四
「おーい」
そのとき、いきなり耳元で英助のはっきりした声が響いて、嶋村はぎょっと目を見開いた。咄嗟に両腕を顔の脇にかかげて、降参の姿勢を取る。
まだ何もしていないのに、と。
思わず小さな声で悪態づいた嶋村の声には気付いていないのか、英助は焦点の合わない目をごしごしと擦って不明瞭な声で呻いた。
「もーうっさいぞハナコ~」
「は?」
す、と伸びてきた英助の手が、嶋村の頭部をくしゃりと包み込む。
「わ、なに、え」
「いいこー、いいこー」
そのままぐしゃぐしゃと掻き回され、そこで嶋村は自分が何か別のものと勘違いされているらしいという事実に思い至った。
茫然とされるがまま、いまだ半分寝ているような英助の様子をじっと窺う。
乱暴と言ってもいいくらいの力強さで触れてくる英助の指は、驚くくらいに遠慮がない。
親しみを感じさせる英助からの強引なスキンシップに、嶋村は戸惑いながらもどこかで喜んでいる自分を自覚した。
酩酊しているとはいえ。
何か別のものと勘違いされているとはいえ。
こんな至近距離で頭を撫でられて嬉しくないわけがない。
嶋村はついつい緩みそうになる口元を手の甲で覆い隠して、さ、と顔を反らせた。
顔が熱い。耳も熱い。
「に、西松くん、さ」
これ以上のスキンシップは自分にとっても英助にとっても危険だ、と。
そう判断して離れようとした嶋村は、だが次の瞬間、ぎょっと全身を硬直させた。
「ハナコ~さっさと寝ようなあ」
人の言葉など聞いてはいない英助は、そう声高に宣言するや、撫でまわしていた嶋村の後頭部を力強く引き寄せた。ベッドの上で体勢が崩れて、嶋村は引き寄せられるまま英助に凭れるような形でよろりと傾く。
「え、わっ」
「はい、おやすみおやすみ」
ぽふ、と。
頭を包み込むように抱きしめられて、ぎょっと全身が凍りついた。
暖かい英助の胸元に触れる頬が。
髪を撫でる英助の指が。
その何もかもがリアルすぎて、もはや息など出来なかった。
身じろぎ一つ、出来ない。
「ちょっ、まじでっ?」
英助は嶋村を抱きしめたまま、満足げな様子で再び横になってしまった。
こちらの動揺や困惑などお構いなしに、あっという間に規則正しい寝息が嶋村の頭上から聞こえ始める。
自分を抱いたまま寝るのか、と愕然としてしまった。
「なに、これ、え、まじ、え」
英助を抱きしめ返すこともできない嶋村の両腕が、行き場をなくして虚しく宙に浮く。
ともすれば暴走しそうになる、この腕を一体どこにやればいいというのか。
「これ誰得だよ」
英助に抱きしめられるという御褒美はこの上ないほど嬉しいが、抱きしめ返してはいけない、となるともはや拷問以外の何物でもない。
嶋村はとりあえず英助を挟みこむような形で、そっと両腕をベッドの上に置いた。
密着してしまわないようにゆっくり身体を起こすと、力の抜けた英助の腕がシーツの上にぽとりと落ちる。
上から見下ろした英助の寝顔に、ごくり、と喉が鳴った。
さっさと英助の上からどいてしまえばいいものを、それも出来ずにこうしてグダグダしているあたり、自分は本当に西松英助という青年に惚れてしまっているらしい。
改めてそんなことを自覚して、嶋村は重たい溜め息を吐き出した。
好きだからと言って無暗に告げていい感情ではないし、告げたところで実るようなものでもない。ならばいっそのこと、と自暴自棄になって目の前の据え膳を強引に頂いてしまえるのか、と言えば果たしてそんな気概もない。
自分がヘタレであるということくらい、自分で嫌というほど分かっている。
「勘弁してくれ」
小さな声でぼそり、と呟く。
触れたい、と願う、紛れもない恋愛感情がゆるゆると加速していく。
触れたい。
触れたい。
触れたい。
耳の奥で唸る心臓の音が煩かった。まるで太鼓を打ち鳴らすかのような強い鼓動に、眩暈でも起こすような気がした。
抱き合っているわけでもなければ、触れ合っているわけでもないのに、腕の中に英助がいて、そして穏やかに眠っている、というだけで、こんなにも全身が高揚してしまう。
それは、きっと自分が知ってしまったからだ。
たった一瞬の、事故のような出来事だったとはいえ、西松英助という男に抱きしめられ、その身体の暖かさを身をもって感じてしまったから。
それが、何よりまずかった、と。
嶋村は、ひゅ、と短く息を飲み込んだ。
僅か五ミリの誤差だった。
寸止めになるのとならないのとでは大違いである。
雲泥の差である。
嶋村は、一度強く瞬きをしてから震える吐息を小さく吐き出して、自分の下ですやすやと眠る英助を見下ろした。
濡れたままになっていた嶋村の髪がひと房だけ前に落ちて、そこから零れた水滴が英助の頬の上で小さく跳ねる。
ぴくり、と。
英助が僅かに身じろいだ瞬間。
鼓動が、体温が、呼吸が、何もかもが一気に振り切れた。
嶋村は、自分の中で何かが音を立てて崩れるのが分かった。
「――っくそ!」
だが、乱暴など出来ようはずもない。
こんなに好きな男をどうすれば酷く扱うことができるだろう。
嶋村は切れた理性の糸を必死に手繰り寄せ、なんとか強引に英助の身体の上から自分の身を起こした。
深い眠りについた英助の、その薄く開いた唇から洩れた微かな吐息を聴いただけだ。
たった、それだけのことで反応してしまった自身の情けなさに泣きそうになりながら、嶋村は逃げるようにトイレへ駆け込んだ。
「なんなんの、ほんと、もう無理」
情けない声を発しながら、後ろ手に閉めた扉に凭れて、ずるずると床に崩れ落ちる。
涙が出そうだ、と思った。
本当にいっそのこと泣いてしまいたかった。
「……んだよ、勃ってんじゃん、うける」
はは、と震えた声で笑えば、一気に虚脱感が襲ってきた。
想定外にも程がある。
一瞬で縮めてしまった五ミリの距離はあまりに危険過ぎて、あれほど待ち望んでいたはずの想い人の体温は、息がとまるほどに熱かった。
その熱が。その想いが。
こんなにも、震えるほどに苦しい。
嶋村は喉の奥まで込み上げた黒い塊を強引に飲みこんで、強く、強く、目を瞑った。
好きだ、という感情と共に。
* * *
目蓋の裏で白い光がちらちらと瞬いたような気がした。
目を瞑ったまま気だるい身体をごろりと横に倒して、肩までかかった布団を顎まで引きあげる。首筋を包む柔らかいシーツの感触が気持ちいい。
ゆるゆると浮上していく意識と共に、西松英助は重たい瞼をゆっくりと持ち上げた。
カーテンの隙間から差し込んでくる日の光が眼に染みる。
瞬間、後頭部の奥に突き抜けるような痛みが走って、思わず英助は眉をしかめた。
シーツにくるまりながら無心でいると、徐々に視界が開けていくにつれて今度は得も言われぬ違和感が押し寄せてくる。
見知らぬ景色。
見知らぬ匂い。
そして、見知らぬシーツの感触。
どこだ、ここは、と。
目の奥の痛みをこらえながら英助はゆっくりと上半身を起こした。
綺麗に片づけられた部屋は必要最低限の調度品しかなく、モノトーンで埋められた部屋はまるでモデルルームのようだと思った。
使い込まれた本棚とパソコンだけが、嫌にリアルな気がする。
「…、え……?」
ほんの僅かだけ、声が零れる。
喉の奥が不快なまでに乾燥していたり、後頭部がズキズキと痛むのは、昨夜の深酒のせいだとすぐに思い至ったが、いかんせん記憶が追いついてこない。
何故、自分がここで寝ているのか、まるで思い出せなかった。
そして、自分が身にまとっている服にも驚愕した。
洗剤の匂いがする黒のスウェットは着心地も良く、サイズにもまったく違和感はないのだが、そもそも見覚えのないものだった。
誰のだよ、と。
心中で呻いたところで、ふわり、とコーヒーの香りが漂ってきて、英助はぐるりと首を巡らせた。
「おはよう。すごい挙動不審だけど」
「え、え?」
「わかる?」
「……し、しま、しまむらくん」
手に大きめのマグカップを二つ持って、にこりと笑う青年に英助はあんぐりと口を開けた。黒い丸首のシャツにブラックジーンズ。いつもと同じ格好だが、普段より少しラフな印象を受けるのは、その髪が僅かに乱れているからだろう。
どういうことだ、と。
慌ててベッドを下りようとした英助を、嶋村は片手で制して苦笑した。
「いいよ、まだゆっくりしてれば」
「え?てか、え?なに、これ」
「砂糖ミルクはありあり?」
「え?」
マグカップを翳して、嶋村は微笑む。
なんだか驚くほど嶋村がテキパキとしているように感じるが、それはきっと嶋村が機敏になったのではなく今の自分がトロすぎるのだろう。
「あー……りありで」
英助はごしごしと両の目を擦りながら低い声で答えた。
調子が狂う。
思考が空回る。
「え、とさ。ごめん、俺、まじ」
「覚えてない?」
「うん」
首を縦に振った英助の脇、黒いガラスのローテーブルに白いマグカップが置かれる。
暖かな湯気を立てるそれを英助はただ茫然と眺めた。
ゆっくりと首を傾けて見上げた先では、いつもと変わらない嶋村が立ってコーヒーを飲んでいた。
「し、しまむらくん!」
「どうぞ。飲みな」
「お、おう」
英助はマグカップを両手で掴み、そっと唇を寄せた。
暖かい。
甘いミルクの風味が、口いっぱいに広がる。
「ここ、嶋村くんち?ですか?」
「そう、俺んち。昨日、西松くんすごい酔っぱらって俺のバイト先に来たんだけど覚えてない?」
告げられた衝撃の事実に、英助はぎょっと目を見開いた。
「それ、マジで?この服も嶋村くんの、だよね?」
「うん、汚れちゃったから西松くんのは勝手に洗濯しちゃってる」
「え、なに、俺、吐いたの?」
言いにくそうに苦笑する嶋村の表情を見れば答えなど聞かなくとも分かってしまった。
次々に明かされていく自分の失態に英助は深く項垂れる。
だが、確かに言われてみれば納得することの方が多かった。
身体は妙に気だるいし、頭は割れるように痛むし、喉は酷く乾燥している。
まさに吐くまで呑んで泥酔した翌朝の症状である。




