第26話 新任エリート課長の水難
石造りの洗い場に、真鍮製バルブを捻る重い金属音が響いた。
大浴場の給湯カランから、湯気を立てる温水が勢いよく流れ出す。シュンは湯気に顔を包まれながら、壁面に埋め込まれた丸型の真鍮水圧計へと視線を向けた。
黒く細い指針が、規定値のラインからわずかに左へと傾いている。目盛りに刻まれた数値は、本来あるべき定格圧力よりも正確に0.02MPa低かった。
「……水圧が落ちてる」
シュンは額に張り付いた前髪を指先で払い、小さく息を吐いた。
手のひらに受ける湯の勢いが、いつもよりほんの少し頼りない。微細な違いではあるが、これから湯船に浸かろうとするシュンにとって、この鈍さはどうしても見過ごせなかった。
「許容誤差の範囲内です」
脱衣所の引き戸の向こうから、抑揚のない涼やかな声が返ってきた。
作業台の椅子に腰掛けたシエラが、精密ピンセットで小型真空管の端子を磨きながら、琥珀色の瞳をこちらへ向けることなく淡々と口を動かしている。
「0.02MPaの圧力降下による給湯効率の低下は、熱量換算で0.4%未満。人体における温熱受容体の感覚閾値から見ても、実用上の支障は認められません」
「数字の問題じゃないんだよ、シエラ」
シュンは腰にタオルを巻き直すと、洗い場を出て通路脇の配管制御盤へと向かった。
「平日の昼間に一番風呂へ入るっていうのは、完璧な条件が揃っていて初めて成立する贅沢なんだ。水圧が弱くてお湯の溜まりが遅いなんて、それだけで気分が台無しになる」
「……相変わらず、無駄なこだわりに対してだけは迅速な行動力ですね」
「技術者として当然の権利行使だよ」
壁面の保護カバーをスライドさせると、青と緑の耐魔防護被覆が施された給排水管と、手動のバイパスバルブが姿を現した。
シュンは工具棚から真鍮製のスパナを手に取り、地下水脈から汲み上げる一次受水ラインの流量調整弁に噛ませた。手首を軽く捻ると、硬質なクリック感とともに弁が一段階深く開放される。
続けて、配管の根元に巻き付けられた魔力励起コイルの端子盤へと指を伸ばした。
制御基板のトグルスイッチをパチンと跳ね上げ、循環ポンプの魔力供給パラメータを微調整する。指先からごく微弱なパルスを注入すると、基板上のパイロットランプが琥珀色から鮮やかな緑へと切り替わった。
「……よし。これで配管内の滞留スケールもまとめて押し流せるはずだ」
太い鋳鉄パイプの奥から、「グオオオ……」という低く重い水流音が響き始めた。配管内を満たす温水が、強力な魔力ブーストによって一気に流速を上げていく。
シュンは水圧計の指針がピタリと規定値の中央へ戻ったのを確認し、満足そうに頷いて大浴場へと引き返した。
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最下層アンダー・スラッグの廃線路広場には、底冷えのする冷気と湿った鉄錆の匂いが澱んでいた。
石畳の敷かれた広場の中央、側溝から立ち上る湯気の周囲には、今日も手作りの布腕章を巻いた自警団の男たちや、素焼きの壺を手にした住民たちが集まっていた。
「——どけ」
冷え切った空気を切り裂くように、硬い革靴の足音が石畳を叩いた。
仕立ての良い濃紺の三つ揃えスーツに身を包んだ男——第3運用課の新任課長ブラッドリー・カーライルが、銀のタイピンを指先で整えながら歩み出てくる。その背後には、厚手の作業着を着込んだ公社の正規配管工部隊が十数名、大型の鋳鉄製遮断弁と高圧アーク溶接機を台車に載せて控えていた。
露天商の親方が前に出ようとした。ブラッドリーは視線すら向けず、銀縁眼鏡を押し上げて配管工部隊の先頭へ顎をしゃくった。
「側溝の元口を溶接しろ。完全に塞げ」
それだけだった。
若手の作業員が一歩進み出て口を開きかけたが、ブラッドリーの手元の書類ばさみが作業員の胸元を突いて押し戻した。
作業員たちは顔を見合わせ、怯えたように作業台車へと駆け寄った。
同じ頃、帝国魔電公社中央棟の地下にある第3調律室では、薄暗い部屋の中に端末の冷却ファンだけが静かに回転していた。
壁一面に並ぶオシロスコープと計器盤の前で、ミレイは翡翠色の瞳を細め、廃線路方面の配管系統図を映し出すモニターを見つめていた。
細い指先がキーボードの上を無音で滑る。
画面上の圧力監視グラフが、廃線路の末端部分で急激に絞り込まれようとしていた。
ミレイは画面の赤い警告ラインを見つめ、小さく鼻を鳴らした。
冷徹な手つきで新規の監視スレッドを立ち上げ、画面上に『第3運用課長指示による保安規定第14条違反・無許可配管封鎖作業』とラベルを付ける。
画面の端で緑のインジケータが小さく点滅し、現場の圧力ログが淡々と記録されていく。
ミレイはその横を流れる、もう一つの波形——先輩が組んだ流路設計の完璧な正弦波に視線を移した。両手で自分の頬を包み込み、熱を帯びた吐息を零す。
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廃線路広場では、高圧アーク溶接機の青白い閃光が激しく火花を散らしていた。
バチバチという鋭い放電音とともに、分厚い鋳鉄製の遮断弁が側溝の配管開口部へと押し込まれ、溶接棒が金属を焼き溶かしていく。
「そうだ、隙間なく焼き固めろ」
ブラッドリーは満足げに腕を組み、仕立てのいいスーツの裾を払った。
「これでスラムのドブネズミ共も、温水を使いたければ公社に頭を下げて金を払うしかなくなる。……理事会への報告書には、不法占拠ラインの適正化による新規収益事業として記載してやろう」
溶接工が最後のボルトを大型スパナで締め付け、アーク溶接機の電源を落とした。
側溝の奥へと消えていた蒸気がピタリと止まり、あたりに不気味な静寂が広がる。
「か、課長、溶接完了しました」
「ご苦労。これで——」
ブラッドリーが言葉を続けようとした、その瞬間だった。
足元の石畳から、「……ズ……ズズズ……」という微細な振動が伝わってきた。
遮断弁の表面に結露していた水滴が、細かく震え始める。
「……ん? 何の音だ」
ブラッドリーが眉をひそめた直後、石畳の底から、大型の蒸気機関が唸りを上げるような重低音がせり上がってきた。
遮断弁によって出口を塞がれた温水が、逃げ場を失って配管全体を激しく軋ませ、一気に内圧を跳ね上げていく。
「ひっ、圧力が……! 計測器の針が振り切れてます!」
「な、なんだと!? 早く弁を開けろ!」
「無理です! 今さっき完全に溶接したばかりで——」
作業員が悲鳴を上げて後ろへ飛び退いた瞬間、遮断弁の継ぎ目から、シュルルルルッという鋭い高圧蒸気の噴出音が上がった。
そして——。
ドォォォォォンッ!!!!
耳を劈く破裂音とともに、溶接されたばかりの鋳鉄製遮断弁が、側溝の石蓋ごと上空へと吹き飛んだ。
直後、配管の開口部から、白煙を猛烈に噴き上げる熱湯が、太い水柱となって十数メートルの高さまで一気に噴き上がった。
大量の泥と錆を含んだ熱々のお湯が、巨大な間欠泉となって空を覆い、広場の上空から豪雨のように降り注ぐ。
「ぎゃああああああっ!?」
配管の真上に立っていたブラッドリーは、頭上から泥水と熱湯の直撃をまともに浴びた。
自慢の金髪オールバックは泥水で額と首筋にペッタリと張り付き、銀縁眼鏡は水圧で弾き飛ばされて石畳の上で粉々に砕け散る。
濃紺の高級スーツは泥まみれになり、胸ポケットに差していた万年筆と書類が茶色い汚水の中に流されていった。
「あ、熱い! 目があああっ! なんだこれは、何が起きたぁぁっ!?」
ブラッドリーは泥水たまりの中に無様に転がり、手足をバタつかせながら喚き散らした。
「退避! 退避しろーっ!」
公社の作業員たちは機材も台車も放り出し、降り注ぐ熱湯の飛沫から逃れるように、我先にと路地の奥へ逃げ去っていく。
間欠泉の噴出は数分間続き、やがて配管内の余剰圧力が完全に抜けきると、水柱は次第に低くなり、静かに収まっていった。
吹き飛んだ側溝の跡からは、濁りのない清らかな温水が、再び豊かな湯気を立てながらサラサラと流れ始めている。
物陰から様子を伺っていたスラムの住民たちが、恐る恐る顔を出した。
自警団の親方が腕を組んだまま、泥まみれで四つん這いになっているブラッドリーを見下ろした。
「……ざまぁねえな」
低い一言だった。
その声を合図にしたように、住民たちが物陰から一人、また一人と姿を現す。誰も言葉は発さなかったが、空き缶や小石がブラッドリーの足元へ容赦なく投げつけられた。
「……おのれ……っ」
ブラッドリーは泥で汚れた袖口で顔を拭い、濁った視界の中で這うように立ち上がった。
破れたスーツの膝を押さえ、血走った目で廃線路の奥を一度だけ睨みつける。
何かを呟いたが、降り注ぐ野次にかき消された。
泥水を滴らせ、足を引きずりながら、ブラッドリーはスラムの闇へと去っていった。
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外界の狂乱など微塵も届かない地下深く、ゼロ・ターミナルの大浴場には、心地よい檜の香りが満ちていた。
石造りの浴槽の縁に頭を預け、シュンは肩まで温湯に浸かって長いため息を漏らした。
「……はぁぁぁ……やっぱり、お風呂の水圧はこうでなくっちゃね」
給湯口からは、定格圧力通りの力強い温水が滔々と注ぎ込まれている。
全身の強張りが解け、湯気の向こうに揺れる天井の淡い間接照明を眺めながら、シュンは手足を思い切り伸ばした。
社畜時代、深夜に冷水シャワーを浴びて濡れた髪のまま作業着を着ていた記憶が、遠い過去の幻のように霧散していく。
入浴を終え、清潔な部屋着に着替えてリビングの革張りソファーに腰掛けると、背後からスッと気配が近づいてきた。
「……体表温度が平熱より1.2度上昇しています」
シエラがソファーの背もたれ越しに手を伸ばし、ひんやりとした掌をシュンのうなじにそっと当てた。
「長湯による軽度の熱籠もりを検知。冷却モードによる体温調節シーケンスを実行します」
「ん……冷たくて気持ちいい……。いつも助かるよ、シエラ」
「……礼には及びません。主人の体調管理は、維持管理プロトコルの基本項目です」
シエラは淡々と応じつつも、冷たい指先をゆっくりと滑らせ、シュンの首筋の熱を丁寧に奪っていく。
そこへ、カチャリと涼やかなガラスの触れ合う音が重なった。
「ふふ、シュン様、湯上がりのデザートをお持ちしましたよ〜」
リリアが薄手の柔らかな部屋着姿で現れ、サイドテーブルに冷えたガラスの器と木製スプーンを置いた。
器の中には、透き通った湧水の冷製ジュレに、先日の完熟ベリージャムが鮮やかな赤色のマーブル状に溶け込み、ミントの葉が涼しげに添えられている。
「お風呂上がりに冷たいものを召し上がると、身体の中からすっきりしますからね〜。リリア特製の冷製ベリージュレです」
「わぁ……美味しそう。ありがとう、リリア」
シュンはスプーンを手に取り、宝石のように透き通るジュレを口に運んだ。
ひんやりとした冷涼感とともに、完熟ベリーの濃厚な甘酸っぱさとミントの爽やかな香りが口いっぱいに広がる。
「美味しい……! 身体の芯まで冷えていく感じがするよ」
「ふふ、良かったです〜。シュン様、とってもさっぱりしたお顔ですね〜」
うなじから伝わるシエラの冷涼感と、口の中に残るベリージュレの爽やかな酸味。
シュンは木のスプーンをことりと置き、結露した冷たいガラス器を両手で包み込みながら、満足そうに目を細めた。
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