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現代語訳 宮本武蔵  作者: AI Gen Lab
風の巻
82/165

連理の枝

「お通さん、ただ今!」


 城太郎は柴折戸しおりどの入口から大きな声で叫びながら、家の奥に向かって呶鳴り(どなり)、そのまま家の周りを流れるきれいな小川のそばに腰を下ろし、泥で汚れた足をざぶざぶと洗い始めた。


 ここは山月庵さんげつあん茅葺かやぶきの屋根に掛けられた木額もくがくには白い文字が浮かび上がっている。つばめが巣から子供たちに餌をやりながら、城太郎をピチピチとさえずりながら見下ろしていた。


「うわぁ、冷てぇ!」


 眉をしかめながらも、城太郎はなかなか足を拭こうとせずに、そのまま水をなぶっていた。この川の水はすぐそばにある銀閣寺の庭園から流れてくるもので、その清冽せいれつさは、まるで洞庭湖どうていこ赤壁せきへきの月下の水よりもさらに透き通っているかのようだった。


 それにしても、地面は温かく、城太郎の腰の下では花すみれがひしゃげていた。彼は目を細めて、こうした自然の恵みを受ける自分の運命を楽しんでいるように見えた。


 しばらくして、城太郎は水で濡れた足を草で拭き、そっと縁側へ回り込んだ。この家は元々銀閣寺の別当べっとうである某氏の閑宅かんたくだったが、空いていたため、城太郎の尽力により、お通のために一時的に借り受けたものであった。過ぎし日のこと――武蔵と瓜生山うりゅうやまで別れた翌日から、この場所でお通は病を養っていた。


 もちろん、下り松での決闘の結果も、すぐにここへ伝えられていた。黄母衣組きほろぐみの使者のように、城太郎はあの日から何度もこの家と戦場を往復し、まるで戦況が手に取るようにお通に報告していた。


 城太郎は確信していた。お通にとって、武蔵の無事を伝えることこそが、薬よりも優れた治療法だと。そしてその証拠に、お通の顔色は日に日に良くなり、今では机に寄りかかりながら座っていられるほど回復していた。一度はこのまま逝ってしまうのではないかとさえ城太郎が心配したほどであったが、もし武蔵があの下り松で命を落としていたなら、彼女もそのまま死んでしまっていたかもしれない。


「あー、腹減った。お通さん、何してたんだい?」と、城太郎が元気な声で言うと、お通は微笑みながら答えた。


「私は朝からただこうして座っていただけよ」


「よく飽きないなあ」と城太郎が不思議そうに言うと、


「体は動かさなくても、心は色々なところを旅しているのよ」とお通が言い、さらに「そこの重箱に昨日のちまきが入っているから、食べなさい」と促した。


「ちまきは後にするよ。まずお通さんに嬉しいことを教えてあげなきゃ」と、城太郎は少し興奮した様子で続ける。


「嬉しいこと? 何かしら?」


「武蔵様が、叡山えいざんにいるんだって!」


「えっ……叡山に?」


「そうさ! 昨日も、一昨日も、その前も、ずっと探して聞き回ってたんだ。そしたら今日ついに聞いたんだよ! 武蔵様は東塔とうとうの無動寺に泊まってるって!」


「……そう、じゃあ、本当に無事だったのね」


「そうさ! だから、一刻も早く行こう! 武蔵様、またどこかに行っちゃうかもしれないからね。俺、ちまきを食べたらすぐ支度するよ! お通さんも準備して、すぐに無動寺へ行こう!」



 お通は、じっと遠くを見つめていた。彼女の心は、いおりひさし越しに見える空の向こうへと飛んでいっているようだった。城太郎は、ちまきを食べ終え、身支度を整えると、再び促した。


「さあ、行こうよ!」


 しかし、お通は起き上がる気配もなく、ただ座り続けているだけだった。


「どうしたんだい?」と、城太郎は少し不満そうに問い詰める。


 お通は静かに答えた。


「城太さん、無動寺むどうじへ行くのはやめましょう。」


「えぇ?」と、城太郎は驚いて口を尖らせた。


「なんでさ?」


「理由はないの。」


「ちぇっ、女ってほんと、これだから嫌になるんだ。あんなに会いたがっていたのに、いざ場所がわかったら、今度は急に気取って『やめよう』だなんて。」


 お通は微笑みながら頷いた。


「城太さんの言う通りよ。ほんとは飛んででも会いに行きたいの。」


「じゃあ、なんで行こうって言わないんだよ?」


「けど……けどね、城太さん。私は、瓜生山うりゅうやまで武蔵様と会った時、これが最後だと思って、心の中にあるすべてをお話ししました。武蔵様も『生きてまた会うことはない』とおっしゃったわ。」


「でも、生きているんだから会いに行ってもいいじゃないか!」


「いいえ。」


「いけないの?」


 お通は少し考え込みながら答えた。


「下り松での勝負は決着がついたけれど、武蔵様の心の中では、まだ何か決していないのかもしれない。それに、私に言ってくださった言葉もありますし、私はあの時、武蔵様との縁を断つ覚悟を決めたんです。たとえ居場所がわかっても、武蔵様のお許しがなければ……。」


「じゃあ、このまま十年も二十年も、お師匠様から何の連絡もなかったらどうするんだよ?」


「そうしたら、私はこうして待っているわ。」


「座って空を眺めてるだけで?」


「ええ。」


「お通さんって、本当に変わってるなあ。」


「城太さんにはわからないでしょう。でも、私はわかっているの。武蔵様の心がね……。瓜生山で最後のお別れをした時よりも、その後の方が、武蔵様の心をもっと深く理解できるようになったの。それは“信じる”ということなのよ。以前は、武蔵様を慕って、命がけで思っていました。でも、心の底から信じていたかというと、どうだったかわからない……。でも、今は違う。生きていても死んでいても、離れていても、私たちの心は比翼ひよくの鳥のように、連理れんりの枝のように、固く結ばれていると信じているから、少しも寂しくないの。」


 お通の話を黙って聞いていた城太郎は、突然声を張り上げた。


「嘘だ! 女って、ほんと嘘ばっかりつくんだ!」


 城太郎は怒りを露わにし、こう続けた。


「いいよ、もうお師匠様に会いたいなんて言わないね! これから先、どんなに泣いても、俺は知らないからな!」


 数日間の努力が無駄にされたように感じた城太郎は、腹を立て、それから晩まで一言も口をきかなかった。


 夜も更けた頃、突然庵の外に松明たいまつの赤い光が差し込み、何かがその扉を叩いた。



 烏丸家の侍が、一通の手紙を城太郎に手渡しながら言った。


「これは、お通殿がまだ屋敷におられると思って、武蔵殿が使いに持たせてよこされたものです。大納言様のお耳にも入れましたところ、すぐにお通殿へ届けるよう仰せられました。併せて、大納言様からお体を大切にせよとのお言葉もお伝えします。」


 侍はそのまま足早に去って行った。城太郎は手紙を手に取り、独り言を呟いた。


「おお、お師匠様の字だ。もし下り松で死んでいたら、この手紙は書けなかったんだなあ……。お通殿へって書いてあるけど、城太郎殿へとは書いてないな。」


 すると、お通が奥から現れて、城太郎に向かって尋ねた。


「城太さん、今、侍の方が持ってきたのは、武蔵様からの手紙じゃありませんか?」


「そうだよ。」と、城太郎は意地を張って手紙を後ろに隠しながら答える。


「でも、お通さんには関係ないだろ。」


「見せてください。」と、お通が頼むが、城太郎は「嫌だ」と突っぱねた。


「意地悪しないで、見せてちょうだい。」


 焦ったお通が泣きそうになると、城太郎は手紙を彼女に突き出しながら言った。


「ほら、見たがってるくせにさ。おいらが会いに行こうって言う時は、痩せ我慢して『嫌だ』って気取ってるくせに。」


 お通にはもう、城太郎の言葉を聞く余裕はなかった。彼女は短檠たんけいの下で手紙を広げ、その白い指先は燈芯とうしんの火と共に震えていた。


 武蔵からの便りにはこう書かれていた。


 花田橋では

 おもとに待たせたが、

 こたびは

 わしが待つであろう

 瀬田の湖畔に

 牛をつないで


 墨の香りが漂う手紙を読み、彼女のまつ毛には喜びの涙が輝いていた。まるで夢を見ているかのような心地だ。あまりの嬉しさに頭がぼうっとしてしまい、現実のものとは思えない。


 お通はまるで長恨歌の一節を思い出すかのように感じた。安禄山の反乱で楊貴妃を失った漢皇が、恋しさのあまり道士に命じて彼女の魂を探させたというあの物語。今の自分の状況は、まさにその驚愕と喜びの章のようだ、と彼女は茫然としながら、武蔵の短い手紙を何度も読み返した。


「……待つ身になると、待っている時間が長く感じるものね。少しでも早くお目にかかって……。」


 お通は、城太郎に語りかけるつもりだったが、彼女の喜びはすでに自分自身を圧倒していた。手早く身支度を整え、いおりの持ち主や銀閣寺の僧、世話になった人々に礼の言葉を手紙で残し、準備が整うとさっさと外へ出た。


 家の中で膨れっ面の城太郎に向かって、彼女は言った。


「城太さん、もう支度は済んでいるんでしょ。さあ、早く出ておいで。戸を閉めていかなきゃならないから。」


「知らない!おいらは行かない!」


 城太郎は完全にヘソを曲げて動こうとしなかった。



「城太さん、怒ったの?」

「怒ったさ! 当たり前だろ!」

「どうして?」

「だって、お通さんは勝手なんだもん。おいらがせっかく武蔵様を探し当てたのに、行こうって時に『行かない』って言うくせに!」

「でも、その理由はちゃんと話したでしょう? けれど、今は武蔵様の方から手紙が届いたんだから。」

「その手紙だって、自分だけで読んで、おいらには見せてくれないじゃないか!」

「アア、本当にそれは悪かったわ。ごめんね、城太さん。」

「もういいよ、見たくなんかない!」

「そんなに怒らないで、この手紙を見てよ。ねえ、なんて珍しいことでしょう。あの武蔵様が、私に手紙をくださったなんて、これが初めてなのよ。しかも『待ってる』なんて、優しいことを仰っしゃるなんて、これも初めて。こんな嬉しいこと、生まれて初めてじゃないかしら。だから、城太さん、機嫌を直して私を瀬田まで連れて行ってくれないかしら? ね、お願いだから、そんなにふくれてないで。」

「……」

「それとも、城太さんはもう、武蔵様に会いたくないの?」

「……」


 城太郎は黙って木刀を腰に差し、先に用意しておいた風呂敷包みを斜めに背負うと、勢いよくいおりの外に飛び出し、お通に向かって厳しい言葉を投げかけた。


「行くなら行くで、早くしろよ! ぐずぐずしてると、外から閉めちゃうぞ!」

「まぁ、怖い人ね。」


 二人は志賀山越えの道を夜通し歩き出した。先ほどの怒りをまだ引きずっている城太郎は、道中も無言のまま。寂しい夜道を進みながら、木の葉をもぎ取って笛にしたり、俗歌を口ずさんだり、石を蹴ったりして、なんとも落ち着かない様子だった。そんな彼を見て、お通がまた話しかけた。


「城太さん、実はね、いいものを持っているのに忘れてたの。あげようか?」

「……何さ?」

笹飴ささあめよ。」

「……ふん。」

「おととい、烏丸様からいろいろお菓子をいただいたでしょう? まだ少し残っているの。」

「……」


 城太郎は何も言わず、ただ黙々と歩いていたが、お通は苦しい息を我慢しながら彼に追いつき、

「城太さん、食べない? 私も一緒に食べよう。」と言って、笹飴を取り出した。


 やっと、城太郎の機嫌も少し直り、志賀山越えを登り切った頃には、北斗星が白く霞み、夜明けの気配が漂っていた。


「疲れただろう、お通さん。」

「ええ、登りが多かったから。」

「もうこれからは下りだから楽だよ。ほら、湖水が見える。」

「これがにおうみね。……瀬田はどの辺?」

「あっち。」と、城太郎は指さしながら言った。

「待ってるって言っても、お師匠様がもうそんなに早く着いてるとは思えないけど。」

「でも、瀬田まではまだ半日以上かかるでしょう?」

「そうだね。ここから見るとすぐそこみたいだけど。」


「少し休まない?」

「そうだね、休もうか。」


 すっかり気持ちが和らいだ様子の城太郎は、嬉しそうに休む場所を探し始めた。


「お通さん、お通さん、この木の下なら朝露もないし、いい場所だよ。ここに座ろうよ。」


 二人は、二本の大きな合歓ねむの木の下で腰を下ろした。



 二本の大きな木の下に腰を下ろして、城太郎が言った。


「なんの木だろう?」


 お通も眸を上げながら、

合歓ねむの木です。」

 と教えた。


 そして、

「私や武蔵様がまだ幼い頃、よく遊んだ七宝寺のお庭にもこの木があったんです。六月ごろになると、淡紅色と黄色の糸のような花が咲いて、夕月が出るころになると、その葉が重なり合って眠ってしまうんです。」


「だから、ねむの木っていうのか。」


「でも、文字で書くと『眠る』とは書かないんですよ。『合い歓ぶ』と書いて、合歓ねむって読むんです。」


「どうしてそんな字を当てるんだ?」


「誰かが作った当て字でしょうね。でも、この二本の木の姿を見ると、名前がなくても、本当に『歓び合っている』みたいに見えませんか?」


「木なんかが歓んだり悲しんだりするもんか。」


「いいえ、城太さん、木にも心があるんです。山の木々をよく見てみてください。楽しそうに立っている木もあれば、傷んで嘆いている木もあります。城太さんみたいに歌っている木もあれば、世を怒っているような群れもありますよ。石だって、聞く人が聞けば物を語るって言いますから、木にもきっと、この世の生活があるはずです。」


「そう言われてみると、なんだかそう見えてくるなぁ。じゃあ、この合歓の木はどう思ってるんだろう?」


「私には、羨ましい木に見えます。」


「どうして?」


「長恨歌を知っているでしょう? 白楽天の詩。」


「ああ。」


「長恨歌の最後に、天にあっては比翼の鳥、地にあっては連理の枝ってありますよね。連理の枝って、きっとこういう木のことを言うんじゃないかって、さっきから思っていたんです。」


「連理って、何だ?」


「枝と枝、幹と幹、根と根が結ばれて、二つの木でありながら、一つの木のように仲良く立っている木のことです。」


「なんだよ、それって。まるでお通さんと武蔵様のことを言ってるみたいじゃないか。」


「もう、城太さん。」


「勝手にしろよ。」


「――夜が明けてきましたね。なんて美しい朝の雲でしょう。」


「鳥もおしゃべりを始めたな。下りたら、朝ご飯を食べようぜ。」


「城太さんも何か歌わない?」


「何の歌だ?」


「白楽天と言えば思い出したんだけど、いつか城太さんが烏丸様の家来に教わっていた詩があったわよね。覚えている?」


長干行ちょうかんこうか?」


「ええ、あれ。あの詩を聞かせてちょうだい。節をつけて読む感じでいいから。」


「……ショウが髪始めてひたいを覆う 花を折って門前にたわむれ ろうは竹馬に騎して来り しょうめぐって青梅せいばいろうす……」


 城太郎はすぐに口ずさみ始めた。


「この詩かい?」


「そう、それ。もっと続けて。」


「……同じく長干の里に居り 両小りょうしょう嫌猜けんさい無し 十四、君のとなって 羞顔しゅうがん未だかつて開かず こうべを低れて暗壁あんぺきに向い 千喚かん一として廻らず……」


 詩の途中で、城太郎は突然立ち上がり、じっと詩を聞いていたお通に向かって言った。


「詩なんかよりさ、おいらお腹が減っちゃった。早く大津に行って朝ご飯を食べようぜ。」

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