第1話 追放された三男、魔法の無駄が気になる
朝の光が差し込む執務室で、ルミナス侯爵家の家令アベル・クローデルは、手元の羊皮紙から視線を上げた。
皺一つない執事服に身を包み、背筋を伸ばした立ち姿には、長年名門の屋敷を取り仕切ってきた老練な風格が漂っている。
「――以上が、当主様ならびに親族会議での決定となります、アーク様」
白髪をきっちりと撫でつけた老家令の声には、個人的な感情が一切混じっていなかった。侯爵家の実務を預かる彼にとって、これは数ある業務処理の一つに過ぎないのだろう。
「ルミナス侯爵家の三男としての籍、ならびに最低限の歳費は維持されます。ですが今後、王都の本邸における主要な職務および魔術関連の事業からは、すべて外れていただくことになります。出立は本日、これより直ちに。滞在先として、北東辺境のフォルト宿場近郊にある別邸が手配されております」
要するに、体裁を保ったままの厄介払いだった。
魔法国家アルトリア王国において、貴族の価値は生まれ持った魔力量で測られる。強大な魔力を持つ者ほど高度な術式を動かし、家の威信を高めることができるからだ。
その基準で言えば、成人してもなお平均以下の魔力量しか持たないアーク・ルミナスは、名門侯爵家にとって「使い道のない人間」だった。
アベルはわずかに眉を寄せ、机の向こうに立つ長身の青年を見た。
百九十センチを超える体躯に、色素の薄いブロンドとブルーグリーンの瞳。三十歳という年齢もあってか、骨格のしっかりした端正な顔立ちには、どこか慢性的な疲労にも似た静かな落ち着きが漂っている。
「分かりました。書類の控えは、向こうに着いてから受け取る形で構いませんか?」
「はい。現地の管理人へすでに送付しております」
「助かります。あ、それと引き継ぎが必要な手元の雑務なんですが、昨日のうちにそこの棚へまとめておきました。誰が見ても分かるように目次と手順書をつけてありますので、後任の方にそう伝えておいてください」
「手順書まで、ですか。恐れ入ります。いや、その、アーク様。本当によろしいのですか?」
アベルが珍しく言葉に詰まった。泣きつくか、あるいは家の処遇に憤るか、少なくとも何らかの反発を予想していたのだろう。
「よろしい、とは?」
「その……これほどあっさりと受け入れられては、申し渡した私の方が何か手順を間違えたような気分になります。中央から離れれば、今後、王都の社交界や要職へ復帰することは極めて難しくなるのですよ」
「ええ。つまり、来週の親族会議の議事録も、領地間の陳情書の仕分けも、もう俺がやらなくていいんですよね?」
「それは……まあ、そうなりますが」
「なら、何も問題ありません。こうして綺麗に整理していただけて、むしろ感謝しているくらいです」
アークは穏やかに微笑んだ。
「これまでいろいろとご配慮いただき、ありがとうございました、アベル。どうかお体には気をつけて。俺がいなくなった分で、あなたが遅くまで執務室に残ることにならないといいんですが」
「は、はい。お気遣い感謝いたします」
戸惑う老家令に軽く会釈をし、アークは執務室を後にした。
廊下に出た瞬間、胸の奥からふっと深い息が漏れる。
親や兄たちを見返してやろうという野心も、自分を軽んじた家への復讐心も湧いてこない。ただ、重かった肩の荷が下りたような安堵だけがあった。
(やっと……やっと、あの意味のない会議と形式だけの書類仕事から解放される)
屋敷の玄関へ向かいながら、アークの脳裏をよぎったのは、かつて「太一」という名前で生きていた前世の記憶だ。
人手不足の中堅企業で、仕様書もない古いシステムの保守と改修を幾つも掛け持ちしていたシステムエンジニアだった。終電を逃しては事務所の床で仮眠を取る日々。長年の無計画な改修で崩壊したプログラムを直すためだけに休日を潰し、栄養剤と強い珈琲で無理やり意識を繋ぎ止めて――そして三十歳の冬の朝、冷え切った机の上で二度と目を覚まさなくなった。
二度目の人生で名門貴族の三男に生まれたと知った時は、今度こそ平穏に暮らせると思ったものだ。
だが、現実は違った。魔力量が少ない三男には、誰もやりたがらない領地間の調整だの、儀礼的な陳情の整理だのといった雑務ばかりが回ってきたのだ。家の面子のために開かれる何時間もの会議、ハンコをもらうためだけに何日もかかる手続き。このままでは、形を変えただけでまた同じようにすり減ってしまう。
それが今日、正式に「家の仕事には関わらなくていい」とお墨付きをもらえたのだ。
衣食住が保証された辺境での隠居生活。これ以上の待遇改善はない。
屋敷の前には、すでに荷物を積み終えた幌馬車と、三人の護衛が待機していた。
アークが姿を見せると、革鎧の上に旅用ローブを羽織った中年の魔術師――ロイドが軽く頭を下げた。短く整えた白髪交じりの髪と、使い込まれた木製杖が堅実な印象を与える。
「おはようございます、アーク様。道中の護衛と防御術式の維持を担当いたします、ロイドと申します。後の二人は剣士のガイルと、補助術師のトマです」
紹介されたガイルは、背に大剣を背負った逞しい体躯の男で、短髪の頭を軽く下げた。その隣に立つトマは、まだ十代後半に見える細身の青年で、少し大きめの術師衣の袖を気にしながら緊張した面持ちで礼をする。
「アークです。フォルト宿場まで、長旅になりますがよろしくお願いしますね。あ、トマさん、そんなに肩に力を入れなくて大丈夫ですよ」
「えっ、あ、はいっ! すみません、侯爵家の方をお乗せするのは初めてなもので」
「いえ、今日からはただの辺境の隠居ですから。ロイドさんも、休憩は無理のない間隔で取ってくださいね。誰かに急かされる旅でもありませんし、途中で良さそうな茶屋があったら普通に寄りましょう」
アークが柔和な調子で声をかけると、ガイルとトマは少し意外そうに顔を見合わせた。侯爵家から追い出される不遇の三男と聞いて、よほど気難しい相手を想像していたのかもしれない。
「……はっ、ありがたく。では、早速出発いたします」
馬車に乗り込み、車輪が石畳を鳴らして動き出す。
王都の外壁を抜け、舗装の粗い街道へ入ってしばらく経った頃だった。
窓の外を流れる田園風景をぼんやりと眺めていたアークは、足元の床板から伝わってくる微かな振動に気づき、視線を落とした。
車輪の揺れではない。馬車の車体全体に刻まれた護衛魔法陣――物理的な衝撃や外敵の牙を弾くための防御術式が、稼働しながら発している魔力の脈動だ。
アークは背もたれから身を起こし、座席の下にある術式の刻印板を覗き込んだ。
(ずいぶん重たいな。まるで熱暴走しかけた古い機械みたいだ)
この世界の人間にとって、魔法陣や詠唱は「先人から受け継いだ神秘の儀式」だ。だが、前世の記憶を持つアークの目には、それは魔法という現象を動かすための命令文――ソースコードの羅列として見えている。
アークは刻印板の脇にある小さな小窓を開け、魔力導線の光を観察した。
青白い光が、一定の周期で激しく明滅している。車体を守る薄い魔力の膜を維持するため、御者台にいるロイドから絶えず魔力が送り込まれているのだが、その流れがどうにも不自然だった。
ちょうど馬車が小川の橋を渡り、速度を落としたところで、アークは御者台の背後に開いた連絡窓から声をかけた。
「ロイドさん、少しよろしいですか?」
「はい、アーク様。何かご不便でも? 少し揺れが強かったでしょうか」
「いえ、座席は快適ですよ。ただ、この馬車の防御術式なんですが……ずいぶん魔力の減りが早くありませんか? さっきから足元の導線が、全力で坂道を走らされているみたいに脈動しているんですが」
御者台の隣に座っていた若い補助術師のトマが、ぎょっとしたように振り返った。
「えっ……あ、アーク様、床板の上から供給の揺らぎが分かるんですか!? 僕なんて導線に直接手を当ててやっと分かるくらいなのに」
「ええ、まあ、規則的にコツコツ響いていますからね。ロイドさん、これ、維持するのにかなり負担がかかっているでしょう」
ロイドは手綱を握る御者の横で、少し苦笑いしながら額の汗を拭った。
「お察しの通りです。侯爵家で使われている正式な『四重障壁』の刻印なのですが、街道へ出てから常時展開しておりますと、どうにも魔力の減りが早くて。もっとも、長距離移動用の護衛術式というのは昔からこういう構造ですので、私とトマで交代しながら魔力を流し込むしかありません」
「昔からこの構造、ですか」
「はい。三百年前の大改修で安全対策が強化されて以来、ずっと使われている伝統ある術式ですから。重いのは重厚な証、といったところでしょうか」
ロイドの言葉に、アークは小窓の奥で輝く魔法陣の紋様をもう一度つぶさに辿った。
構造を頭の中で分解し、魔力がどの順番でどの命令を通っているのかを追いかけ始める。
(なるほど。三百年前の改修……いや、その後の百年、五十年の間にも、いろんな術師が少しずつ書き足しているな)
読み解くほどに、アークの眉間に小さな皺が寄った。
酷い。あまりにも酷い構造だ。
まず、車体の四隅を守る障壁を展開するにあたり、毎回「車輪の軸が折れていないか」「屋根の幌が破れていないか」という初期確認の命令が走っている。それ自体は安全対策として理解できる。
問題は、その検証動作が、馬車が動いている間『一秒間に十回以上も最初から繰り返されている』ことだった。
しかも、百年ほど前に別の誰かが「魔獣の毒霧対策」として追加したらしい補助術式が、元の障壁術式と同じ監視動作を別個に実行している。同じ計算を二箇所で同時に行い、さらには「現在は毒霧を検知していない」という結果を、なぜか車体全体の魔力回路へ毎回全力で通知し続けているのだ。
実際に外敵の攻撃を防ぐために使われている魔力は、全体の二割にも満たない。残りの八割以上は、意味のない事前チェックの反復と、後から追加された古い命令同士の連絡に浪費されていた。
(動いているから誰も中身を触らないまま、上から処理だけを継ぎ足し続けた結果だ。これじゃあ、どれだけ魔力があっても垂れ流しになるわけだよ)
アークはため息をついた。このままではロイドとトマが宿場に着く前に魔力切れを起こしかねない。
「ロイドさん、トマさん。この術式、少しだけ中身を整理しても構いませんか?」
「せ、整理……と申しますと? あの、荷物の配置ではなく、術式をですか?」
「ええ、術式の方です。事前チェックの処理が重複していて、かなりの魔力を浪費しています。緊急時の自動停止機能は残したまま、不要な経路だけを休止させれば、お二人の負担をかなり減らせると思うんですが」
ロイドとトマは、意味が飲み込めないといった顔で目を瞬かせた。
既存の魔法陣というのは、一文字でも削れば暴走するか、機能しなくなるというのがこの世界の常識だ。ましてや侯爵家の工房が刻印した伝統の術式を、移動中の馬車の中で「整理する」など、聞いたこともない話だった。
「アーク様、お言葉ですが、稼働中の術式に手を加えるのは危険です。それに、どの紋様が何の役割を果たしているかなど、工房の熟練技師でも完全には把握していないはずで」
「ですよね。たぶん、後から書き足した人たちも、前の人が何を書いたか分からずに外側から繋いだんだと思います。だから全部を書き換えるわけではありません。ここの第十二節から第十五節にかけての反復命令が、第三節の初期確認とまったく同じことをしているので、片方の通り道を塞ぐだけです。少し見ていてもらえますか? 危なそうならすぐに止めますから」
アークはそう言うと、小窓の縁に指先を添えた。
まずは全体の安全機構の把握だ。万が一にも障壁そのものが消えたり、魔力が逆流したりしないよう、異常時に魔力を逃がす接地回路が生きていることを確かめる。
その上で、まだ書き換えには着手せず、頭の中で魔力回路の接続を組み直していく。
「ここが初期確認、こっちが後から足された毒霧検知のループ。本当に丁寧な仕事だな、異常なしっていう報告まで毎回律儀に叫んでる。よし、この二つの合流地点にある待機命令を一つにまとめれば、元の安全性を落とさずに消費だけを削れるな」
迷いのない手つきで古代文字と幾何学模様の羅列を辿るアークを、トマが呆気にとられたように見つめていた。
「ロイドさん……アーク様が今なぞっている接続部って、まさか」
「ああ。毒霧検知の補助回路だ。私も出発前に工房の説明書で場所だけ教わった箇所だが」
ロイドはアークが指し示した場所を見つめた。
「アーク様、失礼ながら、この馬車の設計図をご覧になったことが?」
「いえ、さっき床板を開けて初めて見ましたよ」
「初めて見て、どうしてそこが分かるのですか?」
その時、街道の両脇に広がる深い森の茂みが、不自然な音を立てて激しく揺れた。
馬車の前方を走っていた剣士のガイルが、鋭い声を張り上げる。
「止まれ! 右手の藪からだ、魔獣が出るぞ!」
御者が咄嗟に手綱を引き、馬が甲高い嘶きを上げて前足を跳ねさせた。
直後、木々の葉を散らして街道へ飛び出してきたのは、牛ほどもある巨体に岩のような灰色の剛毛をまとった魔獣――『鉄毛猪』だった。太い牙をぎらつかせ、充血した目で真っ直ぐに馬車の側面を睨みつけている。
「くっ、ロイド殿、障壁を最大に! 突っ込んでくるぞ!」
「分かっている! トマ、魔力を合わせろ!」
「はいっ!」
ロイドとトマが杖を握りしめ、ありったけの魔力を馬車の刻印板へと流し込んだ。
アークは揺れる車内で窓枠を掴みながら、足元の小窓を睨んだ。
(まずいな。あの猪の突進を受け止めるだけならともかく、今の効率の悪いまま大量の魔力を一気に流し込んだら――)
案の定だった。
二人が急激に魔力供給を増やしたことで、術式内部の「無駄な反復処理」までもが何十倍もの速度で回転し始めたのだ。青白い光が激しい火花を散らし、導線からキィィンという甲高い耳鳴りのような異音が響く。
地響きを立てて疾走した鉄毛猪の巨体が、馬車の側面を覆う半透明の障壁へ激突した。
ドォンッ! という凄まじい衝撃音とともに車体が大きく傾く。
障壁はかろうじて牙を弾いたものの、衝撃を処理しきれなかった術式内部で、魔力の供給が激しく乱れ始めた。
「ぐあっ!? ば、馬鹿な、一撃で魔力が半分以上持っていかれたぞ!」
「ロイドさん、導線の光が点滅しています! このままじゃ次の突進で障壁が砕けます!」
悲鳴のようなトマの声と、体勢を立て直して再び牙を向ける鉄毛猪の唸り声。
火花を散らす刻印板を前に、アークは迷わず小窓の奥へと手を伸ばした。




