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現代語訳 宮本武蔵  作者: AI Gen Lab
火の巻
43/165

神泉

 保元物語ほうげんものがたりに登場する伊勢武者・平忠清たいらのただきよは、この古市ふるいちの出身とされているが、今やその面影を残すのは、並木の茶を汲む女たちくらいのものだった。


 竹の柱にむしろを編んだ簡素な店構え。古びたとばりを巻き、色あせた雰囲気の中で、白粉おしろいを塗った女たちが、松並木に座っている。彼女たちは昼夜を問わず、旅人を引き止める。


「寄って行かんかい?」 「お茶でもどうぞ?」 「そこの若衆さん!」 「お旅の方、こっち来なさいよ!」


 女たちの軽妙な声に、往来の旅人たちはその度に目を引かれる。伊勢神宮の内宮ないくうへ行くには、この女たちの群れを避けることはできず、旅人は常にその眼差しにさらされるのだ。


 武蔵むさしもまた、痛む足を引きずりながら、険しい表情でその道を通っていた。彼はまるでこの場に慣れていないかのように、顔を赤らめつつ、狼狽ろうばいしている。


「あら、武者修行の方?」 「足、どうしたの?」 「さすってあげよか?」 「恐い顔してると、いい男が台無しよ!」


 彼女たちは、武蔵のたもとを引っ張り、笠を奪い、腕をつかんでいた。武蔵は、どうしても抵抗できず、ひたすら謝るだけだ。その生真面目さを面白がり、女たちはさらに笑いながら白い手で武蔵を掻き乱した。


(なんだ、この無防備さは…!)


 武蔵は思わず顔を赤らめながら、奪われた笠を捨て、やっとの思いでその場から逃げ出した。並木の空には、女たちの笑い声が尾を引いて響く。


 逃げながらも、武蔵の中には不思議な感情が芽生えていた。彼は女性に対して完全に無感覚でいられるわけではない。彼の旅の間には、どこでもこうした状況に遭遇することがあり、その度に困惑していた。


 ある夜など、彼は眠れなくなったことさえあった。白粉の匂いを思い出すたびに、胸が熱くなり、抑えきれない衝動に襲われるのだ。おおつうの面影すら、その時には欲望の対象として思い出してしまうこともあった。


 だが、幸いにも、今の武蔵は片足が痛んでいた。少し無理をして走ったせいで、脚はまるで溶けた鉄の中に突っ込んだかのように熱を持ち、歩くたびに激痛が全身を襲う。そうした痛みのおかげで、武蔵は心を取り戻し、冷静さを保つことができた。


(くそ…!)


 武蔵は一歩ごとに痛みを感じながら、汗が額ににじむ。全身の骨がバラバラになりそうだ。それでも、彼は何とか進んだ。五十鈴川いすずがわを越え、内宮ないくうの領域に入ると、どこか心が洗われたような感覚が広がった。


 草木のひとつひとつに神々の気配を感じ、鳥の羽音までがこの世のものではないように思えた。


「ウムム…」


 武蔵は苦痛に耐えきれず、風宮かぜのみやの前でついに力尽きた。大杉の根元に倒れ込むと、彼はじっと自分の痛む脚を抱えていた。



 武蔵むさしはまるで石のように倒れ込み、動かなかった。足のうみんだ患部は内側から脈打ち、火のように熱を帯びていた。一方、外からは十二月の冷たい空気が、鋭く肌を刺していた。


「……」


 やがて、武蔵は知覚を失っていた。いったい、何を考えて突然旅籠はたごの寝床を飛び出してきたのだろう? こんな痛みを伴う結果は、分かりきっていたことではないか。布団の中で治癒を待つべきだったと考えるなら、まるで病人の癇癪かんしゃくであり、無茶も甚だしい行動だった。


 だが、武蔵の精神は異常に張り詰めていた。やがて彼は、はっと首をもたげ、鋭い目で虚空を睨んだ。巨木の杉が風に揺れ、ごうごうと鳴り響いていた。だが、彼の耳を刺激したのは、その風の音の合間に聞こえてきた、しょう篳篥ひちりき、笛の音色だった。


 さらに耳を澄ますと、その旋律の中に、童女わらべたちの歌声が混じっているのが聞こえる。


「シダラ ウテト

 テテガノタマエバ

 ウチハンベリ

 ナラビハンベリ…」


(くそっ!)


 武蔵は苦痛をこらえ、無理に立ち上がった。体はまるでにかわのように重く、思うように動かない。彼は風宮かぜのみや土塀どべいに両手をついて、まるで蟹のように横歩きしながら進んでいった。


 その先、灯りが漏れるしとみから、天界の音楽が流れ続けていた。そこは、大神宮に仕える清女きよめたちが住む「子等之館こらのたち」だった。おそらく、清女たちが古楽器を並べ、神楽かぐらの稽古をしているのだろう。


 武蔵はそっと館の裏手に近づいたが、中を覗いても誰もいない。それを見て、武蔵は帯に差していた大小の刀と武者修行の風呂敷包みを外し、塀の内側にある蓑掛けの釘に預けるようにかけておいた。


 丸腰になった武蔵は、両手を腰に当て、跛行びっこを引きながらどこかへ向かって立ち去った。


 しばらく経ってから、五十鈴川いすずがわの岩場に、一人の裸の男がいた。その男は氷を割って、水をざぶざぶと浴びている。


 幸いにも神官たちに気づかれなかったが、もし見つかっていたら、


「気違いか!」


 と叱り飛ばされることは間違いない。裸のまま水を浴びているその男の姿は、はた目から見れば、まるで気が狂ったように見えた。


 太平記たいへいきによると、かつてこの伊勢地方には、仁木義長にっき よしながという大馬鹿者がいた。彼はこの地を占領し、五十鈴川の魚を捕まえて食べ、神路山かみじやまに鷹を放ち、小鳥の肉をあぶって食べるなど、無法な振る舞いを繰り返した結果、ついには気が狂ってしまったという。


 今夜の裸の男も、同じように悪霊がり移ったのではないかと錯覚させるほどだった。


 やがてその男は、水禽みずどりのように岩場に上がり、体を拭いて着物を着込んだ。――それは、武蔵だった。


 彼のびんの毛は、冷え切って凍りつき、一筋一筋が針のように立ち上がっていた。



「こんな痛みに負けて、どうして生涯の敵に勝てるのか!」

 武蔵むさしは自分を叱咤しったしながら思った。生涯なんて大げさなものじゃない。すぐそこに迫っている、吉岡清十郎よしおか せいじゅうろうとその一門との戦いがあるのだ。


 吉岡家と自分との関係は、もはや避けられない宿命のように険悪で、また複雑だ。今回ばかりは、彼らも一門の名誉と実力をかけて、全力で武蔵に挑んでくるに違いない。必殺の陣形を張り、戦のその日を「今や遅し」と手ぐすねを引いて待ち構えているはずだ。


 侍たちがよく口にする「必死」だとか「覚悟」という言葉は、武蔵にとっては取るに足らないたわごとに思える。侍なら、命がけの戦いに立ち至った時に必死になるのは、当たり前の本能だ。覚悟といっても、それが「死ぬ覚悟」なら難しいことではない。誰でも死ぬと決まれば、その覚悟は自然に生まれる。


 しかし武蔵の悩みは、ただの「覚悟」ではなく、**「勝つこと」**だった。絶対に勝つという信念をつかむことが彼にとって最重要であり、いかにしてその境地に至るかが課題だった。


「道は遠くない――」


 ここから京都まで、四十里(約160km)もない。少し無理をして足を速めれば、三日もかからず到着できる。しかし、心の準備は数日ではできない。


 名古屋から吉岡家に送った決戦状はすでに届いているが、武蔵はその後も自問していた。「自分は勝つ準備ができているのか? 本当に勝てるのか?」


 しかし、残念ながら心の隅には、ほんのわずかではあるが、不安の影が潜んでいることを感じざるを得なかった。


 それは、自分自身がまだ未熟であるという認識だった。彼は、自分がまだ達人でも名人でもないことをよく理解していた。奥蔵院おくぞういん日観にっかんと会い、柳生石舟斎やぎゅう せきしゅうさいを思い、沢庵たくあんのことを考えると、自分がまだ完成していない存在だと痛感せざるを得なかった。


「未熟だ」


 武蔵はそう自分に言い聞かせ、己の未熟さを認めながらも、その自分を押し進めていくしかなかった。必殺の意志を持つ吉岡一門に立ち向かい、しかもその中で勝つ必要がある。兵法者へいほうしゃとしての本質は、戦うことではなく、勝ち抜くことにある。どんなに戦いが上手でも、最後まで勝ち続け、天寿を全うするまで勝ち抜いてこそ、兵法者として一人前と言えるのだ。


 武蔵は、体を震わせて宣言した。


「おれは勝つ!」


 声に出して叫ぶと、神林しんりんの中へ向かって歩き出した。五十鈴川いすずがわの上流へ向かい、岩の間をうように進んでいった。まるで原始人のように、おのが入ったことのない原初の渓谷林けいこくりんを進み、そこには滝もあったが、その滝水はすべて氷柱つららになって凍っていた。



 一体、武蔵むさしはどこへ向かい、何を目的にして、こんな無謀な努力を続けているのだろうか。裸で神泉に浸かって罰でも当たったのか、気でも狂ったのではないか。


「何を…何をやってるんだ」


 彼の顔はまるで鬼のように険しく、血の気が満ちていた。巨岩をよじ登り、ふじつるにしがみつき、少しずつ岩を征服していく。その一歩一歩は、生半可な覚悟でできることではない。大きな目的がなければ、到底正気の沙汰とは思えない。


 五十鈴川いすずがわ一之瀬いちのせから15、6町(約1.5~1.6キロメートル)の渓谷は、あゆすらも登れないほどの険しい岩石と急流が連なる場所だ。その先は猿や天狗てんぐくらいしか進めないような断崖絶壁が広がっている。


「そうか…あれが鷲嶺わしみねか」


 武蔵の精神状態では、不可能という言葉が存在しないようだ。武器や荷物を子等之館こらのたちに置いてきたのは、まさにこのための準備だったのだろう。彼は断崖に絡む藤の蔓に手を伸ばし、一尺一尺と宙に向かってよじ登っていく。その姿は、まるで人間の力を超えた何かが、武蔵という物体を地上から引き上げているように見える。


「よしっ!」


 断崖を征服し、武蔵は大声で叫んだ。彼の視線の先、五十鈴川の白い流れの末から二見ヶふたみがうらなぎさまでが、遥か下に広がっていた。


 武蔵の視線の先には、夜の霧に煙る疎林の中、険峻けんしゅんな鷲ヶわしがたけすそが広がっていた。あの、旅籠はたごから毎日眺めていた、苛立たしさを感じさせる鷲嶺わしみねの姿が、今、武蔵の目前に迫っているのだ。


石舟斎せきしゅうさいだ、この山は…」


 武蔵はそう心の中で呟いた。あの腫れ上がった足を無理に立て、旅籠を飛び出し、神泉を浴び、この山をよじ登ってきた。武蔵の目的は、まさに今、その鮮烈な目の中に明らかになった。彼の底知れぬ負けん気の裏には、常に柳生石舟斎という巨人の存在が重くのしかかっていた。


 この山が、石舟斎のように見えることが、武蔵にとっては耐えがたかった。山が、毎日彼をあざけるように見下しているように感じたのだ。


「気に入らない山だ」


 武蔵は数日間、そんな鬱屈を抱えていた。そしてその鬱憤うっぷんを一気に爆発させるかのように、この山の頂きを目指し、足を踏みつけることで、自分の負けん気をぶつけようとしていた。石舟斎を思い浮かべながら、土足でこの山を踏みにじり、彼の影響から解放されることで、自信を得ようとしていたのだ。


 武蔵にとって、この山の草木や氷すらも敵であり、踏みしめる一歩一歩が勝敗への呼吸そのものだった。氷のように冷たく固まっていた彼の体からは、今や毛穴から湯気が立ち上り、熱気が噴き出していた。


 行者すら登らないと言われる鷲ヶ岳の赤い岩肌に、武蔵はしがみつきながら足場を探していた。彼が足を掛けるたびに、岩が崩れ落ち、ふもとの疎林そりん轟音ごうおんが響き渡る。


 百尺――二百尺――三百尺。武蔵の影は空高く小さくなっていった。白雲がやってきては彼を包み、また去っていく。武蔵の影は、空そのものに溶け込んでいくようだった。


 鷲嶺は、まるで巨人のように、冷然と武蔵の挑戦を見つめていた。



 まるで蟹が岩に抱きついたかのように、武蔵むさしは山の九合目にしがみついていた。もし少しでも手や足が緩んでしまえば、彼の体は崩れゆく岩とともに奈落の底へ落ちてしまうだろう。


「ふーッ……」


 全身の毛穴が呼吸をしているかのようだった。ここまで来ると、心臓が口から飛び出してしまいそうなほど苦しかった。少し登っては休み、そして思わず登ってきた道を振り返る。


 神苑しんえんの太古の森も、五十鈴川いすずがわの白い水の流れも、神路山かみじやま朝熊山あさまやま前山まえやまの諸峰も、さらには鳥羽とばの漁村や伊勢いせ大海原おおうなばらまでもが、自分の下に広がっていた。


「九合目だ!」


 内ぶところからむっと湧き上がる汗が、顔を包み込む。武蔵はふと、母の胸に顔をうずめたような陶酔感に襲われた。この荒々しい山の肌と自分の肌が一体となり、すべてを忘れてそのまま眠りに落ちてしまいたくなった。


 だが、突然、彼の足場にしていた岩がざざざっと崩れた。生命が危機に直面し、無意識に次の足場を探し出す。あと一息というその苦しさは、言葉では表せないほどだった。まるで斬るか斬られるか、力が拮抗きっこうしている剣と剣の対峙に似ている。


「ここだ。もうすぐだ」


 武蔵は山を掴むように手足を動かした。ここで力尽きるようでは、兵法者としてどこかで他の剣士に敗北を喫するに違いない。彼は決して倒れてはならないのだ。


「畜生!」


 汗が岩を濡らし、幾度も滑りかける。まるで武蔵の体が、一朶いちだの雲のように汗に包まれていた。


「石舟斎め…」


 まるで呪文のように呟き続ける。


日観にっかんめ、沢庵坊たくあんぼうめ!」


 一歩一歩、武蔵は自分より高いと思っている人々の頭を踏み越えて進んでいく。山と自分は、もはや二つの存在ではなくなっていた。こうして彼にしがみつかれたことに、山霊さんれいさえも驚いているかもしれない。


 突然、大砂利や砂が飛び散り、山が轟音を発したかのように唸った。武蔵はまるで手で口を塞がれたように息を止め、体が風圧で引き寄せられる感覚に襲われた。しばらく目を閉じ、じっとうつぶしていた。


 しかし、彼の心には凱歌がいかが満ちていた。俯したその瞬間、十方無限の天空が目に映ったのだ。うっすらと夜が白みかけ、雲の海には黎明れいめいの色が映し出されていた。


「勝った!」


 頂上を踏んだ瞬間、武蔵は意志のつるがぷつんと切れたかのように倒れ込んだ。山頂の風が絶え間なく彼の背に小石を浴びせていた。


 ――そして、無我の境地に浸る中、武蔵は全身が軽くなるのを感じた。汗でびしょ濡れになった体は、山頂の大地にしっかりと貼りつき、まるで山の生命力と自分の生命力が一体となっているような、奇妙な恍惚感に包まれていた。


「おお…おれの上には何もない…おれは鷲嶺わしみねを踏んでいる!」


 鮮やかな朝陽あさひが彼と山頂を照らしていた。彼の太い両腕はまっすぐ空へ突き上げられており、その両足で確かに山頂を踏みしめていた。


 ふと気づくと、足の甲から青い膿汁うみじる一升いっしょうもあふれ出している。それは清澄せいちょうな天界に異質な人間の臭いと、心の鬱屈うっくつが解放された香りを放っていた。

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