断絃
すでにこの遊郭のあたりでも、音を立てる家はほとんどないようだった。
琴や三味線の音も、いつの間にかやんでしまい、丑三つ時を告げる鐘が鳴ったのも、つい先ほどのことのように思えた。
一同が去ってから、もう一刻余りが過ぎた――
武蔵は、一人で、土間の上がり框に腰をかけていた。
まるで囚われ人になったかのような、ぽつんとした佇まいである。
一方、吉野は、客がいた時も、そして今、皆が去った後も変わらず、炉のそばで牡丹の木を焚べていた。
「そこではお寒いでしょう。どうぞ、炉のそばへお寄りくださいませ」
吉野は、これまで何度もそう声をかけてきたが、武蔵はそのたびに、
「お気遣いなく。どうぞお休みください。夜が明け次第、私は自由に帰りますので」
と、固辞し続け、吉野の顔をあまり見ようとしない。
二人きりになると、吉野もなんとなく恥ずかしげになり、口数が減ってしまった。
異性を意識するようでは、遊女の仕事は務まらない――そんな風に考えるのは、安女郎の世界しか知らない低俗な客たちの常識に過ぎない。
しかし、吉野と武蔵の間には、どうしても超えられないほどの違いがあった。
年齢では、吉野のほうが武蔵より一つか二つ年上かもしれないが、異性への理解や経験においては、吉野ははるかに大人びていた――そんな彼女ですら、深夜の二人きりという状況では、相手が自分を見るのもためらうほど、固くなっている姿を前に、まるで処女のように初心な動悸を感じていた。
事情を知らない引船と禿は、先に去る前に隣の部屋に大名の姫君でも泊まるかのような豪華な寝具を整えていた。
繻子の枕に下がる金の鈴が、ほの暗い閨の中でかすかに光っていた。
それが、かえって二人の寛ぎを邪魔しているように感じられた。
時折、屋根や梢から雪が落ち、どさっと地響きのような音を立てた。
まるで誰かが塀の上から飛び降りたかのような大きな音だった。
「……?」
吉野は、そっと武蔵の様子を見た。
武蔵は、その音が聞こえるたびに、まるで針鼠のように全身に戦気をまとい、鋭く目を光らせた。
彼の眸は鷹のように澄んでおり、神経は髪の先まで研ぎ澄まされている。
彼の体に触れたものはすべて斬られてしまうのではないか――そんな思いが吉野の胸をよぎった。
「…………」
「…………」
吉野は不意にぞっとした。
夜明け前の寒さが骨の髄まで染み渡るようだったが、それとは違う戦慄が彼女を包んでいた。
戦気の緊張と、異性に対する胸の高鳴り、二つの感情が沈黙の中で同時に駆け巡っていた。
その間に、牡丹の薪はなおも燃え続けている。
やがて、彼女が釜にかけた湯がたぎり始め、松風の音が静かに響き始めたころ、吉野はようやく心を落ち着かせ、普段通りに茶の支度を始めた。
「もう程なく夜も明けるでしょう……武蔵様、一服いかがですか。こちらで温まりながらおくつろぎください」
「ありがとう」
武蔵は短く返事をし、軽く会釈したものの、依然として背を向けたままだった。
「どうぞ」と再び勧める吉野も、これ以上はしつこくも言えず、やがて再び黙り込んでしまった。
せっかく心を込めて立てた茶も、帛紗の上で冷めていくばかり――。
吉野は、ふっと不機嫌になったのか、それとも、武蔵がただの田舎者だと思ったのか、帛紗を引き、茶碗の中の茶を湯こぼしに捨ててしまった。
そして、まるで哀れむような目で、武蔵の背中をじっと見つめた。
その背中は、まるで全身を鉄の鎧で固めたかのように、一分の隙も見えなかった。
「もし、武蔵さま」
「なんですか?」
「あなたは、誰に対してそんな風に備えているのですか?」
「誰にではない。自分の油断を戒めているのだ」
「敵に対しても?」
「それは当然のことだ」
「それでは、もしここに吉岡道場の門人たちが大勢押し寄せてきたら、あなたはたちまち斬られてしまうでしょう。私にはそう思えてならないのです。本当に、哀れなお方だわ」
「……?」
「武蔵さま、私は兵法のことは分かりませんが、あなたの所作や眼差しを宵の頃からずっと見ていると、まるで今にも斬られて死ぬ人のように見えてならないのです。言ってしまえば、あなたの顔には死相が満ちているように感じます。兵法者として世に立っていく方が、そんな状態で、大勢の敵を前に勝てるのでしょうか?」
吉野は詰め寄るように続け、言葉の端々で武蔵を打ち倒すように、そしてその小心さを嘲笑うかのように微笑んだ。
「何だと?」
武蔵は土間から足を上げ、吉野の座る炉の前にピタリと座り直した。
「吉野どの、この武蔵を未熟者だと笑ったのか?」
「お怒りになったのですか?」
「言った者が女だから怒りはしないが、拙者が今にも斬られる人間のように見えたとは、どういうことだ?」
そう言いながらも、武蔵の眼には鋭い光が宿っていた。
吉岡道場の門弟たちが自分を待ち伏せし、闇討ちの準備をしている気配は、吉野からの報告を受けなくとも、武蔵自身、すでに全身で感じ取っていた。
それは決して突然の驚きではなく、彼の覚悟の一部として存在していたものだった。
あのまま、蓮華王院から姿を消すこともできたかもしれない。
しかし、それでは同行していた光悦に対して無礼となるし、あの禿のりん弥に「戻ってくる」と約束した言葉も嘘になってしまう。
さらに、吉岡道場の報復を恐れて姿を隠したと思われるのも不本意だった。
それゆえ、武蔵は再び扇屋に戻り、何事もなかったかのように振る舞い、同席していたのだ。
それ自体、武蔵にとってはかなりの試練であり、苦痛を伴う辛抱でもあったが、それでも彼は自分の余裕を示したつもりでいた。
――にもかかわらず、吉野はそれを未熟だと笑い、彼に「死相が見える」とまで言うのはどういうことなのか。
もしこれが単なる遊女の軽口であれば気にしないが、何かを心得た上で言っているなら、聞き流すわけにはいかない。
たとえ今、この家を包む剣の気配があったとしても、武蔵は真剣な眼差しを吉野に向け、鋭く問い詰めた。
武蔵の鋭い視線はまるで刀の刃先のように鋭く、じっと吉野の白い顔に向けられていた。
彼女の答えを待つその眼差しは、冗談では済まされないほどの真剣さだった。
「――ふざけてるのか!」
武蔵が低く、少し感情を抑えきれない声で問いかけると、吉野は一瞬その口元の微笑を消し、次の瞬間にはまた微笑みを浮かべて言った。
「なんの、ふざけてなどいませんよ」
彼女は優雅に首を振り、続けた。
「いかに武芸者の武蔵様とはいえ、今の言葉を冗談で申し上げることなど、決してありません」
「ならば聞こう。どうして俺の姿が、そなたには敵に斬られそうに見える? 俺が未熟だとでも言いたいのか?」
武蔵の声は少し鋭くなり、答えを待つその姿勢からは一切の余裕が感じられない。
彼女の言葉に対する真剣な疑念が、彼の全身から滲み出ていた。
「そこまで仰るのなら、説明いたしましょう。武蔵様、先ほど吉野が皆様への慰みとして弾いた琵琶の音を、聴いていらっしゃいましたか?」
「琵琶? あの音楽と俺の身がどう関係がある」
「お尋ねしたのが愚かでしたわ。あなたは始終何かに気を張り詰めておいでのようでしたので、きっとその一曲の複雑な音の数々も、聴き分けられなかったでしょう」
「いや、聴いていた。そこまで夢中になっていたわけではない」
「では、あの四本の弦からどうして、あのように力強い調子や、緩やかな調子が、さまざまな音色として自由自在に出るか、ご存じですか?」
「それはどうでもいい。俺はそなたの語る平曲を聴いていただけだ。それ以上、何を求めろというのか」
「仰せの通りです。それで十分なのですが、私は今、琵琶を一つの人間にたとえてみたいのです。四つの弦と板の胴から、あの数多の音が生まれるのは不思議だと思われませんか?」
吉野は続けた。彼女の話し方は落ち着いていたが、その中にはどこか深い意図が隠されているようだった。
「白楽天の『琵琶行』という詩をご存じでしょう? そこには、琵琶の音色が見事に表現されています。たとえば――」
吉野は細い眉を少ししかめながら、低い声で詩を朗読し始めた。
「大絃はそうそう急雨のごとく
小絃は切々(せつせつ)私語のごとし」
彼女の声は静かだが、その言葉には力があった。
「……これが琵琶の音色。わずかな弦から、これほど多くの音色が生まれるのです。私も小さな頃から琵琶の不思議に心を奪われ、ついには自分で琵琶を壊し、また作り直して、その奥にある『心』を見つけました」
吉野は一度言葉を切ると、静かに立ち上がり、さっきまで弾いていた琵琶を手に取って再び座り直した。
彼女は武蔵と自分の間に琵琶を置き、その楽器を見つめながら続けた。
「この琵琶の音色の秘密も、この板の中を割ってみれば、特に不思議なことではないのです。それを、あなたにお見せしましょう」
彼女は突然、手に細い鉈を握りしめ、軽く振り上げた。
武蔵が息を飲む間もなく、その鉈の刃は琵琶の角に深々と突き刺さった。
袈裟板から桑胴まで、容赦なく切り裂かれる音が響いた。
武蔵は、まるで自分の骨がその鉈で切られたかのような痛みを感じた。
しかし、吉野は惜しげもなく、見事なまでに琵琶を縦に裂いてしまったのだ。
「ご覧ください」
吉野は鉈をそっと背後に隠し、自然な微笑を浮かべながら武蔵に話しかけた。
裂かれた琵琶の胴は、その中の構造が生々しくむき出しになり、灯りに照らされてはっきりと見えていた。
「……?」
武蔵は琵琶と吉野の顔を見比べ、その柔和な顔にどこに先ほどのような激しい気性が潜んでいるのか疑問に思った。
まだ彼の頭には、あの鉈が琵琶を裂く音が残響しており、どこかに鈍い痛みを感じていたが、吉野の頬はまったく赤くなっていなかった。
「この通り、琵琶の中は空っぽです。しかし、あの複雑な音色はどこから生まれるのかと言えば、胴の中に架けられた一本の横木によるものです。この横木こそが琵琶を支える骨であり、心臓であり、魂そのものです」
吉野は武蔵に語りかけながら、琵琶の内側を指し示した。
「ですが、この横木がただ頑丈に胴を支えているだけでは、何の音も生まれません。横木には、音色の変化を生むためにわざと凹凸がつけられているのです。そして、それでもなお、本当の音色を生むのは、横木の両端が適度に弛んでいる部分からなのです。この弛みこそが、真の音を生むのです」
武蔵はじっと琵琶の胴を見つめ続け、何も言わなかった。
「人の心も、この琵琶と同じだと思うのです」
吉野はさらに続けた。
「弛みと張り、これがなければ、音は出せません。ただ張り詰めているだけでは、変化のある音など生まれず、無理に弾けば絃は切れ、胴は裂けてしまいます。私が今宵、あなたの姿を見て、まさにそのように感じたのです。あなたは張り詰めすぎていて、まったく弛みがない――そんな心では、いずれ壊れてしまうのではないかと、ひそかに心配しておりました」
吉野の声には深い憂いが含まれていた。
武蔵は彼女の言葉をじっと聞きながら、目の前の白い木屑と断たれた絃を見つめ続けた。
外から鶏の声が聞こえ、朝の光が隙間から差し込んできた。しかし、武蔵はその音も、光もまるで気にしていなかった。
「……朝が来ましたね」
吉野は炉に焚木を足そうとしたが、牡丹の木はもう使い切ってしまっていた。
外の世界はすでに目覚め、小鳥のさえずりや人々の気配が遠くから聞こえてくる。
しかし、吉野はまだ雨戸を開けようとはしなかった。
彼女の体温はまだ温かく、静かにその場にとどまっていた。
禿や引船も、吉野が呼ばない限り、この戸を勝手に開けることはないだろう。




