春を病む人
雪が慌ただしく溶け去り、春が一気に駆け込んできたような日だった。
おととい降った雪の痕跡はもうなく、今日の暖かな陽射しに、綿の服を全部脱ぎ捨てたくなるほど。
温かい風が吹き、植物たちはすべて鮮やかに芽吹き始めた。
「たのもう! どなたかいませんか?」
泥だらけの背中で、ぬかるみを跳ね飛ばしながら、若い旅の禅坊主が玄関に立って大声を張り上げた。
しかし、誰も出てこない。
彼は仕方なく玄関を離れ、雑用部屋の方へ回って窓から中を覗き込んだ。
「なんだい、お坊さん?」
後ろから声をかけてきたのは少年だった。
禅坊主は振り向き、奇妙な風体の少年を見て、(お前こそ誰だ?)と言いたげな目でじっと見つめた。
ここ、烏丸光広卿の館に、どうしてこんな子供がいるのか。
その不釣り合いさに驚いたのだろう。
禅坊主はしばらく黙ったまま、じっと城太郎の姿を見つめていた。
城太郎は長い木剣を腰に横たえ、なにやら懐を膨らませながら、その上を手で押さえていた。
そして言った。
「お坊さん、もしお施米が欲しいなら、台所の方に回らないとダメだよ。裏門は知らないのかい?」
「お施米? そんなものをもらいに来たわけじゃない!」
若い禅坊主は、胸にかけている文筥を指さしながら、
「私は泉州の南宗寺の者で、この館にいらっしゃる宗彭沢庵殿へ急な手紙を届けに来たんだ。お前、台所で働いている小僧か?」
「俺? いや、ここに泊まってるんだ。沢庵さんと同じ客さ」
「そうか。それなら沢庵殿に伝えてくれないか? お国元の但馬から、急ぎの手紙が届いたと」
「わかった。待ってろよ、今すぐ呼んでくるから」
城太郎は勢いよく玄関に飛び上がり、汚い踵の跡を式台に残しながら、奥へと駆け出した。
しかし、衝立につまずいた拍子に、懐から小さな蜜柑がいくつも転がり出た。
あわてて蜜柑を掻き集めると、城太郎は再び走り出していった。
少し経って戻ってくると、城太郎は言った。
「いないよ。今日は朝から大徳寺に行ってるんだってさ」
「帰りは分かるか?」
「たぶん、もうすぐ戻ってくるだろ」
「それじゃあ、待たせてもらうしかないな。どこか邪魔にならない部屋はあるか?」
「あるよ」
城太郎はにっこり笑いながら、まるでこの館のことをすべて知っているかのように先導し、禅坊主を牛小屋に案内した。
「ここなら誰にも邪魔されないよ」
そこは藁や牛の糞、牛車の輪などが散らばっている。
驚いた顔をした禅坊主を残し、城太郎はさっさと去っていった。
そして、館内の庭を駆け抜け、「西の屋」の陽あたりの良い部屋へと向かった。
「――お通さん、蜜柑買ってきたよ!」
そう叫びながら部屋を覗き込んだ。
お通は薬を飲んでいるし、手当てだって十分なのに、今回の熱はどうにも下がらない。
それに、全く食欲もなかった。自分の頬に手が触れるたび、彼女は内心で驚く。
(ああ、こんなに痩せてしまって……)
病気だと思ってはいないし、烏丸家の医者も「心配ない」と言ってくれた。
それなのに、どんどん痩せていくのはどうしてだろう――。
その不安に神経が過敏になり、熱と絡み合って、ますます彼女を苦しめる。
唇がやたらと乾くので、
(蜜柑が食べたい)
と、ぽつりと呟いた。
ここ数日、何も食べられない彼女を心配していた城太郎は、すかさず問い返した。
(蜜柑……?)
そして、すぐさま蜜柑を探しに外へ飛び出していったのだ。
しかし、台所の役人に聞いても、館には蜜柑などないと言われた。
仕方なく外へ出て、青物屋や食べ物屋を歩いて回ったが、どこにも蜜柑は見当たらなかった。
京極の原に市が立っていた。
城太郎はそこでも、
(蜜柑はないか、蜜柑はないか)
と探し回ったが、そこに並んでいたのは絹糸や木綿、油、毛皮といった店ばかりで、蜜柑の姿は一つも見つからない。
どうしても、お通の食べたいという蜜柑を手に入れたい――そう強く思った城太郎は、他人の屋敷の塀の上にたまたま蜜柑らしきものを見つけた。
思わず盗みたくなって近寄ったが、それは橙で、食べられない花梨の実だった。
京都の町の半分ほどを探し回り、ついにお社の拝殿で蜜柑を見つけた。
それは芋や人参と一緒に三方に載せられ、神前に供えられていたのだ。
城太郎は蜜柑だけを懐に詰め込み、逃げ出した。
後ろから神様が、
(泥棒、泥棒)
と追いかけてくるような気がした。
怖くなった城太郎は、
(俺は食べませんから、どうか罰を当てないでください!)
と心の中で謝りながら、烏丸家の門へ逃げ込んだ。
けれど、お通にこのことは話せない。
城太郎は彼女の枕元に座り、懐から蜜柑を一つずつ並べ、さっそく一つを取って皮を剥き、
「お通さん、これ、うまそうだぜ。食べてみてよ!」
と、彼女の手に持たせた。
だが、お通は何か強い感情に襲われたのか、顔を横に背けて蜜柑を食べようとしない。
「どうしたんだよ?」
城太郎はその顔を覗き込んだ。
お通は顔を枕にうずめて、ますます拒むように見える。
「……なんでもないの。ただ、なんでもないの」
と、かすれた声で答える。城太郎は舌打ちしながら、
「また泣き虫が始まったのか。せっかく蜜柑を買ってきたってのに、泣かれたらつまんねぇよ」
「ごめんなさい、城太さん」
「食べないのか?」
「……ええ、後でね」
「皮まで剥いたんだから、ちょっと食べてみろよ。ね? 食べればきっと美味しいぞ」
「美味しいでしょうね。城太さんの気持ちだけでも。でも、食べ物を見ると、もう唇に入れる気にならないの……。勿体ないけど」
「泣くからさ、なんでそんなに悲しいんだよ」
「城太さんがあんまり親切だから、それが嬉しくて……」
「泣くなって、俺まで泣きたくなるじゃねぇか」
「もう泣かない……泣かないから、許してね」
「じゃあ、それ食べてくれよ。何か食べないと、死んじまうぞ」
「わたし、後でいただくから。城太さん、あなたが食べて」
「俺は、食べない」
神様の目が怖くて、城太郎はそう言いながら、生唾を飲み込んだ。
「ねえ、城太さん、蜜柑好きじゃないの?」
「いや、好きだよ」
「じゃあ、どうして今日は食べないの?」
「どうしてでもないけど……」
「わたしが食べないから?」
「うん、まあ……そうだな」
「じゃあ、わたしも食べるから、城太さんも一緒に食べて」
お通は、仰向けに顔を戻し、細い指で蜜柑の薄い袋の繊維を丁寧に取り除き始めた。
それを見て、城太郎は困った顔をしながら言った。
「実はさ、お通さん……俺、途中で、もうたくさん食べちゃったんだよ」
「……そうだったの」
乾いた唇に蜜柑の一房を含みながら、お通はまるで夢を見るように呟いた。
「沢庵さんは?」
「今日は大徳寺に行ってるってさ」
「おととい、沢庵さん、武蔵様に会ったんですってね」
「うん、そう聞いたよ」
「……その時、沢庵さん、わたしがここにいることを武蔵様に話したのかしら」
「きっと話したと思うよ」
「そのうち、武蔵様をここに呼んでくださるって、沢庵さんはわたしに言ってたけど……城太さんには、何も言ってなかった?」
「俺にはそんなこと、一言も言わなかったな」
「……忘れちゃったのかしら」
「帰ってきたら、聞いてみようか?」
「ええ、お願い……でも、わたしがいないところで聞いてね」
「なんで? お通さんの前で聞いちゃダメなの?」
「なんだか、ちょっと恥ずかしいから」
「そんなこと、気にする必要ないじゃん」
「でも……沢庵さん、わたしの病気を“武蔵病”なんて呼んでるんだもの」
「ははっ! 気づいたらもう蜜柑、食べちゃってるよ!」
「えっ、蜜柑?」
「もう一つ食べないか?」
「もう十分よ、美味しかったわ」
「きっとこれから、なんでも食べられるようになるよ! こんな時に武蔵様が来たら、すぐに元気になっちゃうんじゃない?」
「城太さんまで、そんなこと言うなんて……」
城太郎とこんな風に話している間、お通は熱や体の痛みを忘れていた。
その時、烏丸家の小侍が縁の外から声をかけてきた。
「城太殿、いらっしゃいますか?」
「はい、いますよ!」
城太郎が答えると、小侍は続けて言った。
「沢庵殿が、お呼びです。すぐにお越しください」
そう告げると、小侍は立ち去っていった。
「おや、沢庵さん、帰ってきたのかしら?」
「うん、じゃあ行ってくるよ」
「城太さん、寂しくない?」
「大丈夫だよ!」
「じゃあ、用が済んだら、すぐに戻るからね」
城太郎が立ち上がろうとすると、お通がふと思い出したように言った。
「城太さん……あのこと、忘れずに聞いてね」
「あのことって?」
「もう忘れちゃったの?」
「あ、武蔵様がいつここに来るのかってことか。それを聞けってことだね」
お通の痩せた頬に、うっすらと赤みが差した。夜具の襟で半分顔を隠しながら、彼女はそっと念を押した。
「忘れちゃダメよ、絶対に聞いてね、城太さん……必ずね」
沢庵は、烏丸光広の居間で何か話していた。襖を開けて、城太郎が顔を出す。
「沢庵さん、何か用事?」
城太郎が後ろに立っていると、沢庵は「まあ、座りなさい」と言った。光広は城太郎の無作法を気にせず、にやにやと眺めている。
城太郎が側に座るやいなや、沢庵に向かって言った。
「あのね、沢庵さんのところに、泉州の南宗寺から、坊さんが急用で来て待ってるんだ。呼んでこようか?」
「いや、そのことならもう聞いた」
「もう会ったの?」
「君、あの使いの者がひどく困っていたぞ」
「どうして?」
「はるばる来た使者を、牛小屋に案内して『ここで待て』と言って、ほったらかしにしたらしいじゃないか」
「だって、あの人が『邪魔にならない場所にしてくれ』って言ったんだよ!」
光広は膝を揺らしながら、笑い声をあげた。
「ハハハハ! 牛小屋に入れたのか、それはひどいな!」
だが、すぐに真剣な顔に戻り、沢庵に向かって尋ねた。
「では、お坊は泉州に戻らず、すぐに但馬へ向かうおつもりか?」
沢庵はうなずき、「書面の内容が気になるので、早めに行動したい」と答える。そして、特に支度もない身だから、明日を待たず、今すぐ出発したいと言う。
二人の会話を聞きながら、城太郎は不思議そうに質問した。
「沢庵さん、旅に出るの?」
「急に国元に行かなければならなくなった」
「何の用事?」
「故郷にいる母が倒れて、今回はかなり重い状態だという知らせが来たんだ」
「沢庵さんにも、お母さんがいたんだね」
「私も木の股から生まれたわけではないからな」
「今度、いつ帰ってくるの?」
「母の具合次第だな」
「じゃあ……困ったなあ。沢庵さんがいなくなっちゃうと」
城太郎は、お通のことを思いやりつつ、自分たちのこれからのことも考え始め、少し心細くなったのか、さらに質問を重ねる。
「じゃあ、もう沢庵さんとは会えなくなるの?」
「そんなことはない。また必ず会えるさ。お前たち二人のことは、このお館にも頼んであるから、お通さんも心配せずに早く元気になれるように、勇気づけてやりなさい。あの病には、薬よりも心の力が必要なんだよ」
「でも、おいらの力じゃダメだよ。武蔵様が来ないと、治らないって」
「困った病人だな。お前も、とんでもない相手と道連れになったもんだ」
「おとといの晩、沢庵さん、どこかで武蔵様に会ったんだろ?」
沢庵は光広と顔を見合わせて、苦笑を浮かべた。どこで会ったのか深く聞かれるのは避けたい様子だったが、城太郎はそんな細かいことには興味がないようだった。
「武蔵様は、いつここに来るの? 沢庵さんが『武蔵様を呼んでやる』って言ったから、お通さんは毎日それを待ってるんだよ。ねえ、沢庵さん、俺の師匠は今どこにいるんだ?」
城太郎は、住所さえ分かれば自分で迎えに行こうとでも考えている様子だった。
「うむ……あの武蔵か」
沢庵は曖昧に答えたが、彼もまた、武蔵とお通を再会させてやろうという気持ちを忘れてはいなかった。
実際、今日もそのことを気にかけ、大徳寺の帰りに光悦の家に立ち寄り、武蔵の居所を尋ねてみたところ、光悦は困った顔をしながらこう言った。
「どういうわけか、おとといの晩から武蔵は扇屋からまだ戻ってきていません。母の妙秀尼も心配しています。なので、吉野太夫に手紙を送って、早く返してもらうよう頼んだばかりです」——と話したのだ。
「ほぉ... では、あの夜、武蔵という男は、それっきり吉野太夫のところから戻ってこないのか?」
光広は目を大きく見開いて言った。半ば驚き、半ば軽い嫉妬を含んだ調子で、わざと大げさに。
沢庵は、城太郎の手前、多くを語らずにただ、
「あれも結局、平凡でつまらない人間だったということだ。若い頃に天才と呼ばれる者ほど、歳を重ねると期待外れになることが多い」
そう言って、少し呆れたような口調だった。
「それにしても吉野も、変わり者だな... どうしてあんな無骨者に惚れたのか」
光広は続けた。軽蔑を込めた口調で、武蔵のことを全く理解できないと言いたげだった。
「吉野にしても、お通にしても、女の気持ちは私には到底わからぬ。私から見れば、どちらも病人のようなものだ。だが、武蔵にもそろそろ春が来たのだろう... 本当の修行はこれからだ。危険なのは剣ではなく、女の手だ。だが、他人の手でどうにかなるものではないから、放っておくしかあるまい」
沢庵は、独り言のように呟いてから、ふと心を旅路へと向け、光広に別れを告げた。彼はお通の病と城太郎の世話を改めて頼んで、間もなく烏丸家を後にした。
旅立ちを朝に決めているのは普通の旅人のこと。沢庵にとっては、朝でも夕でも問題にはならないようだ。陽が西に傾き、往来を歩く人影や牛車に虹色の暮靄が漂っていた。
そんな時、後ろから「沢庵さん、沢庵さん!」と必死に呼びかける声が聞こえた。沢庵は振り返り、困ったような顔をして見ると、城太郎が息を切らせて駆け寄ってきた。
「沢庵さん、お願いだから、もう一度戻ってお通さんに何か言ってやってくれよ。お通さんがまた泣き出しちゃって、俺にはどうしていいかわからないんだ!」
「お前、武蔵のことを話したのか?」
「だって、聞かれたから...」
「それでお通さんが泣き出したのか?」
「そうだよ... お通さん、もしかしたら死んじゃうかもしれない」
「どうして?」
「だって、死にたそうな顔してたんだ。『もう一度会って死にたい、会ってから死にたい』って言ったんだ」
「じゃあ、死ぬ気はないな。放っておけ、放っておけ」
「沢庵さん、吉野太夫ってどこにいるの?」
「そんなこと聞いてどうするつもりだ?」
「俺の師匠はそこにいるんだろ? さっき、お館様と沢庵さんが話していたじゃないか」
「お前、そのこともお通さんに喋ったのか?」
「ああ」
「だからあの泣き虫が死にそうなことを言うんだ。わしが戻ったところで、急にお通さんの病気を治してやる妙案もないから、こう言って伝えなさい」
「なんて言うの?」
「『ご飯をちゃんと食べなさい』ってな」
「なんだ、それなら俺が毎日百遍も言ってるさ」
「そうか、それはお前の言葉が、お通さんにとって無二の名言だからだ。でも、それでも耳に届かない病人なら、正直にすべて話してやれ」
「どうやって?」
「武蔵は吉野という遊女に夢中になって、もう三日も扇屋から戻ってこない。それを見ても、武蔵が少しもお通さんを想っていないことがわかるだろう。そんな男を慕ってどうするのだと、泣き虫のお馬鹿さんに言ってやれ」
聞くも不愉快に、城太郎は頭を強く振った。
「そんなこと、あるもんか! 俺の師匠はそんな人じゃない! そんなこと言ったら、お通さんは本当に死んじまうぞ! なんだよ、沢庵坊主、お前こそ大馬鹿だ、大馬鹿三太郎だ!」
「おや、叱られちゃったな。ハハハ、怒ったのか、城太郎」
「だって、沢庵坊主が、俺のお師匠様のこと悪く言うからさ。それに、お通さんのことを馬鹿だなんて言うし...」
「可愛い奴だな」
沢庵が城太郎の頭を撫でると、城太郎はその手を振り払って言った。
「もういいよ。沢庵坊主なんかに頼まないから。俺ひとりで武蔵様を見つけて、お通さんに会わせてやるから、いいんだ」
「お前、武蔵の居場所を知っているのか?」
「知らなくたって、探せばわかるさ。余計な心配するな」
「まあまあ、そんなに頑固になるな、城太郎。だが、お前には吉野太夫の家は簡単に見つけられんだろうな。教えてやろうか?」
「頼まない、頼まない!」
「そんなに怒るな。わしだって、お通さんの敵じゃないし、武蔵を憎んでいるわけでもない。むしろ、どうにかしてあの二人が幸せに過ごせるよう、陰ながら祈っているんだ」
「じゃあ、なんで意地悪するんだよ?」
「お前には意地悪に見えるかもしれんが、そうではない。実のところ、武蔵もお通さんも、どっちも病人みたいなものだ。体の病を治すのが医者で、心の病を治すのが坊主というが、お通さんの病はかなり重い。武蔵は放っておいてもどうにかなるかもしれんが、お通さんは今のところ手の施しようがない。だからこう言うんだ。――武蔵みたいな男に片想いしても仕方ない、もっとしっかり食べて元気になれってな」
「だからいいよ! 沢庵坊主なんかに、もう何も頼まない!」
「わしの言葉が嘘だと思うなら、六条柳町の扇屋へ行ってみろ。そこで武蔵がどうしているか見届けて、その事実をお通さんに伝えてやれ。最初は悲しむだろうが、それで目が覚めるかもしれん」
城太郎は耳に指を入れて塞ぎながら言った。
「うるさい、うるさい! この坊主!」
「なんだ、お前がわしの後を追ってきたくせに」
「坊主、坊主! 俺には布施はないぞ。布施が欲しいなら歌でも歌ってみろ!」
沢庵に向かって謡うように罵倒しながら、城太郎はその姿が遠くなっていくのを見送った。しかし、沢庵の影が道の向こうに隠れると、城太郎の目には涙があふれてきて、ぽろぽろと溢れ落ちるまで、彼はしばらく立ち尽くしていた。
涙を肘で拭い、急に何かを思い出したように通りを見回すと、城太郎は被衣を着た女性に駆け寄り、突然問いかけた。
「六条柳町ってどこ?」
驚いた様子の女性は答えた。
「遊廓でしょう」
「遊廓って何?」
「まあ!」
「何をするところ?」
「嫌な子ね!」
女性は睨みつけるようにして、城太郎を無視して通り過ぎてしまった。
なぜそんな反応をされたのか、城太郎は全く気にせず、懲りずに次々と六条柳町への道と扇屋という家の場所を尋ね歩いていった。




