牡丹を焚く
吉野は、浅黄無地の着物に黒の絹帯を締め、髪はつつましやかな女房髷に結い直し、薄化粧をして客を迎え入れた。
「ほう、これは……」 「また、なんとも艶やかだな」
一同はその姿に見惚れていた。豪華な金屏風の前で、桃山刺繍の打ち掛けをまとい、玉虫色の唇で微笑む吉野太夫よりも、この煤けた百姓家の壁と炉のそばに、あっさりとした浅黄木綿を纏う彼女の方が、ずっと美しく見えたのだ。
「うむ、これはまた雰囲気ががらりと変わって、実に良いな」
普段はあまり人を褒めない紹由でさえ、今回ばかりはその毒舌を封じたようだった。吉野はわざと敷物を使わず、素朴な山家の雰囲気を生かしつつ、客人たちを炉のそばに招いた。
「ご覧の通り、何も贅沢なおもてなしはできませんが、寒い雪の夜に勝る馳走は焚火だと思いまして、薪だけはたっぷり用意いたしました。夜が明けるまで語り明かしても、火が尽きる心配はございませんので、どうぞごゆるりとお過ごしくださいませ」
なるほど、と光悦も納得し、紹由や光広、沢庵も膝をくつろげて、炉の火に手をかざした。
「さ、こちらのお方もどうぞ」
吉野は武蔵を招くように、そっと席を詰めて眼で促した。
四角い炉を六人で囲むため、どうしてもきゅうくつになる。武蔵はひどく律儀に畏まって座っていた。彼にとって、吉野太夫はただの女性ではない。天下にその名が轟く名妓として、尊敬の念を抱かせる存在であった。彼女の名声は、秀吉や大御所に次ぐほどのものだったのだから。
彼女を「太夫様」と称し、客人たちを「買手」と呼ぶ。この世界のルールに慣れていない武蔵にとっては、なにが面白いのかまったく理解できなかった。
だが、彼女に接する作法や心意気は厳然とあり、武蔵はその場の雰囲気に飲まれていた。特に、彼女の美しい瞳にちらりと射られると、顔が熱くなり、胸の鼓動が乱れた。
「なぜ、あなただけが遠慮なさるのですか。こちらへお越しください」
吉野に何度も促され、武蔵はようやくそばに座った。ぎこちなく両手を炉の火にかざした。
その瞬間、吉野は武蔵の袂をちらりと見た。そして、皆が話に夢中になり始めたころ、彼女はそっと懐紙を取り出し、武蔵の袂を優しく拭った。
「あ、恐れ入ります」
彼が感謝の言葉を口にすると、皆の目が吉野の手に移った。そこには、赤く染まった懐紙が握られていた。
「や! これは血ではないか?」
光広が驚いて口にした。だが、吉野は微笑みながら、
「いいえ、緋牡丹の花びらがついただけでしょう」
と、涼しげに答えた。
それぞれが杯を手に取り、静かに酒を愛でていた。炉に燃える榾火の揺らめきが、囲んでいる六人の顔をほんのりと照らし、外の雪を思い出しながらも、その焰を見つめ合い、皆、深い黙想に耽っていた。
炉の火が弱くなると、吉野は炭籠から細い薪を取り、焚火を足した。ふと、その薪がただの松薪や雑木とは違うことに、人々は気づき始めた。焚かれた木は驚くほどよく燃え、その炎の色が何とも言えず美しいのだ。
(これは一体……?)
誰かが心の中でつぶやいたが、誰もその美しさに魅了され、しばらく黙っていた。わずか数本の薪が、部屋全体を昼間のように明るくしていた。その炎はまるで風に吹かれる白牡丹のように柔らかで、時折、紫金色と鮮紅色の光が混ざり合い、激しく燃え上がっていた。
「太夫」
ついに一人が口を開いた。
「その薪は一体何の木だ? ただの榾とは思えないが……」
光広が問いかけた。光広も他の人々も、この薪から立ち込める優雅な香りに気づき始めていた。それは、間違いなく木が燃える際の香りだった。
「牡丹の木でございます」
吉野はさらりと答えた。
「え、牡丹?」
皆が驚いた様子だ。牡丹といえば、普通は花を思い浮かべるので、それが薪になるとは誰も想像できなかった。吉野は焚べかけていた一枝を光広に手渡しながら、
「ご覧くださいませ」
と言った。
光広はその枝を紹由や光悦にも見せて、
「なるほど、これは牡丹の枝か……道理で……」
と、呻いた。
吉野が説明するには、この扇屋の庭には古くから牡丹畑があり、百年以上経った古株がたくさんある。新しい花を咲かせるためには、冬になる前に虫に食われた古株を切り、新芽が育つように剪定する必要があるという。薪はその剪定で生じるが、もちろん大量には手に入らない。
「この薪は、炎が柔らかく、見た目も美しい上に、瞼にしみる煙も少なく、優雅な香りがするのです。さすが花の王者と言われる牡丹だけあって、枯れ木となってもその真価は変わりません。植物であれ人間であれ、生きている間だけでなく、死んだ後までもその真価を持ち続ける存在がどれほどあるでしょうか?」
吉野は話を終え、微笑みながら続けた。
「私も、ほんの若いうちだけ見られて枯れる、後は香りもないただの白骨になる花のようなものですけれど……」
彼女の微笑はどこか淋しげで、静かに胸に響くものがあった。
牡丹の薪が白々と燃え上がる中、炉辺に集う人々は、夜の更けゆくのをすっかり忘れていた。
「何もおもてなしはできませんが、ここにある灘の銘酒と牡丹の薪は、夜が明けても尽きることはございません」
吉野のこうした控えめなもてなしに、人々は十分に満足していた。
「何もないどころか、これは王者の宴にも勝る贅沢だ」
と、贅沢三昧の灰屋紹由ですら、静かに感嘆していた。
「その代わり、何か後の思い出となるものを、ここに一筆ずつお残しくださいませ」
そう言って、吉野は硯を用意し、禿が次の部屋に毛氈を敷き、そこに唐紙を広げていった。
「沢庵坊、太夫の頼みだ。何か書いておくれ」
光広が吉野に代わって促すと、沢庵は頷き、
「まずは光悦殿からどうぞ」
と言った。
光悦は無言で膝を進め、紙の上に牡丹の花を一輪描いた。沢庵はその上に歌を添えた。
色香なき身をば
なにかは惜しままし
をしむ花さへ
ちりてゆくよに
続いて、光広は詩を書いた。その詩は次のようなものだった。
忙裏 山我ワレヲ看ミル
閑中 我山ヲ看ル
相看アヒミレド相似ルニアラズ
忙ハ総スベテ閑ニ及バズ
吉野も促されて、沢庵の歌の下にこう書いた。
咲きつつも
何やら花のさびしきは
散りなん後を
おもふ心か
その後、紹由と武蔵は黙ってその様子を見ていた。誰も無理に筆を持たせようとしなかったのは、武蔵にとって幸いだった。
しばらくして、紹由は次の間に置かれていた琵琶に気づき、吉野に琵琶を弾いてほしいと所望した。そして彼女の演奏を最後に今宵の宴を締めくくろうと提案した。
「ぜひとも」
人々は声を揃え、吉野も快く琵琶を手に取った。その振る舞いは、自らの技を誇る風でもなく、謙遜ぶる様子もない、自然体のものであった。
吉野は炉を離れ、薄暗い部屋の中央に座り、静かに琵琶を弾き始めた。四絃の細やかな音が徐々に急調となり、破調へと変わっていくと、炉の消えかけた火も再び勢いを増し、人々の心を遠くから現実へ引き戻した。
演奏が終わると、吉野は微笑みながら「つたない技でございました」と言い、元の席へ戻った。
それを合図に、皆が席を立ち、帰り支度を始めた。武蔵もまた、ほっとした表情で誰よりも早く土間へ降りていた。
吉野は他の客たちには一人一人に別れの挨拶を交わしたが、武蔵には何も言わなかった。そして武蔵が他の人々と一緒に戻ろうとすると、吉野は彼の袂をそっと引き、
「武蔵様、今夜はここにお泊りなさいませ。何となく、今夜はお帰ししたくないのです」
と、静かに囁いた。
武蔵は、顔を赤らめ、まるで少女のように照れていた。聞こえなかったふりをしようとしたが、動揺していて、どう答えるべきか迷っている様子は周囲の人々にも明らかだった。
「ねえ、よろしいのでしょう? このお方をお泊めしても?」
吉野は、紹由に向かってそう尋ねた。紹由は笑って答える。
「もちろん、もちろん。思う存分、可愛がってあげておくれ。わしらが無理に連れ戻す理由はないさ。なあ、光悦殿?」
焦った武蔵は、吉野の手を振り払い、
「いや、私は帰ります。光悦殿とご一緒に」
と言って、無理やり外へ出ようとした。
だが、今度は光悦までもが、
「武蔵殿、まあそう言わずに、今夜はここにお泊まりになって、明日ゆっくりとお帰りになってはいかがです? 太夫もこうして心配しているのだから」
と、彼をここに残そうとする。
武蔵は、遊びの世界にも女性にも無知であり、初心者をからかって後で笑おうという、この大人たちの悪ふざけではないかと邪推した。しかし、吉野や光悦の真剣な顔を見ていると、そんな冗談ではないことがわかってきた。
もちろん、吉野と光悦以外の人たちは、武蔵が困っている様子を楽しんで、
「日本一の幸運者だな」
「わしが代わりになってもいいが」
などとからかっていた。しかし、その冗談も、裏門から駆け込んできた一人の男の言葉で止まった。
「さては――」
と、一同はようやく事態の深刻さに気づいたのだった。
その男は吉野の命令で、遊廓の外の様子を探ってきた扇屋の雇人である。いつ吉野がそんな準備をしていたのかと、皆驚いていたが、光悦だけは、昼間から武蔵と行動を共にしており、また吉野が炉端で武蔵の袂の血をそっと拭いていたのを見て、すべてを察していたようだ。
「他の方はともかく、武蔵様だけは、軽々しく遊廓の外に出ることはできません」
その男は息を切らしながら、吉野や他の人々に伝えた。口ぶりから少し大げさに聞こえるが、事態は明らかに緊迫していた。
「――もうこの遊廓の門は一つしか開いていません。その総門を挟んで、編笠茶屋のあたりや柳並木の陰に、武士たちが物陰に隠れて、目を光らせています。五人、十人といった数で黒々と集まっている。その全員が四条の吉岡道場の門人だそうで、近所の商人家も戸を閉じ、何が起こるのかと震えています。噂では、遊廓から馬場にかけて百人ほど集まっていると言われていますよ」
男が恐怖で歯を鳴らしながら話す様子から、状況が非常に厳しいものであることがうかがえた。
「ご苦労だった。もう休んでいい」
吉野は男を下がらせると、再び武蔵に向き直り、
「今の話を聞けば、あなたはますます卑怯者と呼ばれたくなくて、死んでも帰ると言うかもしれませんが、どうか無茶はしないでください。今夜卑怯者と呼ばれたとしても、明日そうでなければいいのです。遊びに来たのですから、遊ぶときは存分に遊び尽くすのが、本当の男の余裕というものでしょう。相手は、あなたが出て行くのを待ち構えて、闇討ちしようとしています。これを避けたからといって、あなたの名誉が傷つくことはありません。むしろ、無思慮にぶつかっていくほうが愚か者と呼ばれるだけでなく、この遊廓にも迷惑をかけますし、一緒にいる皆様にも危害が及ぶかもしれません。どうか、今夜はこの吉野にあなたのお体を預けてくださいませ。吉野がきちんとお守りしますので、皆様もどうかご無事にお引き取りくださいませ」
吉野の言葉には、静かな決意がこもっていた。




