斜面を駆け下りてくる騎士たちに向かい、剣を抜いたのを見た。

「アナトーリ様、お抜きください!」

 次々に鞘走る音が続いた。連れ立てた皆が得物を引き抜き、エフィンが呆然と雪に塗れた私を引き起こす。締め付けるように打つ鼓動と痛む呼吸が耳を塞ぐ。

 正直、呆けていたのだ。襲われることなど今までほとんどなかったのだ。王の庇護得た都の中と、この平穏な山奥以外、長居したこともないのだから。

 打ち合う音と馬の嘶き、犬の悲鳴と咆哮が、底から吹きつける谷の風に混じる。私の騎士が馬を駆りたて使者に向かう背を見、震える手で剣の柄をとった。

 子供の遊びに等しい剣の腕が、この場で何の役に立とう? 長らく書を認め判を押し続けるだけだったこの手が、誰を屈服させることができようか。領主として、騎士の主としてできることは、勲功を信じて待つことだけではないか。王の輝きを掲げる者に臆せず向かった彼らを。

 先頭に立っていたあの男を馬上から引きずり下ろしたのはシュノーだった。肩には矢が突き立っている。最初の矢に違いない。私の体を射ぬくはずだった、奇襲の矢。よく気づいたものだ。大した鼻だ。城に戻ったら、あれも褒めてやらねばなるまい。

 上等の狐を使った外套を引き裂き、足に刃を突き立てる。血を撒いた男の剣がシュノーの眼帯を貫いて顔の端を削ぐのが見えた。次には腱を断ち、手から剣を奪う。雪に刺さった剣はあの化け鳥の墓標のようだ。

 勝敗は決した。それは私の目にも明らかなことだった。剣を失った者と、王の使者を仕る騎士とでは、比べるべくもない。叫ぶ声は何を言っているのか知れたものではない。あれはきっと、蛮族の言葉ですらなく、戦う者の雄叫びなのだろう。腹を捌かれて血を吐いたその後も続き、風の中に消える。

 ああ、剣を失ってなおしがみつき喰らいつく様はまったく、獣の様だ。あれほど深く切られて動けるものなのか。やはり獣はしぶといのか。

 何が、あれを駆り立てるのか。見つけた時は目から血を流して諦め転がっていたお前が、腸を引きずりながら、死にながら挑むのは何故だ。何故恐ろしくない?

 お前のその瞳は何を見ているのだ、山犬(シュノー)

 雪が躍り、風は木立を吹き抜ける。冷気はこの世の緩み撓んだ部分を拭い、弓の弦のように張り、研ぎ澄ました。だというのに、時が過ぎるのが遅い。張り詰めたその上で、王でも触れられぬ、と賢者の云う永遠に、自分は触れたのではないかと思うほどに。

「畜生めが!」

 罵る声がやけにはっきりと耳に入った。雪の上を転がった創痍の長躯が大きく腕を振り上げ、追いすがるシュノーに剣を叩きつける。毛皮を掴んでいた手から力が抜けて滑り落ち、落ち切るのを待たず、男は骸のように草臥れた体を引き掴み、鋭い風の声で喚く谷に放り込んだ。

 いつかのようにぐらりと頭が揺れ、黒い毛が揺れたのを見た。瞳は見えなかった。人形を投げたように小柄な体が捻じれて、落ちていく。

 雪の上には血の跡だけが残った。生きてはいまい。生きていたとして、底に触れたところで心の臓が止まらぬはずがない。この谷は深く、底には河が流れている。今は既に凍っているか。

 荒れた息で膝をついた男の首に、エフィンの剣が据えられた。見れば辺りの戦いは既に終わっていた。私の、私に仕える騎士たちの勝利だった。手負いの者こそ居るが、命を落とした者は居ないようだった。

 部下たちは皆敵を打ち倒し私の命を待っていた。一人が私の手を取り、さあと促す。頷いて前へと進んだ。靡く髪が邪魔くさく、多くの足跡が乱れる雪の上は、歩きづらいことこの上なかった。

「蛮族を従えるとは、さすがは卑しき者よ」

 部下たちに寄り添われて前に立つと、男は私を見上げて笑った。その言葉が風のように冷えているのを感じながら、顎で命じた。エフィンが男の髪を掴んで、その首を晒す。いつかよりも感情の浮いた手つきだった。そのまま引きずり回すのではないか、と、案ずるどころか少し期待した自分に驚いた。

「誰だ! 貴殿を嗾けたのは何処の者か。国王の命ではあるまい。――答えよ!」

 主の代わりに問うたのはヴラスだった。ああ、そうだ。王が私を殺したいのならば、このような賊紛いの行いをさせることもないだろう。私を都に呼び出し、そこで首を刎ねさえすれば済む。私が抗うこともないと、あのお方は知っているはずだ。

 詰問にも男は笑った。血濡れ、結い髪も乱れた姿では、どれほど元が上等でも王の使いには見えなかった。多くの騎士に取り囲まれている姿は、それこそ卑しい賊のようだ。

「……不貞の尼僧の子が、罰せられるべき不徳の息子が、このような地で領主などを務めてよいはずがないではないか」

「貴様――」

 私への侮辱に声を荒げたのは周囲のほうで、私自身には何の感慨も齎さなかった。そのように言われたのは初めてだが、心当たりがないわけでもない。どうやって知ったかは知れぬが、確かに私は、このような仕事を預かるに相応しい高貴な血筋ではなかろう。

「それがこの事の理由か?」

 尋ねても男は笑ったままだった。思えば見下ろすのは初めての顔だ。大男の身の丈も折ってしまえば印象に残るものではないから、凡庸な顔立ちは、すぐに思い出せなくなるに違いなかった。

 彼は既に、王の使いではない。それは間違いのないことだ。口にした理由で殺そうと思ったと言うのなら、王は私をとうの昔に殺してしまっているだろうから、これは間違いなく他者の命で動いている。では誰の手の者か、確かめ、報告申し上げる必要があった。それは臣下としての務めだ。王の代わりとして土地に立つ者に刃を向けた不届き者が誰なのか、判を押すように、カグーについてを知らせるように、このことについてもいつもの通りに、やってみせる必要がある。

 ああ、王が居られて良かった。そうでなければ私は、そうして事を確かめる前に、彼を殺してしまっていたことだろう。

 自らの使命を見失い、王に、国に、神に楯突き、私の愛するカグーを踏み荒らしたこの男を、その主を。ようやっと新たな活動を始めた連峰から主を奪い、民から安寧を取り上げようとした彼らは、まことに許しがたい。私を狙うとはそういうことなのだ。侮辱よりも何よりもそれが腹を煮えさせた。

 外気に晒され粟立つ男の首には、深く醜く抉れた爪痕が残っていた。山犬の遺したものに違いない。触れると血が線を引く。はてどちらの血であろうかと知れたことを考え、顔に塗りたくろうと動きかけた指を折り込む。

「……王に背いたこと、悔いるがいい。出過ぎた真似をしたのだ。貴殿が殺したのは山犬一匹。その程度だったのだ」

 生きている犬たちの唸りと咆え声がけたたましい。噛み殺せと命じれば、私の猟犬たちはやってくれるだろうか。山犬が生きていたならば、やったに違いないと思うのだが。

 そういえば、谷に落ちた時、あの獣のような目は開いていただろうか。あの山犬の瞳は、何かを見ていたのだろうか。神はあの蛮族をお救いになったか。訊いてやる先もなく、吐いた息はただ濁って消えた。

「無事か、アナトーリ!」

 蹄の音と共に聞こえたよく響く声に見遣れば、友人が、このような場所よりは都に似合いの顔と格好で佇んでいた。先に不届き者が立っていたのと同じ場所で、私は彼の得物の先が、私を向いているのではないかと気にせずには居られなかった。

 友人の目に、私はどのように映っているのだろうか。人を殺しそうな顔をしていなければ良いが、正直自信がない。

「帰るぞ、お前たち。――丁重に扱え」

 降る雪が増した中を駆け下りる彼を眺めながら、独り言のように命じた。誰も聞きこぼしはしなかった。

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