035.ノエルの決意
特級収容施設での「掃除」を終えてから、俺の心は常に薄氷の上を歩くような危うさを孕んでいた。
地下に戻れば、住人たちは俺を「救世主」と呼び、感謝の言葉を投げかけてくる。だが、その笑顔の裏で、俺が彼らの肉親であったはずの者たちを氷漬けにして葬ったという事実は、どす黒い滓のように俺の魂に沈殿していた。
自室の椅子に深く沈み込み、俺は自分の右手をじっと見つめる。
どす黒く変質し始めた魔力が、指先から冷気となって漏れ出している。
これを振るうたびに誰かが救われ、同時に、誰かの絶望が確定する。
「……ガルシアさん」
静かに扉が開き、ノエルが入ってきた。
彼女の手には、温かいスープの入った器がある。
彼女は俺の隣に座ると、何も言わずにその器を机に置いた。
そして、俺の強張った右手を、自分の小さな両手で包み込んだ。
「……冷たい。
また、あんなに冷たい場所へ行っていたんですね」
俺は何も答えられない。
彼女の優しさが、今の俺には毒のように沁みた。
俺が汚れることで、彼女にだけは清らかな世界を見せてやりたいと思っていた。
だが、ノエルの瞳を見れば分かる。
彼女はとっくに気づいているのだ。
俺が独りで抱え込み、内側からボロボロに崩れかけていることに。
「ガルシアさん。
……もう、独りで背負わないでください」
「……何のことだ。
俺は大丈夫だ、ノエル。
お前が笑っていられるなら、俺はどんなことだって――」
「嘘です!!
全然、大丈夫じゃない!!!!」
ノエルは俺の言葉を遮り、真っ直ぐに俺の目を見つめた。
その瞳には、かつて盗賊に怯えていた少女の面影はなかった。
そこにあるのは、愛する者の業を共に見据えようとする、強固な意志だった。
「あなたが帰ってくるたび、心臓の音が悲鳴を上げているのが聞こえるんです。
あなたが誰かを傷つけるたび、私の胸も同じように痛む。
……私を、ただ守られるだけの置物にしないで。
私も、あなたの戦いの中に居させてください」
「ノエル、お前は……」
「私にできることを探しました。
地下には、まだ外の世界に繋がりを持っている人たちがたくさんいます。
虐げられ、隠れ住んでいる獣人たちのネットワーク……
それを使えば、ガルシアさんが無理な『仕事』を引き受けなくても、独自の物資調達や情報収集ができるはずです」
ノエルは机の上に、古びた地図を広げた。
そこには大陸全土に散らばる獣人たちの居住区や、秘密の交易路が記されていた。
彼女は俺に隠れて、地下の住人たちと対話を重ね、独自の「窓口」を作り上げようとしていたのだ。
「私が、あなたの『目』になります。
あなたが闇に呑まれないように、私が光を繋ぎます。
……だから、お願い。
私を、あなたの隣に立たせて」
俺は絶句した。
守っていると思っていた彼女に、俺は救われていたのだ。
ロキが脳内で、珍しく感心したような声を漏らす。
『――くふふ。
面白い。
小娘が「魔王」の伴侶としての覚醒を見せおったか。
ガルシアよ、お主一人の暴力では、国は作れぬ。
だが、この女の執念があれば……
あるいは「魔王の国」の産声が聞こえるかもしれぬな』
俺は震える手で、ノエルを抱きしめた。
彼女の温もりが、冷え切った俺の魔力をわずかに溶かしていくのを感じた。
「……ああ。
分かった。これからは、二人で背負おう」
ノエルの決意は、地下区画という小さなコミュニティを、一つの「組織」へと変える転換点となった。
彼女のネットワークを通じて、大陸中から虐げられた人々、そして知恵を持つ異能者たちが、続々とクロスの地下へと集まり始めることになる。
◇◇◇
一方、シトラス王国の軍事会議室。
カイルは、居並ぶ将軍たちの中で冷徹な表情を保っていた。
机の上には、クロス共和国側から極秘に届いた「地下区画の異常な膨張」に関する調査報告書が広げられている。
「勇者カイルよ。
貴殿の友人であった男、ガルシア・オルランドの動向だが……
どうやら看過できぬ段階に入ったようだ。
彼はクロス共和国の地下に、秩序を乱しかねぬ巨大な勢力を築き上げつつある」
将軍の一人が、冷ややかに告げた。
カイルはその言葉を、感情の消えた瞳で受け止める。
「……勢力、ですか」
「そうだ。
クロス共和国は、これを『魔王復活の温床』と定義し、大陸各国に警戒を促している。
我が国としても、勇者の親友であった男が災厄の種になることは看過できん。
……そこでカイル、貴殿にはこれより、列強諸国を巡る『巡察任務』に就いてもらう」
カイルはわずかに眉を動かした。
「巡察…… 討伐ではなく、ですか」
「今すぐ軍を動かせば、クロスの利権を巡る国際問題に発展しかねん。
まずは各国と調整し、ガルシアを『共通の敵』として認定させるための根回しが必要だ。
貴殿にはその顔役として、諸国にシトラスの正義と勇者の威光を示してきてもらいたい。
……これは、やがて来る決戦のための、不可欠な布石だ」
カイルは沈黙した。
左手の「太陽のあざ」が、火傷のような熱を持って拍動する。
彼がどれだけ親友を救いたいと願っても、世界はその手を「対話の道具」から「断罪の剣」へと、政治的な段階を踏んで作り替えようとしていた。
「……それが、私の役目だというのなら。
そもそも私には拒む権利はないのでしょう」
カイルの声は、もはや人間のそれではなく、研ぎ澄まされた刃の鳴る音のようだった。
クロスの地下に集結し始める、物資と人材。
そして、それを取り囲むように、ゆっくりと、だが確実に包囲網を敷き始めた国家の軍略。
運命の歯車は、ノエルの決意を火種にして、爆発的な勢いで回転を始めた。
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