送春譜
まだ朝の大地は湿っている。家々の煙突から立ち上る炊煙が、夜明け間もない町の空にゆらめいて、まるで戦場の煙のように広がっていた。大津の宿場町が、湖北から石山まで広がる朝靄と、立ち昇る煙に包まれ、うっすらと姿を現している。
武蔵は、夜を通して飽きるほど山道を進んできた。いや、正確には牛の歩みに任せて旅をしてきた。夜明けとともに、ついに人々の住む里に辿り着いた瞬間、牛の背から身を起こし、思わず手で目をこすりながら目の前の景色を見渡した。
――同じ時刻、お通と城太郎も志賀山を越え、大津の町を遠くに眺めながら、湖畔に向かって希望に満ちた足取りで進んでいるはずだ。――
武蔵は峠の茶屋を後にし、三井寺の裏山を降りて八詠楼のある尾蔵寺坂に差しかかっていた。お通はどこの道を通っているのか、気にはしていたが、今のところ姿は見えない。
――とはいえ、武蔵は決して焦りもしていなかったし、すぐに会えると期待していたわけでもない。烏丸家に送った茶店の女からの返事では、お通はすでに烏丸家にはおらず、彼女の養生先に手紙が届けられるということだった。
その返事を考えれば、手紙がお通の手に届いたのは昨夜だとしても、彼女の体調を考えると、今朝出発したとして、約束の場所に姿を現すのはおそらく今日の夕方ごろになるだろう、と武蔵は心の中で計算していた。
急ぐ理由もない武蔵は、牛のゆっくりした歩みに合わせて進んでいた。
牝牛は山の夜露で体が濡れている。朝露に濡れた草を見つけては、牛はしきりに草を食べ始めたが、武蔵はそれも牛の好きにさせていた。
――その時、民家の向かいにある古びた桜の木が目に入った。桜の老木の下には和歌が刻まれた石碑が立っている。
「誰の和歌だろう?」――特に気にせず通り過ぎた武蔵だったが、しばらくしてふと思い出した。
「そうだ……これは『太平記』に出てきたやつだな」とつぶやいた。
『太平記』は、武蔵が少年時代に愛読していた本の一つであり、いくつかの箇所は暗記するほどに読み込んでいた。今、ふと桜の歌を思い出し、少年時代の記憶がよみがえってきたのだ。
牛の背に揺られながら、武蔵は自然に『太平記』の一節を口ずさんだ。
――志賀寺の上人は、手に一尋の杖をたずさえ、眉に八字の霜を垂れ、湖水の波に水想観を念じたもうに、折りふし、京極の御息女所、志賀の花園の帰るさを、上人ちらと見そめ給い、妄想起りて、多年の行徳も潰え、火宅の執念に一切を喪い給う……
「少し忘れてるな」武蔵はそう思いながら、さらに続きを口に出してみた。
――柴の庵に立ちかえり、本尊仏にむかい奉るといえども、観念の床には妄想の化の立そい、称名のおん声だに、煩悩の息とのみ聞えたもう。暮山の雲をながむれば、君が花釵かと心も憂く、閑窓の月にうそぶけば、玉顔われに笑み給うかと迷うも浅まし。
――今生の妄念ついに離れずば、往生の障りともなりぬべければ、御息女所に会い奉り、わが思いのふかき一端を申して、心やすく臨終もせばやと、上人杖をつき、御所へ参りて、鞠の坪の下に、一日一夜ぞ立ちたりける……
――そんなふうに過去の記憶をたどりながら進んでいた武蔵だったが、ふと、後ろから声がかかった。
「おい、旅の武士さん、牛に乗ってどこへ行くんだ?」
気づけば、武蔵は町中に入っていた。
問屋場の人足だった。彼は駆け寄り、武蔵が乗っている牝牛の鼻面を撫でながら、牛越しに武蔵を見上げて言った。
「お侍さん、無動寺から来たんですね?」
「ほう、よく知ってるな」
「その斑牛は、以前、商人に貸し出した牛です。牛方なしで、山の無動寺へ行ったことがあるんです。お侍さん、牛賃をいただけませんか?」
「なるほど、あんたが持ち主か」
「いえ、おれの牛じゃないけど、問屋場の牛小屋にいる牛です。無賃じゃ使えませんよ」
「分かった。飼料代を払おう。――でも、賃さえ払えば、この牝牛をどこまでも連れて行っていいのか?」
「金さえ払えば、どこまででも構わないですよ。三百里先に行こうが、道中の宿場で問屋に渡せば、下りのお客が荷物を積んで、この牛はいずれ大津の問屋小屋に戻ってきますから」
「じゃあ、江戸まで行くとして、いくら払えばいい?」
「それなら、通り道ですし、問屋場に寄って名前を書いておいてください」
こうして、武蔵は人足の言う通りに問屋場へ立ち寄ることにした。
問屋場は打出ヶ浜の渡し場に近く、船着き場から降りる人や乗る人で賑わっていた。旅人が集まる場所で、草鞋を売る店や、旅の疲れを癒やす湯屋もあった。武蔵はゆっくりと朝飯を済ませ、少し早いとは思ったが、牛にまたがり、再び道へと戻った。
瀬田はもう近い。湖畔の穏やかな風景の中、牛の足に任せても昼までには着くだろう、と武蔵は思いながら進んだ。
(まだ、お通は来ていまい)
武蔵はそう考えつつも、今度お通に会うことに対して、何かしら心に安らぎを感じていた。それは、彼女に対する深い信頼だった。下り松での死闘を乗り越える前までは、武蔵は女性に対して警戒心を抱いていた。お通にも同じような不安を感じていたのだ。
だが、あの時の澄んだ態度と聡明さを見て、武蔵の心は変わった。彼女への気持ちは、単なる愛情を超えて、深く信頼するものへと変わったのだ。彼女に対して疑念を抱いていた自分が、今では申し訳なく感じていた。
このような気持ちは、お通もまた武蔵に対して抱いていた。お互いに深い信頼を寄せ、武蔵は今や何も隠すことなく彼女に全てを委ねていた。どんな願いでも、剣の道を曲げない限り、修行の道から外れない限りは、叶えてやろうと決心していた。
かつては、女性に心を奪われることで剣が鈍り、道を失うのではないかと恐れていた。しかし、お通のような理性と情熱を持つ女性なら、決して武蔵の修行の道を妨げることはないと、今では確信していた。
(そうだ、江戸まで一緒に行こう。そしてお通には、もっと学ぶべきことを教え、自分は城太郎と共に、さらに修行の高みに進もう。そして、いつか時が来たら――)
そんな考えに耽りながら進む武蔵の顔に、湖水の波が光を反射して揺れ、まるで幸福の笑みが浮かんでいるかのようだった。
二十三間の小橋と九十六間の大橋をつなぐ中之島には、古い柳の木があった。瀬田の唐橋が「青柳橋」とも呼ばれるのは、この柳が旅人の目印になっているからだろう。
「おっ、来たよ!」
中之島の茶店から駆け出した城太郎は、小橋の欄干につかまりながら片方の手で指をさし、もう片方で茶店の床几を指さして叫んだ。
「お師匠様だ! ……お通さん、お師匠様が牛に乗って来たよ!」
道行く旅人も、城太郎がなぜこんなに狂喜しているのか不思議そうに見つめていた。彼の足は雀躍していた。
「おお、ほんとうだ!」
お通も転がるように駆け寄り、二人して欄干から顔を並べて見つめる。
「お師匠さまぁ!」
「武蔵さま!」
笠を振り、手を振りながら叫ぶ二人。その目の前には、笑顔を浮かべた武蔵が近づいてくる。
やがて、牛は柳の木に繋がれた。川を隔てて遠くから見ていた時には、手を振り名を呼んでいた二人だったが、いざ武蔵がそばに来ると、お通は何も言えなくなった。笑顔を浮かべただけで、全ての言葉は城太郎が引き受けていた。
「お師匠様、もう傷は治ったの? おいら、牛に乗って来たのを見て、あの時の傷がまだ痛んで歩けないのかと思ったよ。 ……え? なんでこんなに早く来ていたかって? それはお通さんに聞いたほうがいいよ。お通さん、ほんとに勝手なんだからね。手紙が来たらこの通り、一気に元気になっちゃうんだもの!」
「ふむ、そうか、ふむ……」
武蔵は一つ一つの言葉ににこやかに頷いていたが、茶店の前でお通の話をされると、見合いに来た婿殿のように照れていた。
裏には、藤棚で覆われた小さな座敷があり、三人はそこへ移動してくつろいだ。だが、相変わらずお通は落ち着かず、武蔵も無口になってしまう。城太郎だけが、ありのままに喜びを表し、この景色と命を楽しんでいた。そして、藤の花の周りを飛び回る虻や蜂も。
「おや、いけない。石山寺の上があんなに暗くなってる。一雨きますよ。奥へどうぞ、お入りなさい」
茶店の亭主が急いで葭簀を巻き、雨戸を横に囲い始める。なるほど、江の水はいつの間にか鉛色になり、風は雨の気配を囁き始めていた。藤の花の紫色も、まるで儚く散る貴妃の袂のように、香りを漂わせながら震えていた。
――サァッと、小雨が石山颪とともに降り始めた。
「雷だ! 今年初めての雷だよ、お通さん、濡れちゃうよ! お師匠様も奥へお入りなさい! ああ、なんて気持ちがいい雨だ、ちょうどいいや!」
何がちょうどいいのかは分からないが、城太郎がそうはしゃぐと、武蔵は逆に入りづらそうにしていた。お通も顔を赤らめ、雨に濡れながら藤の花と共に縁の端に立っていた。
「おお、ひどい雨だ!」
菰をかぶって、雨の中を傘のように飛んできた男が、四宮明神の楼門に駆け込んだ。男は髪のしずくを撫でながら呟いた。
「まるで夕立みたいだ」
見る間に四明ヶ岳も湖水も伊吹山も、乳色にかすみ、ただ雨音だけが響いていた。――その時、雷光を感じ、近くに雷が落ちたのが分かった。
「……あっ」
雷が苦手な又八は、耳をふさいで楼門の雷神の像の下に縮こまっていた。
雲が切れると、まるで嘘のように陽が差してきた。雨が止むと、往来も元通りになり、どこからか三味線の音が聞こえ始めた。その時、婀娜な姿の女が道を渡り、笑顔で又八に近づいてきた。
見覚えのない女が現れた。
「あなた、又八様ですよね?」
そう言って近づいてきた。
又八が訝しげに彼女の目的を尋ねると、どうやら今その家にいるお客様が、彼を知っていて、二階から彼の姿を見かけたから、ぜひ連れて来いと頼んだらしい。言われてみれば、この神社の周辺にはいかにも娼家らしい建物がいくつか並んでいる。
「用事があるならすぐお帰りになってもいいですから」
と、その女は又八のためらいを無視して、強引に彼を導いていった。そして、近くの娼家に連れて行かれると、別の女たちが出てきて、足を洗ってくれたり、濡れた着物を脱がせたりと、もてなしてくれる。
「おれの友達って、誰なんだ?」
又八が尋ねても、二階に行けばわかると言われ、座興のつもりで詳しくは教えてくれない。
雨で濡れてしまった着物を乾かすために、一時的にここで過ごすことになったが、実は今日は瀬田の唐橋で武蔵と待ち合わせをしている。だから、すぐ帰るつもりだと念を押した。
「頼むぞ、すぐ帰るからな」
何度も念を押すと、女たちは安請け合いで、又八を二階へ押し上げた。
(二階の客って、誰なんだ?)
又八は考えたが、特に心当たりはない。ただ、こういう場所に場慣れしていないわけでもなく、むしろこういった状況に入ると頭が冴えるのが彼だった。
「やあ、犬神先生!」
いきなり座敷の客が声をかけてきた。足を止めた又八が、その声の主を確認すると、満更知らない相手ではなかった。
「や? ……お前は」
「忘れたか? 佐々木小次郎だ」
「犬神先生って呼ばれたのは?」
「お前のことだよ」
「俺は本位田又八だが」
「それは知っているさ。かつて六条松原で、犬に囲まれた時のことを思い出したからだ。あの時のお前の姿が犬の神様みたいだったので、尊称として『犬神先生』と呼ばせてもらったのさ」
「冗談じゃないぜ。あの時はひどい目に遭ったんだぞ」
「だが今日は、その代わりにいい目に遭わせてやろうと思って呼んだんだ。まあ、座りなさい。――おい、女たち、この人にお酌をしてくれ」
小次郎は女たちに杯を持たせて又八に勧めた。
「瀬田で待っている人がいるから、すぐ帰るんだ。 ……おい、飲めないってば」
又八は断った。
「瀬田で誰が待っているんだ?」
「宮本という、俺の幼馴染だ――」
と答えかけるのを、小次郎は遮って早口で言った。
「なに、武蔵が? ……ふむ、そうか。峠の茶屋で約束したんだな」
「よく知っているな」
「お前の生い立ちや、武蔵の経歴、みんな聞いている。お前の母親、お杉殿とも会ったぞ。叡山の中堂で会って、今日までの苦労話も詳しく聞いた」
「え? 俺のおふくろと会ったって? ……実は、昨日から俺も捜し歩いていたんだが」
「立派なお母上だ。中堂の僧侶たちも同情していたよ。俺も助太刀すると約束して別れた」
小次郎は杯を洗い、又八に差し出した。
「さあ、又八。旧怨を雪いで、共に飲もうじゃないか。武蔵なんて恐れるな。佐々木小次郎がついている」
小次郎は頬を赤くして杯を差し出したが、又八は手を出さなかった。
見栄っ張りな小次郎も、酔うと普段の端麗な態度や構えを忘れてしまう。
「又八、なんで飲まないんだ?」
「もうお暇するよ」
小次郎の左手が素早く動き、ぐっと又八の腕を掴んだ。
「いかん!」
「でも、武蔵と――」
「ばかを言うな! 貴様一人で武蔵と名乗り合えば、立ちどころに返り討ちにされるぞ」
「いや、もうそんな争いごとは捨てたんだ。俺は、あの親友に縋って、これから江戸で真面目に生きていくつもりなんだ」
「なに? 武蔵に縋るだと?」
小次郎は嘲笑を浮かべた。
「世間は武蔵を悪く言うが、それは俺のおふくろが間違って言いふらしているんだ。おふくろは武蔵を誤解している。それが、今度で分かったんだ。俺は武蔵のような立派な人間に学んで、今さらだけど志を立てようと思うんだ」
「アッハハハハ! わははは!」
小次郎は手を叩いて笑った。
「お前は本当にお人好しだな! なるほど、お母上もそう言っていた。貴様は武蔵に騙されているんだよ」
「いや、武蔵は――」
「まあ、黙って聞け。お母上を裏切って武蔵に加担するなんて、不孝者がどこにいるんだ。他人の俺でさえ、お母上の話を聞いて義憤を感じ、助太刀を誓ったんだぞ」
「何と言われても、俺は瀬田に行く。放してくれ。……おい、女、着物は乾いただろう? 俺の着物を出してくれ」
「出すな!」
小次郎は酔った目を吊り上げて言い放った。
「出させるな。――いいか、又八、お前が武蔵と共に行くつもりなら、まずお母上に会って説明し、納得させるべきだ。あの老母はそんな屈辱を理解するとは思えんぞ」
「そのおふくろを捜しても見つからないから、一先ず俺は武蔵と江戸に向かおうと思う。俺が立派な人間になれば、全ての問題は解決するさ」
「それは、武蔵が言った言葉だろう。明日になったら、俺も一緒にお母上を捜してやる。とにかく、まずはお母上の意見を聞け。それから行くべきだ。今夜は飲もう、嫌でも小次郎に付き合え」
ここは娼家で、女たちも小次郎の側についており、又八の着物を返してくれるはずもなかった。日が暮れ、ついに夜も更けてしまった。
しらふでは小次郎に逆らえない又八だったが、酔えば彼もまた強気になる。酒を飲み始め、やがて鬱憤を晴らして小次郎と飲み合った末に、疲れ果てて眠ってしまった。
目を覚ましたのは翌日の昼過ぎだった。小次郎はまだ別の部屋で眠っているという。昨晩の雷雨とは打って変わって、今日は澄んだ青空が広がっていた。又八は、武蔵との約束を思い出し、昨夜の酒を吐き出したくなった。
急いで階下に降りて、着物を身にまとい、急いで瀬田の橋へと向かった。
赤く濁った瀬田川の水に、石山寺の花々が流され、藤茶屋の藤の花も散っていた。
「牛を繋いで待っていると言ったが……」
その牛は小橋の袂にも、中之島にも見当たらなかった。
諸所を捜した末に、中之島の茶店で話を聞くと、牛に乗っていた侍ならば、昨日の夕方までここに待っていたが、夜になって旅籠へ移り、今朝再び戻ってきた。しかし、しばらくして手紙を書き、もし後から自分を訪ねてくる者がいたら、この手紙を渡してほしいと、青柳の枝に結びつけて先に立ち去ったという。
見上げると、柳の枝に白い紙が結ばれており、まるで蛾のように風に揺れていた。
「済まなかった……。先に行ってしまったのか」
又八はそっとその手紙を解いた。




