三
「吐く」
「え?」
「だめ、もう無理、吐く」
それだけ告げた英助は、道路横の植え込みに足早に歩み寄るや、胃の中に溜め込んでいた内容物をひたすらに吐き出し始めた。
慌てて駆け寄った嶋村は、苦しそうに丸められた英助の背中をさすりながら、ひっそりと溜め息を吐いて肩を落とす。
好いた相手なだけに捨て置けない、という良心がどうにも遣る瀬無かった。
「西松くん?どう?」
苦しそうに嗚咽をして、英助はただ首を横に振る。
その目尻に溜まった涙も、苦しそうに喘ぐ口元も、こんな状況でなかったらきっともっと可愛いと思えたはずなのに。
嶋村はそんな不謹慎なことを考えながら英助の背中を無心でさすり続けた。
「ごめ、も、平気」
ややあってから、よろめきながら英助が顔を上げると、嶋村はそれに合わせて英助の背中から手を離した。その瞬間、ぐらり、と身体が傾ぐ。
「西松くん!」
咄嗟に腕を伸ばして英助を支えるが、もはや自重すら支えられなくなっていた英助は嶋村の腕に引き上げられながらも、ぐにゃりと膝を折った。
「あーやばい、膝がくがくする」
血の気の失せた顔で苦笑した英助のしまりのない顔を、嶋村は困ったような顔で茫然と見下ろした。
ポールにもたれかかり身体を弛緩させた英助は、まるで今にも寝てしまいそうである。
俄かに焦って、嶋村はその肩を強く前後に揺さぶった。
「まずいって、西松くん、起きて!ここじゃダメだから」
「え…」
「え、じゃなくて起きて帰るよ!」
「もう眠いよ」
そんなことはわかっている、と嶋村が言う間もなく英助は瞼を閉じてしまい、嶋村はぎょっと顔を強張らせた。
まさかこんな路上で寝はじめるほど酔っているとは思わなかった。
「ちょ、西松くん!起きて!起きて!」
だが、嶋村の呼び声もむなしく、一度、寝の体勢に入ってしまった英助の反応は薄い。
うーん、だの、あー、だのと意味をなさない呻き声を漏らしながら、どんどんとその身体が横に傾いでいく。
「うっそ、まじ勘弁」
ついに自らで支えることを放棄した英助の身体がぐらりと傾き、それを寸でのところで受け止めた嶋村は、寝こける想い人を茫然と見下ろした。
一体、自分にどうしろと言うのか。
思わず、げんなりと溜め息が漏れる。
嶋村は無警戒にも路上で寝始めてしまった友人の傍らにしゃがみ込んで、その柔らかい髪の毛をぐいぐいと引っ張った。
起きる気配は微塵もない。
「西松くん、せめて家がどこかくらい言ってよね」
そうしたら、せめてタクシーでも拾って押しこんでやったものを、と思ってから、はたと自分の財布に三千円しか入っていないことを思い出して嶋村は苦笑した。
どのみち無理だったか、と思い直して、だらしなく弛緩した英助の両腕を肩に担ぐ。
「西松くん、おぶるよ、ほら!」
「うー」
「うー、じゃねえよ、まじ、おもっ!」
ぐい、と引き上げて、よろめきながらもなんとか英助を背中に乗せると、嶋村は暗い路上をのんびりと歩き始めた。
こうなってくると、自分の借りているアパートがこの近所で本当に良かった、と思う。
さすがに成人男子の重さを背中に背負って歩くのは容易いことではないし、ましてや酩酊して意識のない相手の体重ともなれば、予想以上に重たくて当然である。
こんな状況でもなければ、幼馴染のミカ子に自慢の一つでもしてやりたいと思うくらいの密着度なのに、ただの介抱役に成り下がってしまっている今、自慢どころか悔しすぎて愚痴すら零したくなかった。
少しくらい役得のようなものがあったっていいじゃないか、と嶋村は誰にともなく文句を吐き出しながら、重たい荷物をおぶって夜道を歩いた。
嶋村の借りているアパートは、駅と大学を直線で結んだ、ちょうど中間あたりに位置している。団地と戸建ての密集地を少し外れたその立地は、日中でも交通量が少なく物静かな雰囲気で、嶋村はその静けさが殊のほか気に入っていた。
道路を挟んだ真向いには滑り台とブランコと僅かな砂場のある小さな公園があって、地元の子どもたちは良くそこで遊んでいるようだった。
何より、三階建てのアパートの一階に並ぶコンビニエンスストアとコインランドリーとクリーニング屋の存在が何にも代えがたい使い勝手の良さで、これがこのアパートを借りると決めた最大のポイントでもあった。
本当はダメなんだよ、と苦笑しながら余りの弁当を気前よく分けてくれる気の良い親仁がコンビニの店長で、嶋村も大学に入学してからこっち何度かその好意に甘えてしまっている。
英助を背負って、なんとか嶋村がアパートの前まで辿り着くと、その日も勤務だったらしいコンビニの店長が恰幅の良い腹を撫でながら店の前で煙草を吸っているところだった。
「お?おお、なんだすごい荷物じゃないか、嶋村くん」
嶋村の背中で眠る大きな荷物を見やって声をかけてきた店長に、嶋村は小さく頭を下げて苦笑を返す。落ちかけた英助をやっとこさ担ぎ直す嶋村を、店長はにこにこと笑って見守っていた。
「お友達かい?」
「大学の同級生なんですけど、今日飲み会で」
「潰れちゃったのか。上げるの、手伝おうか?」
店長は傍にあった灰皿で煙草の火を消すと、汗だくの嶋村を慮ってか、階上を指差して笑った。額に滲む汗をさっと拭って、嶋村は小さく首を横に振る。部屋はすぐ真上だし、ここまで来てしまえばもう階段くらいどうということもない気がしていた。
「いや、大丈夫です。ありがとうございます」
「弁当はどうするね?持っていくかい?」
いつもの温情にも苦笑で首を横に振り、嶋村は気の良い店長に短い挨拶を交わすとゆっくりと階段を上っていった。
コンビニエンスストアのちょうど真上に位置する嶋村の部屋は二〇一号室で、そこからアパートの端まで横一列に二〇六号室まで連なる。
入居者は、独り暮らしのサラリーマンや、嶋村のような学生、若い夫婦など様々だ。それら住民の迷惑にならないよう物音に気を遣いながら嶋村は自室のドアを開けた。
ずり落ちそうになる英助を何度も担ぎ直すのはさすがに骨が折れ、ようやく自分のベッドに英助を下した時にはひどい汗にまみれていた。
「……まじ、疲れた」
誰にともなく低い声で悪態を零し、嶋村はぐるりと肩を回す。
人の気も知らずのんきに寝息を立てる英助をちらりと見下ろしてから、嶋村は腕に引っかかるようにぶら下がっていた自分の荷物を床に放り出した。
やっと終わった、と思うと一気に疲労感が押し寄せてくる。
英助は当分起きないような気もするし、先にシャワーを浴びてきて一先ず汗を流したい、
と嶋村は汗を吸い込んで湿ってしまったシャツを脱いだ。
居住スペースとして嶋村がシングルサイズのパイプベッドを置いている部屋は八畳余りのワンフロアで、ベッドの他にはデスクと腰高の書棚、食事用の小さなローテーブルがあるのみの手狭な空間だったが、ぐるりと手の届く範囲に全ての物が揃っているこの環境が実はそこまで嫌いではなかった。幸いにも、キッチンやトイレ、バスといった水回りがきちんと分かれているから使い勝手は悪くない。
嶋村は脱ぎ捨てたシャツを片手に、来た道を引き返して二人並ぶことが難しいくらいの狭い廊下を一人とぼとぼと歩いた。
廊下の半ばに置かれた洗濯機にシャツを投げ入れ、嶋村は洗面所に入って後ろ手に扉を閉める。そのドアにもたれ、はあ、と長く嘆息をした。
「なに、これ。俺のベッドにいるじゃん。どんなだよ」
くらり、と目の前が揺れた気がして、嶋村は両手でその顔面を覆った。
恋焦がれてやまない人物は、無警戒にも大口を開けて、自分のベッドですやすやと寝ているというのだから、これは一体どんな拷問だ、と。
嶋村はまるで逃げるように、衣服を脱ぎ去って浴室に飛び込んだ。
彼がそこで寝ている、と冷静に考えれば考えるほど邪な感情が湧き上がってきて、ともすれば健在な成人男子の身体が今にも反応を始めてしまいそうだった。
いい加減にしろ、と自嘲気味に呻いて、嶋村は勢いよくシャワーのカランを捻る。
打ち付けるように降りしきる冷水を頭からかぶっても、それでも、彼に恋焦がれる気持ちだけは決して冷めやらなかった。
** ** **
ぽたり、と髪から滴り落ちる水滴をバスタオルで拭いながら、嶋村はそろりと窺うように室内を覗き込んだ。
Tシャツ一枚下の心臓が今にも突き破って出てくるのではないかと思うくらいに強く鼓動を刻んでいる。
盗み見るように視線をやった先では、英助が自分のベッドで熟睡していた。
よほど眠かったのか、その姿勢は嶋村がシャワーに向かう前と、まったく変わっていない。
静かに寝息を立てるその穏やかな寝顔に、安堵と同時に得も言われぬ緊張がじりじりと込み上げてきた。
なにせ、とても綺麗なのだ。
伏せた睫毛の落とす美しい陰影も、柔らかな髪の毛が描く優美な曲線も、それと対を為すようにすっと通った鼻梁の涼しげな様子も。
まるで精巧な作り物のように美しい。
嶋村は、ぺたりぺたりと素足でフローリングを渡り、自らのベッドにゆっくりと歩み寄った。
起きる気配のない英助の傍らでゆっくりと膝をつき、上から覗き込む。
「に、西松くん……」
そっと呼びかけるが案の定反応はなく、穏やかな寝息だけが返ってきた。
着替えさせたりした方がいいのかもしれない、と嶋村はちらりと自らのクローゼットの方を見やった。ちょうど洗い替えしたばかりのジャージが出来上がっているから、英助の着替えには困らない。
唯一、問題があるとすれば、それは嶋村自身のほうだった。
中学生でもあるまいし、多少の理性は残しているつもりだが、何せ、西松英助が相手である。
最初で最後かもしれない、というくらいにはきちんと恋をしている相手である。
果たして、自分は最後まで邪な気分にならずに英助を着替えさせることができるだろうか。果たして、自分にその男気があるだろうか。
嶋村は、熟睡する英助を眼前に、何度も思考を行ったり来たりさせながら呻いた。
だが、このまま朝まで寝かし続けたのでは英助の服が皺になってしまうし、なんせ今の状態では苦しそうである。
「い、言い訳くさいか?」
誰にともなく独りごちてから、嶋村は意を決したように立ち上がり、自身の衣装ダンスから黒いジャージを一着引っ張り出した。
もし、自分が仮に英助の立場だったとしたら、きっと楽な格好で寝たいし、服に皺がつくのは避けたい、と思うに違いない。
それが、嶋村の出した最終的な結論であった。
「西松くん、着替えるよ」
小さく声をかけて、英助のパーカーの前を一気に開く。
こういうのは、チンタラしているから逆にやましい気分になるのであって、介護か何かだと思って素早くやってしまった方がいいに違いない、と。
嶋村は何度も胸の内で念仏のように唱えた。
寝息を乱さないように、そっと英助の身体を持ち上げて片袖からパーカーを抜き去る。
起きる気配はない。
それをちらりと目の端で確認して、嶋村は英助を横向きに寝返らせると、ずるずるとパーカーを抜き去った。
さて問題はここからである。
悠々と眠る英助はジップアップのパーカーの下に、丸首のピンクのTシャツを入れていた。前開きの服は割と脱がしやすいのだが、Tシャツばかりは相手の協力なくしてはそう容易に脱がせられない。
やはり、ここは一旦英助の身体を起こすしかないだろう、と結論付けた嶋村は自らもベッドの上に腰かけた。
「西松くーん、起こしたらごめんねー」
嶋村は小さな声で呼びかけてから、壁の方を向いて静かに眠っている英助を抱き起した。
間近に感じる西松英助という男の感触に、心臓が激しく打ち震える。
訳もなく無駄に深呼吸ばかり繰り返している自分に気付いて、嶋村は内心で苦笑するしかなかった。自分でやっておきながら、この動揺は一体どうしたことだろう。
「あーでも、意外にしっかりしてるんだよな」
嶋村は抱きとめた英助の身体をちらりと見下ろして、思わずそう零した。
すらりと伸びた長い手足も印象的だが、それを抜きにしても、英助は全体的にスレンダーな体型をしており、見た目に華奢なイメージを与えがちである。だが、身長だって標準より若干小さい程度で気になるほどのものではないし、しっかりと筋肉もついている。それは背中におぶさったときも感じたことだったが、正面で抱きとめるとその意外とも言える質量がより一層はっきりとわかる。
穏やかな英助の寝息を首筋に感じる距離で、嶋村はごくりと息を呑んだ。
このまま抱き締めるくらいは許されるだろうか、と。
何か見えない引力に引きずられるかのように、嶋村は英助の背中にじりじりと腕を回した。ゆっくりと近づいてくる、その瞬間の熱い期待に、くらりと視界が揺れる。




