第29話 王国の農業
アルヴァレード王国の王都近郊。
かつて豊かな穀倉地帯と呼ばれたその場所は、今や見る影もなく荒れ果てていました。
地割れした大地からは乾いた砂塵が舞い、立ち枯れた小麦の茎が、まるで墓標のように力なく並んでいます。
数十年ぶりの深刻な干ばつ。
しかし、この事態を招いたのは単なる天災ではありませんでした。
それは、生活基盤を軽視し、魔法を破壊のためだけに使い続けた国家による、必然的な「人災」だったのです。
「……また、井戸が枯れたか」
一人の老農夫が、泥の底が見えるまで干上がった井戸を見つめ、力なく膝をつきました。
彼の周りには、同じように絶望を瞳に浮かべた農民たちが集まっています。
彼らは、風の噂で知っていました。
隣国アルディナ王国では、今や水に困ることは一切ないという信じられない噂を。
そこでは「生活魔法」という、かつて自分たちの国で「役立たずのゴミ」と嘲笑われた技術が、
枯れた大地を潤し、黄金の海へと変えているという話を。
「王宮に雨乞いの魔導師を派遣してほしいと、何度も嘆願書を出したはずだ!」
若手の農民が、怒りに震える声で叫びました。
「だが、返ってきたのは『軍事演習に魔力を割く余裕はない。
無能な農民の甘えに付き合っている暇はない』という、冷酷な返答だけだった!」
アルヴァレード王国は、国家予算の八割を軍事魔法の研究と維持に投じています。
彼らにとって、魔法とは敵を焼き払い、城壁を粉々に砕くための「破壊の力」でした。
民が飲む水一杯、作物を育てる雨一滴のために貴重な魔力を使うことを、
彼らは「卑俗な無駄遣い」と断じて、切り捨ててきたのです。
その頃、王都の豪華な宮殿では。
王太子アルドリックが、新しい婚約者ミレイナと共に、贅を尽くした晩餐会を開いていました。
テーブルの上には、高価な輸入肉や、貴重な魔導保存されたワインが贅沢に並んでいます。
「ふむ、今年の小麦の収穫はさらに落ち込むという報告が来ているな」
アルドリックは、手に持ったワイングラスを揺らしながら、退屈そうに呟きました。
「農民どもめ。努力が足りんのではないか?
軍事魔法の天才であるミレイナがいれば、我が国の軍事的威信は揺るがないというのに。
少々の食糧難など、他国から奪えば済む話だろう」
隣に座るミレイナは、不敵な笑みを浮かべて同調しました。
「そうですわ、アルドリック様。
生活魔法しか使えなかったあのリリアがいなくなって、ようやくこの国も清々いたしましたわ。
あのような『お冷運び』の女に、王妃の座を汚される必要などありませんもの」
アルドリックは満足そうに頷きました。
「全くだ。今頃は隣国で泥水でも浄化して遊んでいるがいい。
どうせ物乞いでもしているだろうさ」
彼らは、自分たちが「無価値」だと捨てた生活魔法こそが、
今この国を救う唯一の、そして最強の手段であったことに、未だに気づいていません。
その傲慢な態度の裏で、王国の財政は確実に崩壊へと向かっていました。
軍事魔法という「破壊のコスト」は、それ自体では一銭の富も生み出しません。
むしろ、高度な軍事魔導師を維持するために、疲弊した農村からさらなる重税を搾り取っているのが現状でした。
「報告いたします! 北方の農村で、また重税に耐えかねた農民の逃亡が相次いでいます!」
兵士の報告に、王太子は忌々しげに舌打ちしました。
「逃げた者は捕らえて処刑せよ。代わりの農奴を送り込めば済む話だ」
政治能力が極めて低いアルドリックには、経済の循環という概念が欠落しています。
彼にあるのは、武力で押さえつければすべてが解決するという、軍事至上主義の短絡的な思考だけでした。
しかし、その強引な統治が、優秀な商人の隣国への流出を加速させていることに気づく者はいませんでした。
同じ時刻。
国境を越えた隣国アルディナ王国では、全く異なる光景が広がっていました。
リリアの『農業革命』がもたらした、かつてないほど豊かな実り。
収穫量5倍という驚異的な成果が、国中に笑顔と莫大な富を運んでいました。
「リリア様の魔法水生成のおかげで、今年は一度も水不足に悩まなかった!」
「土壌改良魔法の効果もすごいぞ。一粒の小麦が、これまでの倍の大きさだ!」
アルディナ王国の農民たちは、リリアを「生活魔法の聖女」と呼び、心からの感謝を捧げています。
彼らは、リリアが考案した第4カテゴリー『農業革命』の第31番から第40番までの技術を駆使していました。
最小の魔力で土を肥やし、害虫を防ぎ、成長を最適化する。
そこには、アルヴァレード王国の破壊的な力とは対極にある、繊細で合理的な「創造の魔法」がありました。
アルディナ王国の市場には、溢れんばかりの食料が並び、物価は極めて安定し、経済は爆発的な成長を遂げています。
リリアが取得した魔法特許の使用料は、国庫を潤し、新しいインフラ建設の資金となっていました。
「生活魔法は産業になる」というリリアの予言は、今や誰の目にも明らかな事実となっていたのです。
アルヴァレード王国の国境守備隊の兵士たちは、遠くに見える隣国の黄金色の農地を、羨望の眼差しで見つめていました。
自分たちの足元は乾き、飢えに苦しんでいるというのに。
隣国は、自分たちが「役立たず」と追い出した令嬢の力で、黄金の海に包まれている。
「……もし、リリア様がまだ我が国にいてくださったら」
一人の若い兵士が、誰にも聞こえないほどの小声で漏らしました。
その言葉は、やがて王国全体を包み込む「後悔」という猛毒の、最初の一滴でした。
アルヴァレード王国が辿る「国家崩壊ロードマップ」は、今や第3段階を完全に完了しようとしていました。
軍事国家のプライドという虚飾が、空腹という現実の前に剥がれ落ちる日は、もうすぐそこまで来ています。
民衆の不満は地下水のように溜まり続け、やがて王太子という堤防を突き破る巨大な濁流へと変わるでしょう。
リリアの指先が描く0.01%の精密な魔法回路は、今や隣国を照らす希望の光となりました。
一方で、生活を捨て、破壊に溺れたアルヴァレード王国には、暗く長い没落の影が深く落ち始めていました。
「生活魔法は本当に無価値なのか」
その残酷な問いに、彼らが答えを出すべき時は刻一刻と近づいていました。




