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現代語訳 宮本武蔵  作者: AI Gen Lab
火の巻
52/165

微笑

 それは朱実あけみだった。

 彼女の髪には、元日の化粧の跡もなく、着物も乱れ、足元は素足であった。


「……あっ?」

 武蔵は、目を大きく見開き、意味もなくそう叫んだ。しかし、彼女が誰なのかはすぐには思い出せなかった。


 一方、朱実は違った。武蔵が自分を覚えていないはずがない。少なくとも、自分が彼を思い続けたように、彼も自分を少しは考えていてくれると信じていた。何年もの間、彼女はそう信じ続けていたのだ。


「私です……たけぞうさん……いえ、武蔵様」

 彼女は自分の袖を裂いた赤い布を手に持ちながら、恐る恐る近づき、優しく言った。


「……目をどうなさったのですか。手でこすっては、余計に悪くしますよ。これで拭いてくださいませ」


 武蔵は無言でその好意を受け取った。赤い布を片目にあてながら、改めて朱実の顔を見つめ直した。


「お忘れですの?」


「…………」


「私を」


「…………」


「私を!」


 彼女の切実な想いに応えることなく、武蔵はただ無表情でそこに立っていた。それを見て、朱実は心の奥底からの悲しみを感じた。長い間信じていたものが、実は自分一人の幻想だったのかもしれないと気づくと、胸の中で血の塊が込み上げ、涙があふれ出た。


「オオ……」


 その瞬間、武蔵の記憶が蘇った。彼女の姿には、かつて伊吹いぶきの麓で、無邪気に鈴を鳴らしていたあの頃の純粋さが残っていた。


「朱実さんじゃないか。……そうだ、朱実さんだ。どうしてこんなところへ来たんだ?……どうして?」


 武蔵はそう言いながら、彼女の肩を力強く抱きしめた。その問いかけが、彼女の心をさらに揺さぶる。


「もう伊吹の家にはいないのか? お母さんはどうしている?」


 武蔵が養母であるお甲のことを尋ねると、彼の思考は自然とお甲と又八の関係へ向かう。


「今も又八と一緒に住んでいるのか? 実は、今朝ここに又八が来るはずなんだが、お前が代わりに来たというわけじゃないよな?」


 武蔵の言葉は、どれも朱実の心に届かないものばかりだった。彼の腕の中で、彼女はただ泣きながら首を振るしかなかった。


「又八は来ないのか?……一体どういうことだ。説明してくれ。泣いているだけではわからないじゃないか」


「……来ません。……又八さんは、その言伝ことづてを聞いていないから、ここへは来ません」


 彼女はようやくそれだけを言うと、濡れた顔を武蔵の胸に押しつけ、震えながら泣き続けた。彼女が話したいことはたくさんあったが、思いが強すぎて、どれも口に出すことができなかった。特に、養母に突き落とされた住吉の浦での出来事など、言葉にすることさえできなかったのだ。


 橋の上には、柔らかな初日の光を浴びながら、清水寺への初詣に向かう華やかな女性たちや、礼儀正しい素袍すおう直垂ひたたれ姿の人々が、ちらほらと歩いていた。その中から、ふいに、年末も正月も関係ない河童頭の城太郎が現れた。


 橋の中ほどまで来た城太郎は、遠くに武蔵と朱実の姿を見て、驚いた顔をした。


「あれ?……お通さんかと思ったけど、違うみたいだな」


 城太郎は、不思議そうな表情で立ち止まった。



 誰も見ていないとはいえ、往来の端で、男と女が胸を寄せ合ってじっと抱き合っているなんて、城太郎は驚きを隠せなかった。しかも、自分が尊敬しているお師匠様がそんなことをしているなんて信じられなかった。


「しかも、女も女だな」と、彼は思った。彼の童心は、理由もなくドキドキと高鳴る。なんとなく嫉妬のような気持ちがわき起こり、少し悲しくもなる。焦燥感に駆られ、思わず石でも拾って投げつけてやろうかとも考えた。


「なんだ、あの女は! そうだ、あれは朱実あけみじゃないか。あの時、又八っていう人にお師匠様の言伝を頼んだ娘だ。あの娘は、お茶屋の娘だから生意気なんだ。いつの間にかお師匠様とあんなに仲良くなったのか。お師匠様もお師匠様だ。……お通さんに言いつけてやろう!」


 城太郎はそう思い、あたりを見回した。欄干らんかんから橋の下を覗いてみるが、お通の姿はどこにも見当たらない。


「どうしたんだろう?」

 今朝、烏丸家からすまるけの邸を出たのは、お通のほうが先だったのだ。


 お通は今朝、武蔵とここで会うことを確信していた。年の暮れのうちに烏丸家の奥からもらった初春の小袖を着て、前夜には髪を洗って結い直し、まるで今朝を楽しみにしているかのようだった。そして、まだ夜が明けきらないうちから、夜が白むのを待ちわびていた。


「こうしている間に、祇園ぎおん神社から清水堂へ初詣をして、それから五条大橋に行きましょう」と言い出したお通に、城太郎が「じゃあ、おいらも」とついていこうとしたが、お通は恋心に邪魔されたかのように言った。


「いいえ、私は武蔵様と少し二人きりで話したいことがあるの。だから城太さんは夜が明けてから、なるべくゆっくり五条大橋に来て。――だいじょうぶ、きっと城太さんが来るまでは、武蔵様とあそこで待っていますから」


 そう言って、お通は一人で先に出かけてしまったのだ。


 城太郎は、別にひがんだり怒ったりはしなかったが、決していい気分ではなかった。彼ももう、男と女の気持ちがどんなものか、理解できない年齢ではなくなっていた。彼自身も、かつて柳生やぎゅうの庄の旅籠屋はたごや小茶こちゃちゃんと、馬糧小屋まぐさごやの藁の中で理屈もわからずに悶えたことがあったのだ。


 その体験を思い出しつつ、大人のお通が泣いたり沈んだりしているのを見るたび、彼にはそれが不思議であり、少しくすぐったいように感じた。しかし、今武蔵の胸にすがって泣いているのが、そのお通ではなく、朱実という女性であったことに驚き、城太郎は突然、憤りに似た感情を抱いた。


「なんだ、あんな女……」

 そして、自然とお通の肩を持ち、

「お師匠様もお師匠様だ!」

 と、腹立たしい気持ちが沸き上がった。


「お通さんは何をしているんだろう。お通さんに言いつけてやるぞ」と、彼は焦りながら橋の上下をキョロキョロと見回し始めた。


 しかし、お通がどこにも見当たらず、城太郎が一人でやきもきしていると、武蔵と朱実は、周囲の目を避けるかのように、橋のたもとの欄干へ身を移し、武蔵も腕を組んで欄干に肘をかけ、朱実も隣に立って、河原の方に顔を向けていた。


 城太郎が反対側の欄干に沿って通り過ぎて行ったが、二人はそれに気づかなかった。


「まったく、いつまで観音様を拝んでいるんだろう……」

 城太郎はそう呟きながら、五条坂の方へと背伸びして待ちわびていた。


 すると、彼が佇んでいる場所から十歩ほどの距離に、幹の太い四、五本の枯柳かれやなぎが見えた。普段は川魚を啄ばみに来る白鷺しらさぎの群れがいる場所だが、今日は一羽もいない。その代わりに、前髪を結った若衆が、まるで臥龍がりゅうのように低く這っている老柳の幹に寄りかかり、じっと何かを見つめていた。



 朱実あけみと並んで、橋の欄干に肘をついていた武蔵は、朱実が懸命に囁く言葉に対して、かすかに頷いてはいた。しかし、彼女が心の底から、すべてを打ち明けて二人の真実の愛を求めているその必死の声が、果たして武蔵の心にまで届いているのか、朱実にはわからなかった。


 なぜなら、武蔵は頷きはしているものの、その瞳は別の方を向いていた。まるで何かに集中しているかのように、焦点をあらぬ方へ定め、無色無熱の火のような視線をじっと送っているだけだった。朱実にはその異様な目つきを怪しむ余裕すらなく、ただ彼女の感情に没入し、独りで問いかけ、答えを導き出すようにして、涙ながらに告白を続けていた。


「……ああ、私はもう、あなたにすべてを話しました。隠すことなんて何もないんです」


 彼女は少しずつ、胸を欄干に寄せ、武蔵に近づいていく。


「――関ヶ原の戦いから、もう五年が経ちました。その間に、私の人生も、体も、すっかり変わってしまいました」


 彼女はすすり泣きながら続けた。


「でも……いいえ、私の心は変わっていません。あなたを思うこの気持ちは、昔と少しも変わっていません。どうか、わかってください……武蔵様、私のこの気持ちを」


「ムム」


「恥を忍んで言いますが、私はもう、あの伊吹山いぶきやまのふもとであなたに会った頃のような、清らかな乙女ではありません。私は汚れてしまいました。もう純粋な娘じゃないんです」


 彼女は涙にくれながらも、心の中の葛藤を言葉に変えた。


「でも、貞操みさおって、体のことだけでしょうか? 心の貞操こそが本当の貞操ではないですか。私の体は、もう誰かに奪われましたが、心だけは、まだあなたのものであり続けているんです。どうか、それをわかってください」


「ウム、ウム」


「……そう思ってくれるなら、少しは楽になります。でも、私はもう、あなたに『愛して』なんて言えません。そんな資格もないのです」


 彼女は顔を欄干に伏せ、泣き崩れた。


「でも、武蔵様、私が言いたいのは、私の心――この初恋の気持ちは、変わらないということです。どんな生活をしても、どんな男と関わっても、心だけはあなたのものです」


 朱実の声は震え、涙が欄干を濡らした。元日の明るい陽の光が川面を照らし、せせらぎは新たな希望のように輝いていた。


「む……うむ……」


 武蔵は、朱実の訴えに何度も頷いていた。だが、その瞳は、相変わらず別の方向に向けられたままだった。


 武蔵の視線の先を辿ってみると、橋の欄干から川岸に向かう角度の先に、枯柳かれやなぎの幹に寄りかかって、じっとこちらを見つめる人物がいた。


 それは、岸柳がんりゅう佐々木小次郎の姿だった。



 武蔵むさしは、かつて父の無二斎むにさいからこう言われたことがあった。「お前はわしに似ていない。わしの目は黒いが、お前の目は茶色がかっている。従祖父おおおじ平田将監ひらたしょうげんの目も焦げ茶色で鋭かったと伝わっている。お前はきっと、祖父に似て生まれたのだろう」と。


 今、朝の陽が斜めに差し込む中で、武蔵の目は琥珀のように澄んで鋭く輝いていた。


(ふむ、この男か)


 佐々木小次郎ささきこじろうは、かねてから聞いていた宮本武蔵という男を、今、自分の目で確かめていた。そして武蔵もまた、対岸にいる小次郎の存在に気づき、注意を怠らなかった。


 二人の間には、見えない緊張が張り詰めていた。橋の欄干と川沿いの枯柳の間で、無言のうちに、お互いの力量を測り合っているようだった。それはまるで、剣士同士が剣を向け合い、その刃の先で相手の力量を見極めているかのような静かな闘気だった。


 だが、二人には別の疑念もあった。


 小次郎は、(あの女――朱実あけみ――と武蔵はどういう関係なんだ? あんなに親しそうに話して……)と考えた。そして、不快感が胸の内に広がった。


(女たらしかもしれない。朱実も、俺に黙って何をしているんだ。こんな男に泣いたりして……)と、小次郎の目には明らかに反感がにじみ出ていた。


 武蔵もそれを感じ取っていた。小次郎の眼差しには敵意が隠されており、武蔵もまた、(何者だ? あの男……)と警戒心を強め、相手を探り始めていた。


 二人の視線は、まるで火花を散らしているかのように交錯した。どちらも若さゆえの自負心を持ち、互いに自分が上だと感じていた。そしてその瞬間、小次郎が先に視線を反らした。


(ふん……)


 小次郎の横顔には、わずかな蔑みの表情が浮かんでいたが、それを見た武蔵は、心の中で自分が勝ったと感じ、軽い愉快さを覚えた。


「朱実さん」


 武蔵は、まだ泣いている朱実の背に手を添えて尋ねた。


「お前の知り合いだろう、あの若い武者修行者は。……誰だ、いったい?」


 朱実は、小次郎の姿に気づき、泣き腫らした顔に明らかな狼狽の色を浮かべた。


「あ……あの人が……」


「誰だ?」


「あの……あの……」


 朱実は口ごもって答えることができなかった。



「見事な大太刀おおだちを背負って、あの派手な装い…いかにも兵法自慢といった風だが…一体、朱実さんとあの男とはどういう関係なんだ?」

「別に…特に深い知り合いというわけではないんですけれど…」

「じゃあ、知っていることは知っている人だな?」

「ええ」

 朱実あけみは、武蔵むさしに誤解されることを恐れるように、はっきりと言った。


「以前、小松谷こまつだに阿弥陀堂あみだどう猟犬かりいぬに腕を噛まれてしまって、血が止まらなくて…その時、あの方の泊まっている宿に行って医者を呼んでいただいたんです。それから、三、四日ほどお世話になっていました」

「じゃあ、一つ屋根の下に住んでいたのか?」

「住んでいたと言っても…何も特別なことはないんです」

 朱実は、強く否定するように言葉を続けた。


 武蔵は別に、何かを問い詰めるような意味で聞いていたわけではなかったが、朱実は勝手に誤解していたのだった。


「なるほど、詳しいことは知らないだろうが、あの男の名前くらいは聞いているだろう?」

「ええ…岸柳がんりゅうとも呼ばれ、本名は佐々木小次郎ささきこじろうと言います」

「岸柳か…」

 武蔵にとって、この名前は初耳ではなかった。諸国の兵法者の間ではそれなりに知られている名であり、武蔵もその存在を聞いたことがあった。しかし、実際に小次郎を見たのは今回が初めてで、想像していたよりもずっと若いことに驚きを覚えた。


(…あれが噂の佐々木小次郎か)


 改めて小次郎に視線を向けると、小次郎も朱実と武蔵が囁き合っている様子を白い目で見ており、口元に皮肉めいた笑みを浮かべていた。


 ――武蔵もまた、静かに微笑みを返した。


 だが、この二人の微笑みには、何の平和も和やかさもなかった。むしろ、小次郎の笑みに込められたのは皮肉と挑発、そして武蔵の微笑みにはそれに対抗する鋭い闘志があった。


 そんな二人の間に挟まれ、朱実はなおも自分の想いを伝えようとしていたが、それを言い終える前に、武蔵が先に言った。


「朱実さん、あの人と一緒に宿へ戻ったほうがいい。そのうちまた会おう。…な、きっとまた」

「本当に来てくださいます?」

「ああ、行くよ」

「宿を覚えておいてくださいね。六条御坊前ろくじょうごぼうまえ数珠屋ずずやの座敷にいますから」

「うん、わかった」

 武蔵が簡単にうなずいたことに、朱実は少し物足りなさを感じたのか、彼の手をぎゅっと握りしめ、情熱的な瞳で見つめた。


「…きっと! え? きっとですよ!」


 すると、遠くで腹を抱えて笑い声を上げる者がいた。それは、佐々木小次郎だった。小次郎は、こちらに背を向けたまま、哄笑こうしょうを響かせながら去っていった。


「アハハハハ、ワッハハハハ! アハハハハ!」


 その無神経な大笑いに、城太郎じょうたろうはむっとしながら、小次郎を睨みつけた。


 ――それでも城太郎は、お師匠様である武蔵が許せなかった。そして、いまだに現れないおおつうのことが気になってしゃくに障った。


「どこにいるんだよ…」


 苛立ちながら町のほうへ少し歩き出したその時、四つ辻の牛車ぎっしゃの車輪の間に、ちらりとお通の白い顔が見えた。

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