第37話 大寒波という天災、公社という人災
橙色の間接照明が灯るリビングに、通信コンソールのスピーカーから掠れた声が落ちてきた。
シュンは足を止め、画面を見上げた。
「……ジュリアンさん? その様子、ただ事じゃありませんね」
画面の向こうの私設指令室では、壁一面の計器が赤い警告光を明滅させていた。
映し出されたジュリアンは上着を脱ぎ、アスコットタイを緩めていた。額に張り付いた金髪の奥で、澄んだ碧眼が画面をまっすぐ射抜いている。
「頼む、切らずに聞いてほしい。……君の技術にしか、この事態は救えないんだ」
「……どうしたんですか。声が掠れてますよ。落ち着いて、順を追って話してください」
深夜二時だ。いつもの他愛のない回路論議なら、即座に切断スイッチを弾くところだった。
だが、画面越しに伝わってくる空気の重さに、シュンの指先が止まる。
ジュリアンはコンソールに両手を突き、背筋を伸ばしたまま、深々と頭を下げた。
「帝都が、吹き飛ぶかもしれない」
「……吹き飛ぶって、何が起きたんですか」
「大寒波で、暖房用の魔力需要が跳ね上がったんだ。そうしたら公社の幹部連中が、上層貴族街の圧力を保つために、下層スラムと中央大病院への一次熱供給バルブを一括で急閉鎖した」
シュンの眉が、跳ね上がった。
「正気ですか……!? この寒波の中で大口径の遮断弁をいきなり閉めたら、管内の流速が急停止して一気に負圧が立ちますよ。水撃どころの騒ぎじゃない」
「ああ、奴らは『貴族街の安寧を守る英断だ』と自慢してきたよ。……だが、司令室で一人だけ、現場の女性技師が噛みついたらしい。図面を叩きつけて、『過冷却で全域が爆裂する』と」
「それで?」
「叩き出されたよ。吹雪の現場へ」
ジュリアンの拳が、コンソールの上で白くなっていた。
「女性技師……?」
「以前、スラムの足湯で見かけた翡翠色の瞳の技師だ。確か、ミレイという名だったはずだ。あの足湯で高度な微分制御を正確に理解していた彼女の工学的直感が、間違っているはずがないんだ」
「……ミレイさんを現場に? あんな吹雪の中にですか」
シュンの口元から、苦い呟きが漏れる。
「まったく、あいつらは本当に何も分かってないな……」
シュンは苦い吐息をつき、コンソールに転送されてきた監視ログに視線を落とした。
過冷却魔力流の急速相転移。
極低温と急激な減圧。循環していた流体が一瞬で凍結し、音速で管内を滑走する巨大な氷塊——アイスプラグを生み出す。
数百気圧のウォーターハンマーが、地下配管網を連鎖的に叩き割る光景が、頭の中で組み上がっていく。
だが、ログの端に、奇妙なパケットの乱れがあった。
「……待ってください。ジュリアンさん、これ、まさかご自宅の予備ラインをそのまま病院へ直結したんですか?」
ジュリアンが、かすかに唇を噛んだ。
「あそこには小児病棟があるんだ。未熟児室の暖房が止まれば、数時間と持たない。スラムだってそうだ。……だが、僕の機材が繋がった瞬間に、管内で水撃音が跳ねた。演算機の解が発散して、追いつかないんだ」
「無茶苦茶ですよ……。高圧の予備ラインを急に割り込ませたら、冷え切った管内で局所的な圧力波が乱反射して、余計に相転移のトリガーを引くことくらい……」
「すまない……。でも、指をくわえて見ているわけにはいかなかった」
ジュリアンの視線が、自分の拳に落ちた。
「……でも、僕に頼まれても困りますよ。これだけの規模のトラブルなら、公社そのものに掛け合って、司令室から全ラインを緊急開放させるべきだ」
「掛け合ったさ。我が家の名義で役員会に直接回線を繋いだ。……奴らは隠蔽に走った。司令室の技師たちも、端末に触れることすら許されていない」
ジュリアンは悔しげに奥歯を噛み締めた。
「現場で一人奮闘するミレイ技師だけじゃ、都市規模の圧力相殺は追いつかない。……帝都のインフラの全貌を、一人で把握している人間は世界に一人しかいない。公社の元主席技師だった——君だけなんだ、シュン」
シュンの指先が、ぴたりと止まった。
「……え」
画面を見上げるシュンの喉が、小さく鳴る。
「……僕が元主席技師だって、知っていたんですか」
「当たり前だろう。君の引いたあの美しいログを追って、僕が君の経歴に行き当たらないはずがない」
ジュリアンの声が、わずかに低くなった。
「……君があの組織でどんな扱いを受け、なぜそこを出たのかも知っている。だから今まで、触れなかった。でも……この水撃を解けるのは、世界中で君一人なんだ」
ジュリアンは深く息を吸い、画面越しに両手を合わせて訴えた。
「頼む、シュン。迎えの防寒リムジンを回す。僕の指令室に来て、演算機を直接叩いてくれ!」
深夜のリビングに、わずかな静寂が落ちる。
画面越しに見つめ合う二人の視線。
シュンは静かに息を吐き出すと、ゆっくりと首を横に振った。
「……嫌です」
「……え」
ジュリアンの顔から、完全に血の気が引いた。
蒼い瞳が大きく見開かれ、唇が震える。
「シュン……見捨てる気かい……? 君があの公社を憎んでいるのは知っている。でも、病院の子供たちまで……」
「恨みとか憎しみとか、そんな話じゃないですよ」
シュンは呆れたように肩をすくめた。
「外、今マイナス何度だと思ってるんですか。猛吹雪で前も見えないような極寒の夜に、わざわざ外に出て車に乗るなんて冗談じゃないです。僕が今いる場所がどこか分かりますか? コタツですよ、コタツ。死んでもここから出たくありません」
「コ、コタツ……!? 君、この期に及んで何を言っているんだ!?」
「大体、ジュリアンさんの本邸まで移動してる間に配管が吹き飛びますよ。——だから、外には一歩も出ませんけど、ここからリモートでやるなら手伝います」
「……リモート?」
「そちらのスーパーコンピューター、外部端末の中継プロトコルくらい積んでるでしょう。配管系統図とリアルタイムログを、全部こっちの回線に流してください」
ジュリアンの瞳に、パッと光が戻った。
「……や、やってくれるのか!?」
「見殺しにして明日凍死者のニュースを見るのは、さすがに寝覚めが悪いですからね。……それに、ミレイさんがあんな会社のために一人で身体を張ってるなら、ちょっとくらい手を貸してやらないと先輩の名が廃ります。ほら、早く回線を繋いでください!」
「す、すぐやる! 全ポートを開放する!」
ジュリアンが猛烈な勢いで手元のコンソールを操作し始めた。
背後で、柔らかな衣擦れの音がした。
リリアが静かに歩み寄り、シュンの肩に厚手の半纏をそっと羽織らせた。
日干しされた綿の温もりが肩を包み、手渡された湯呑みから、香ばしい焙じ茶の湯気が立ち上る。
「シュン様、身体を冷やさないようにしてくださいね〜」
「ありがとう、リリア。助かるよ」
「……暗号化トンネルの多重化、完了しました」
コンソールの脇で、シエラが淡々とサブパネルから手を離した。琥珀色の瞳はいつも通りの冷静さだったが、その手つきには一切の躊躇がなかった。
「大画面プロジェクターへの展開、可能です」
「頼む、シエラ」
シュンは湯呑みを手に、リビングの中央へ戻った。
コタツの布団をめくり、下半身を滑り込ませる。足先を包む遠赤外線の柔らかな熱に息を吐きながら、天板の上にキーボードを引き寄せた。
「よし。サクッと終わらせよう」
エンターキーを叩くと、壁一面のスクリーンが鮮烈に明転した。
そこに広がったのは、帝都地下の巨大な配管ネットワークだった。
大半のラインが警告の紫と青に染まり、圧力センサーの波形が激痛を訴えるように乱高下している。
「……うわ、酷いなこれ」
シュンは湯呑みを置き、画面の数値を追った。
指先がキーボードの上を滑る。打鍵音は静かで、驚くほど速い。
「第4区画と第7区画の合流ノード……流速が毎秒40メートルから3秒でゼロまで落ちてますね。管内温度はマイナス8度。完全に過冷却状態だ」
「シュン! 病院の地下で金属の軋み音が鳴った! 配管の振動周波数が跳ね上がっている!」
スピーカーからジュリアンの緊迫した声が飛ぶ。
「落ち着いてください。アイスプラグがもう滑走を始めてます。長さおよそ2メートル、数トンの氷塊です。この先にあるのは、スラムと中央プラントを結ぶメインバイパスの分岐点だ。そこに激突したら、水撃圧でバイパス管が弾け飛ぶだけじゃなく、衝撃波がボイラーまで逆流してプラントごと吹き飛びます。……タイムリミットは、持ってあと15分ですね」
「演算機の解が出ないんだ!」
「出ないのは当然ですよ。公社の配管は、30年前に増設された古い耐魔鋼管が混ざってるんです。材質の弾性限界を計算式に入れてないから方程式が破綻してるんですよ」
シュンは迷いなくパラメータを書き換えていく。
画面上の赤い警告表示が、次々と整合性のある緑色の波形へと収束していく。
「バイパスの第2バルブをわずかに開けて、逆相の魔力パルスを打ち込みます。先端を砕きながらアースへ圧力を逃がせば相殺できる。……ジュリアンさん、そっちの演算機からパルスを送出する準備を——」
「さすがだシュン、すぐにそのシーケンスを——」
「……待ってください」
シュンの指が、ぴたりと止まった。
画面を凝視する瞳が、険しく細められる。
下層バイパス弁のアイコンに、赤い南京錠のマークが重なっていた。
「……物理施錠。現場でチェーンが巻かれてる」
「なんだって……?」
「停止マニュアル通りのバカ正直な施錠ですよ。遠隔信号が弾かれる」
静まり返ったリビングに、シュンの低く苦い声が落ちた。
「遠隔からのパルスじゃ、この弁は開きません。……誰かが現場に行って、あのチェーンを叩き壊して手動で開放してくれないと、僕のプログラムは通りませんよ」
画面の片隅、現場の定点カメラの映像。
猛吹雪が吹き荒れるスラムの闇の底で、配管ピットの鉄蓋が、わずかに持ち上がっていた。
氷点下の寒風の中へ、一人で降りていく小さな背中を、画面のデータが静かに示していた。
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