二
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台車の上に乗せた段ボールが、ちょうど胸の高さくらいまで積み上がったところで、嶋村時生は前屈みに折り曲げていた背中を大きく伸ばした。
軋んだ音を立てる背骨に思わず眉を顰める。
だが、次のひと箱を台車に乗せたら、今日の返品の段ボールは最後だった。
「嶋村くん、搬入来たみたい~」
「了解です!」
店の入り口付近にあるホビー雑誌の棚で作業している店長ののんびりした声に返事を投げて、嶋村は最後の積み荷を持ち上げた。
重い。
ずっしりと腕にかかる負荷に、苦い表情で歯を食いしばる。
そもそも、この本屋の仕事は好きで始めたことだったし、進学に合わせて書店こそ移動してしまったが、高校に通っていた頃からずっと続けているアルバイトだった。
派手すぎない業務内容も自分に合っているし、何せ本好きの自分には天国のような環境である。低賃金というマイナス要素を加味したとしても、概ね不満はなかった。
だが、この、こと返品作業に関してだけ言えば、嶋村自身、正直あまり好きだとは言えなかった。
版元に返す本や雑誌などを隙間なく段ボールに詰め込むと、どんな鈍器よりも凄まじい凶器になる。それをせっせと台車に積み上げて、閉店と同時に、新刊雑誌や書籍の搬入にやってくる運送屋に引き渡す、というのが返品作業の大まかな流れだが、この凶器のような重さにまで成長した段ボールを積み上げる作業が、なんとも腰に悪いのである。
いずれ本当に腰椎あたりの椎間板ヘルニアでもやるのではないかと思ってしまうくらいには重労働だった。
慣れた、と言えば、確かに慣れてはいるのだろう。
だが、つい先日、教文堂書店入社五年目の社員がこの作業の途中に腰を痛めたばかりだった。どんなに作業に慣れたとしても腰ばかりはどうにもならない、ということをまざまざと見せつけられたような気がして、嶋村は暗澹たる気持ちになったものだ。
がらがら、と不安定な台車を丁寧に押しやって店の入り口まで運ぶと、そこには見慣れた作業着姿の二人組が既に立っていた。この周辺の営業区は、ほとんどこの二人のみで担当しているらしく、中年男性と青年の、この二人組を見るのは嶋村も今回が初めてではなかった。
「おつかれーっす。今日、めちゃくちゃ多いっすね、箱」
「そうですか?」
気さくな青年の笑顔に笑い返して、嶋村は二人に台車を引き渡した。
手慣れた様子で重たい台車を押し運び、次々とトラックへ移し換えていく。
あの重たい段ボールをまるで空箱のようにひょいひょい扱う姿は、もはや感嘆の域である。
「こっちもいい?」
「お願いします」
青年に比べて幾分か表情の硬い中年の男は、嶋村に小さな声で断りを入れると明日から書店に並ぶ予定の新刊の積み荷を店内の入り口あたりにどんどんと積んでいった。
乱雑にビニールで覆われ、紐でくくられただけの新刊の塊が目の前に並べられていく片端から、嶋村はそれを仕分けしていく。
「嶋村くん、悪いね」
不意に呼びかけられた声に嶋村が顔を上げると、そこには娯楽雑誌の棚整理を終えた店長が、腰元を撫でながら渋い表情でよろよろとこちらに向かってくるところだった。
今年で不惑の年齢とはとても思えないほど、店長の普段の見た目は若々しい。
豊かに蓄えられた黒髪をいつも丁寧にセットし、贅肉のないスレンダーな体躯をきちんと糊付けされた白いシャツに包んで仕事に励む店長の姿は、書店に通う女性客からも絶大な支持を集めている。
そんな店長が、今日は珍しく年相応とも言える疲労を滲ませていることに、嶋村は思わず苦笑を零した。
「すごくお疲れですね」
「腰が痛い。俺も歳かな」
そんなことを言って苦笑いをしながら、店長は店内の壁に掛けられた時計を見上げた。
丸時計の針は二十一時十五分を指している。
「嶋村くん、今日はもうあがっていいよ」
にこり、と嶋村に笑いかけた店長の細面を見上げ、嶋村は首を傾げる。
「え、いいんですか? まだ雑誌撒いてないですけど」
嶋村は今まさにビニールの梱包を解いている最中であった目の前の新刊雑誌の塊を見下ろした。
いつもであれば、このあとには、各雑誌をジャンルごとに振り分けて、それらを陳列棚まで運び、平置き用の台に乗せていく、という作業が待っている。
この作業のことを『雑誌を撒く』というが、この『撒き』をしておくと翌朝の早番スタッフが棚出しをする際、非常に楽なのである。
嶋村自身、休日などに早番で入ったときに、前日のうちに雑誌が撒いてあったりするととても有難く感じた。
「一人で撒きってきつくないですか?」
嶋村は大量に積まれた雑誌の山を見て、思わずそう声をかけた。
この量を一人で撒いていたら一時間とは言わないまでも、それ相応の時間がかかってしまうことは目に見えている。
だが、店長は考える素地すら見せず、笑顔で首を横に振った。
「いや、いいよ。今日は入荷も少ないから俺ひとりでやっちゃう」
そうとまで言われてしまえば、これ以上、滞在をごねる必要もないだろう、と嶋村はその場にすっくと立ち上がった。伸ばした背骨が刹那、ぼきりと鈍い音で軋みをあげると、二人は苦笑いを浮かべて顔を見合わせた。
「嶋村くん、いい音したぞ」
「俺も疲れました」
「柳原が復帰すればもう少し楽になるよ」
「だといいんですけどね」
現在、腰を痛めて療養している社員の名前を出して意地悪く笑った店長に、短い挨拶を返して嶋村はバックヤードへと向かった。
無人の書店内をだらだらと歩き、店の最奥のドアからバックヤードへと入る。
ディスプレイ材や雑多なポップ、使い古された台車が数台並んだだけで、既に足の踏み場もなくなってしまっている猥雑な通路を進み、休憩室兼事務所の扉を押し開けた。
十二台の防犯カメラのモニターが並ぶ、その狭い部屋でのそのそと帰り支度を始めた嶋村は、不意に視界の端に何か引っかかりのようなものを感じて、エプロンを半分ほど脱いだところで振り返った。
店の正面あたりをぐるりと見回すカメラが一台ある。
そのカメラがじりじりと回転して一番右に振りきれた瞬間、そのモニターの端に何かが映り込んだような気がしたのである。
最悪、不審者か強盗かもしれない、と。
嶋村は一瞬で大きく跳ね上がった心臓の音を耳の奥で聴きながら、嫌な汗を滲ませて食い入るようにモニターを見つめた。
「あ、あれ? これって……」
だが、モニターの隅に映り込む朧気な人物像を見たとき、嶋村は思い浮かんだ可能性に思わず声を上げた。
強盗ではないような気がする。
不審者でもないような気がする。
だが、自分の見間違いかもしれない。
何せ映ったと思ったらすぐにカメラが首を振ってしまい、注視している暇がないのだ。
嶋村は『もしかして』という予感に、じりじりと焦りながらエプロンを脱ぎ去り、鞄を肩に担いだ。
モニターの人影が自分の見間違いでなければ。
嶋村は俄かに焦る。
それは、きっと自分の良く知る人物のはずだから、と。
「店長、お疲れ様です!」
「おお、お疲れ」
雑誌を撒いている店長に言葉少なに挨拶を投げて、嶋村はきょとんとする店長をしり目に早足で店を出た。
道路に面した店の壁は、通行する人たちから店内が見えるようにガラス張りになっている。その壁に沿うような形で並べられた腰高の防護柵に、だらりと腕を垂れ下げて、ぼんやりとした表情で腰かけている人物がいた。
見間違いかとも思ったモニターの人影。
見間違いではなかった、と嶋村は思わず安堵して、長い吐息を吐きだした。
右サイドにボリュームのある少し変わった髪型と、青とオレンジのチェック柄のパーカー。僅かな電灯の明かりの下でうすぼんやりと浮かぶのは、息をのむほどに美しい見慣れた同級生の顔であった。
「に、西松くん」
戸惑いと緊張を孕んだ嶋村の声に気付いて、西松英助がゆっくりとこちらを振り向く。
ひらひら、と顔の脇で揺れる掌に、嶋村は小走りに英助の元へと歩み寄った。
「西松くん、どうしたの」
「嶋村ちゃーん、おっつー」
「え?西松くん?」
「ぴんぽーん。ニッシーでーす、おフランス美人の英助くんでーす」
常よりもハイトーンな声と高めのテンションは、明かに英助が酔っ払っていることを示していた。
ゆらゆらと左右に揺れる身体もそうだが、何より定まらない焦点があやしい。
「西松くん、どうしたの?」
「んー」
改めてそう問いかけるが、にこにこ笑うだけの英助は答えを返してはくれない。
左右に揺れる英助の身体の動きに合わせて今にも肩からずり落ちそうになっている鞄を、嶋村は慌てて元の位置まで持ち上げてやった。
「ほら西松くん、鞄落ちるから」
「電車行っちゃったぁ。のでー、俺はけんがくー」
「え?飲み会は?もう終わったの?」
「まだ終電あるからー」
「…終電?なに?」
「行ってみよーにじかいー!さんじかいー!なのです!」
誰かの真似をしているのか、途端にきりっと表情を険しくして英助は誰にともなく敬礼した。
つまり、英助以外のメンバーはまだ飲み歩いているということなのだろうか。
「え、じゃあ、西松くんはもう帰るんだよね?」
だが、嶋村の言葉に英助はぶんぶんと首を横に振った。
戸惑う嶋村そっちのけで、ん、と仏頂面のまま、道路の向こう側で明るく浮かび上がる駅を指差す。
「だっていっちゃったもんー俺のやつー」
「ああ、そうか、電車が来ないのか」
嶋村は短く嘆息して、英助が指差した方向を一緒に振り返った。
闇夜の中、ぼんやりと滲んで見える駅の明かりを見つめながら、まいったな、と口の中で呟く。
だが、こうして閉店してしまった書店の前でぼんやりしていても何も始まらない。
「西松くん。とりあえずさ、駅に行こう」
英助の肩を叩き、嶋村は意味もなくふわふわと笑みを浮かべている酔っ払いを促した。
へらり、としたその間の抜けた笑みをうっかり可愛いだなんて思いかけてしまい、嶋村は慌てて邪念を振り払うように首を横に振った。
今は悠長にそんなことを考えている場合ではない、と自らを叱咤して、力ない英助の腕を肩に担ぐ。
「ほら、西松くん、行くよ」
よろめきながら何とか立ちあがった英助の身体を支え、嶋村は徒歩三分程度の距離しか離れていない駅に向かって歩き出した。
いつもならあっという間に辿り着く筈の距離なのに、この時ばかりはまるで何キロも離れているかのように酷く遠くに思えた。
「なあ、頼むから、しっかり歩いてくれって」
成人男子の、それも無遠慮に体重を預けきった男一人の身体を支えて歩くのは容易ではない。
しかも酒の匂いをしこたま充満させた酔っ払いなど、惚れた弱みでもなければ、このまま路に捨てていきたいくらいだった。
「し、しまむらくん……っ」
これから道路を渡ってロータリーに入ろうかというところで、ぐい、と英助の手が嶋村の胸元の服地を強く引っ張った。
思わず歩みを止めて、ぐったりと項垂れている英助を見やる。
血の気の失せた顔面はすっかり蒼白になっており、嶋村はぎょっと目を見開いた。
「えっ、西松くん、大丈夫?」
「だ、だめ」
荒っぽく肩で息を繰り返す英助は、そこからもう一歩も歩けないと言わんばかりに、まんじりとも動かなくなってしまった。
夏の夜風が肌に纏わりつく不快感に、じわじわと嫌な汗が滲みだす。
「ど、どうしたの?救急車?まさかでしょ?」
嶋村の問いかけに、だが英助は小さく首を横に振った。




