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現代語訳 宮本武蔵  作者: AI Gen Lab
火の巻
42/165

山川無限

 永禄えいろくの頃、東国では塚原卜伝ぼくでん上泉伊勢守かみいずみいせのかみが名人として知られていたが、上方では京都の吉岡家と大和やまと柳生家やぎゅうけがこれに対抗する勢力として名を馳せていた。


 だが、忘れてはならないもう一家がある。伊勢桑名いせくわな太守たしゅ北畠具教きたばたけとものりである。具教は剣術の達人として名高く、また良い国司こくしでもあったと言われている。「ふとの御所」と称された彼の存在は、亡くなった後も伊勢の民に愛され、その治世時代の桑名の繁栄や善政は語り継がれていた。


 具教は、剣の道で名高い塚原卜伝から「一の太刀いちのたち」という秘伝の技を伝授され、卜伝流の正統を継承したが、彼の名声は東国には広がらず、伊勢に留まった。卜伝の息子である塚原彦四郎ひこしろうは、父から家督を受け継いだものの、一の太刀の極意を伝授されることはなかった。そのため、父の死後、彦四郎は伊勢に向かい、具教にこう申し出た。


「私も父から一の太刀を授かっていますが、父があなたにも同じ技を伝授したと聞いています。もしよければ、お互いの技を比べて、秘伝の道を究明し合いたいと思うのですが、いかがでしょうか」


 具教は、彦四郎が技を盗みに来たとすぐに察しながらも、快く了承した。


「よろしい。お目にかけましょう」


 こうして、一の太刀の秘術を披露した。彦四郎はその技を写し取ったが、結局は型の真似事に過ぎず、卜伝流の本質には至らなかった。卜伝流の真髄は伊勢に留まり、伊勢地方では今でも剣術の達人が多く輩出されているという土地の自慢話となっている。


 そんな話を聞きながら、桑名の城下町から垂坂山たるさかやまへ向かっている旅人がいた。その旅人は馬に揺られながら、馬子の話に頷いていた。彼は、真冬にしては薄着で、黒く日焼けした顔に古びた笠をかぶり、乱れた髪はまるで鳥の巣のようだった。彼の名は、宮本武蔵むさしだった。


 武蔵は、この春の終わりから冬の暮れにかけて、どこを歩いてきたのか、風雨に晒され皮膚は渋紙のように変わり果てていたが、その目だけは鋭く白く輝いていた。



 馬子が再び訊ねた。


「旦那、安濃郷あのごう雲林院村うじいむらっていいますと、鈴鹿山すずかやまの尾根を二里も越えた先ですが、そんな辺鄙へんぴな場所に何の用があるんですか?」


「人を訪ねに行くのだ」


「そんな場所、木樵きこりか百姓しかいないはずですが」


鎖鎌くさりがまの名手がいると桑名で聞いたが」


「ははあ、宍戸ししど様のことですかね?」


「うむ、宍戸…なんとか言ったな」


宍戸梅軒ししどばいけんでしょうか?」


「そうだ、それだ」


鎌鍛冶かまかじで、鎖鎌の使い手だとか。旦那、もしかして武者修行ですか?」


「そうだ」


「それなら、わざわざ梅軒を訪ねるよりも、松坂まつざかに行ったほうが、伊勢で有名な名手がいますよ」


「誰だ?」


神子上典膳みこがみてんぜんという人です」


「ははあ、神子上か…」


 武蔵は頷いた。その名はすでに知っているようで、詳しいことは問わなかった。黙って馬の背に揺られながら、やがて四日市の町が見えてきた。町に入ると、彼は屋台の端を借りて弁当を広げた。


 ――ふとその時、武蔵は自分の足元を見た。足の甲が布で縛られており、少し跛行びっこを引いているように見える。


 実は足の裏にできた傷が膿んでいたのだ。それで今日は馬に乗っているというわけだ。武蔵は普段から自分の体に細心の注意を払っていた。しかし、鳴海港なるみこうの混雑の中で、うっかり釘の立っている箱を踏んでしまったのだった。昨日から傷が熱を持ち、足の甲は腫れ上がっていた。


(これは、不可抗力の敵だろうか?)


 武蔵は釘に対しても、まるで勝負を挑むかのように考えていた。――釘一つ踏んでしまったことすら、兵法者としては恥辱だと感じていた。


(釘は確かに上向きに落ちていた。それを踏んでしまったのは、自分の注意が散漫だった証拠だ。もし、五体が完全に調和していれば、釘が草鞋わらじに触れた瞬間に体がそれを察知していたはずだ…)


 そう自問自答しながら、武蔵は自己の未熟さを痛感した。剣術と体の動きがまだ一致していない、という焦燥感が武蔵の心を苛んでいた。


 だが、この年の晩春に柳生やぎゅうの地を去ってから今日まで、武蔵は半年間を決して無駄に過ごしていたわけではなかった。彼は伊賀いがを抜け、近江おうみ美濃みの尾州びしゅうと歩き、剣の真理を追い求めて旅を続けていたのだ。


(何が極意か?)


 武蔵はようやく、その問いにたどり着いた。しかし、真の剣の道というものは、町や山には埋もれていなかった。半年間、各地で多くの剣豪と出会い、中には達人もいたが、それらはすべて「技」に過ぎず、真の剣術ではなかった。



「会うのが難しいのは、人だ」


 世の中には人間が溢れているが、"本当に会いたい"と思うような人には、滅多に出会えない。武蔵は旅を続けながら、それを痛感していた。そしてそんな嘆きが胸に湧くたび、彼の頭に浮かぶのは沢庵たくあんの姿だった――あの、まさに「人」と呼べる人物を。


(あの沢庵に出会えたのは、俺にとっては大きな幸運だった…その縁を無駄にはできない)


 そう考えると、武蔵は今でも両腕や体全体が痛むような感覚を覚えた。それは、かつて千年杉に縛り上げられた時に受けた刺激が、未だに彼の神経に刻まれている証拠だった。


(今に見てろ…いつか俺が沢庵を千年杉に縛り上げ、地上から道理を説いてやる日が来るんだ)


 それは恨みや報復ではなかった。武蔵は、剣の道でどこまで行けるかを、沢庵に証明したいと思っていた。沢庵が禅によって人生の頂点に立とうとするのなら、武蔵は剣の道を極め、その上を目指してみせる――そんな挑戦の気持ちだった。


(もし、俺があの時のように彼を木に縛り付け、地上から「道」を説ける日が来たら、沢庵は何と言うだろう?)


 武蔵は、それを聞きたいと強く思った。おそらく、沢庵はこう言うだろう。


善哉よいかな、満足、満足」


 ――いや、あの沢庵のことだから、そんな素直な反応はしないだろう。きっとからからと笑いながら、こう言うに違いない。


豎子じゅし!やるじゃないか」


 何でもいい、どんな形であれ、武蔵は沢庵に対して一度、自分の優位を示したいと思っていた。それが恩義への報いだと感じていたのだ。


 だが、それは武蔵の単なる空想に過ぎなかった。今、自分が道を歩み始めたばかりであることを深く自覚していた武蔵は、人が道を極めることの難しさを痛感していた。そう思えばこそ、いつも空想は途中で消え去ってしまう。


(沢庵のようにはなれない…)


 さらに、柳生やぎゅうの剣宗・石舟斎せきしゅうさいという偉大な人物を思い出すと、自分がまだまだ青二才だということが痛いほど分かってきた。剣術だの、道だのと口にするのが恥ずかしくなるほどだ。くだらない人間ばかりだと思っていた世間が、急に広大で恐ろしいものに感じられ、急に、


(今から小理屈をこねるのは早い、剣は理屈じゃない。人生もそうだ。やることだ、実践だ)


 武蔵は勢いよく山々に入っていった。山の中でどのような生活を送っていたかは、山を降りて里に出てきた彼の姿を見ればだいたい察しがつく。そんな時、彼の顔は痩せて頬が削げ、五体には擦り傷や打ち傷が絶えなかった。滝に打たれる日々のせいか、髪は乾いて縮れ、地面に寝転がっているせいで歯だけが妙に白かった。そして、傲岸な信念を胸に抱き、人里へ降りてきては、自分と戦うに値する相手を探していたのだった。


 ――今、彼が向かっているのも、桑名で聞いた「会い難い人間」を探す旅の途中だった。鎖鎌くさりがまの達人・宍戸梅軒ししどばいけん。彼が本当にその"会い難い"人物なのか、それともただの凡庸な者なのか。それを見極めようと、武蔵は初春までの余日を使って、京都へ向かう旅の途中、彼に挑戦してみることにしたのだ。



 武蔵が目的の地へ辿り着いたのは、もう夜も深い時刻だった。

 馬子まごへの礼を述べ、駄賃を渡して別れようとすると、馬子は困った顔をして言った。


「今さら、こんな山奥から帰るのは無理だ。朝まで、旦那がこれから訪ねる家の軒下を借りて休み、朝になってから鈴鹿峠を下る客を拾って帰ったほうがいい。何より、もう一里も歩くのは寒くて辛すぎる。」


 そう言われて周りを見回せば、どちらを見ても山ばかり。伊賀いが鈴鹿すずか安濃あのうの山々に囲まれ、その頂きには真っ白な雪が積もっている。


「では、一緒に宍戸梅軒ししどばいけんの家を探してくれるか?」 「もちろんです、旦那」


 宍戸梅軒はこのあたりの百姓鍛冶かじで有名だった。昼間ならすぐに分かるはずだが、今は村の中で灯り一つ見えない。どこかで、先ほどからきぬたの音が凍てついた夜空に響いている。それを頼りに、二人は暗闇の中を歩き、ようやく一つの明かりを見つけた。


 その明かりが射している家こそが、梅軒の家だった。軒先に古びた鉄くずが山積みされており、いかにも鍛冶屋の家らしい雰囲気だった。


「訪ねてくれ」と武蔵が言うと、馬子は戸を開けて中へ入った。広い土間には火が焚かれており、一人の女が、砧を打ちながら夜の作業に励んでいる。


「こん晩は、ごめんなすって。火だ、これはたまらない」と馬子はすぐに火のそばへ飛び込んだ。


 女房は手を止め、怪訝そうな顔で「どこの人だえ?お前は」と尋ねた。


「いや、旦那、ここの旦那様を遠方から尋ねてきた客人を乗せて、今ようやくここへ着いたんです。私は桑名の馬子で」と馬子が説明すると、女房は無愛想に武蔵の方を見上げた。何度も武者修行者が訪れてくることに慣れているのか、彼女は少し苛立った様子だった。


「うしろをお閉め、寒い風が入ると子どもが風邪をひく」と、まるで子供に言いつけるように、そっけなく言った。


 武蔵は頭を下げ、「はい」と素直に戸を閉め、ふいごのそばの切株に腰を下ろした。目に飛び込んできたのは、壁に掛けられている鎖鎌くさりがま。その異様な武器が、噂で聞いた通りのものであると武蔵は直感した。


(あれが鎖鎌か…)


 それを目にすると、武蔵の目は光った。修行の一環として、未知の武器に触れることは貴重な経験だ。


 一方、女房は砧を置いて、子どものいる蒲団に横たわり、乳を与えながら、こう言った。


「そこにいる若い侍さん、またうちの旦那とぶつかって血を吐きに来たのかい?でも、生憎うちの旦那は今、旅に出てるよ。命拾いしたね」


 女房はにやりと笑いながら、武蔵にそう告げた。



 武蔵の胸には、ムッとする気持ちが湧いていた。こんな山奥まで来て、鍛冶屋の女房に笑われに来たようなものだ。どこの女房も、自分の亭主を世で一番偉いと思っているらしいが、この女房のように亭主を過大評価していると、たまらないものがある。喧嘩もできず、武蔵は仕方なく言った。


「旦那はお留守か。それは残念。旅に出たと言われたが、どこまで行ったのだ?」


「荒木田様のところへ」


「荒木田様とは?」


「伊勢へ来て、荒木田様を知らないなんてありえないでしょう。ホ、ホ、ホ、ホ」とまた女房は笑った。


 その笑い声が響く中、赤子が乳を吸いながらむずかり始めた。女房は土間の客を忘れたように、子守歌を歌い始めた。


「ねんねしょうとて、ねる子はかわい。起きてなく子は、つらやな、つらやな。母がかなかせ…」


 冷たい風が吹き込む中で、せめて暖かいふいごの火があったのが救いだ。武蔵は、このままでは諦めるしかないのかと考えつつ、最後に尋ねた。


「ご内儀、そこの壁にかかっているのが、ご主人が使う鎖鎌くさりがまですか?」


 せっかくここまで来たのだから、それを見て学んで帰るくらいはしておきたい。手に取って見てもいいかと聞くと、女房は半分寝ているような状態で、うなずいた。


「よろしいか」


 武蔵は壁に掛けてあった鎖鎌の一挺を手に取った。仔細に見てみると、それはただの一尺四寸ほどの棒に過ぎないが、その先には長い鎖が垂れており、鎖の端には鉄球が付いていた。振り回せば人間の頭蓋骨を粉砕できそうな威力を感じた。


「ははあ、ここから鎌が出るのか」


 棒の側面に彫られた溝を見つけ、鎌が潜んでいることに気づいた武蔵は、引き出してみた。鎌の刃は鋭く、十分に人間の首を切り落とせるほどの刃渡りを備えていた。


「ム…こう使うのだな」


 武蔵は左手に鎌を、右手に鎖の付いた鉄球を持ち、仮想の敵を思い描きながら、構えを試してみた。すると、突然、女房がこちらに目を向け、手枕を外しながら言った。


「なんだい、その構えは」


 そう言いながら、彼女は土間に下りてきて、武蔵の手から鎖鎌を取り上げた。


「そんな構えじゃ、すぐに太刀を持った相手に斬られてしまうよ。鎖鎌ってのはこう構えるんだ」


 百姓鍛冶屋のただの女房に過ぎないと思っていた彼女が、鎖鎌を持つと、見事な姿勢で構えを見せた。


「あっ…」


 武蔵は思わず目を見開いた。先ほどまで乳を与えていた姿が、ただの野暮ったい農婦のようにしか見えなかったのに、鎖鎌を持つと、その姿は見事で、気品すら漂っていた。そして、鎌の刃には「宍戸八重垣流」と彫られた文字が、青黒く輝いていた。



「お見事だ」と、武蔵がその目を奪われた瞬間、鍛冶屋の女房はさっとその姿勢を解いてしまい、「まあ、こんなもんさ」と言いながら、鎖鎌をガチャガチャと一本の棒に戻して、元の壁に掛け直した。


 武蔵は、彼女が見せた構えをしっかり記憶できなかったことをひそかに残念に思った。そしてもう一度見たい気持ちになったが、女房はさして気にする様子もなく、きぬたを片付け、朝の支度をしたり、台所で忙しく水仕事に勤しんでいた。


(あの女房ですら、あれほどの心得があるのなら、亭主である宍戸梅軒という男は、どれほどの腕なのだろうか…)


 武蔵はまるで病気のように、急に梅軒に会いたくなってきた。しかし、女房の話では梅軒は「荒木田」という場所に出かけていて留守だという。


「伊勢に来て荒木田様を知らないなんて」と笑われたのが少し気になった武蔵は、こっそり馬子に聞いてみた。


「荒木田様ってのは誰だ?」


 馬子はふいごのそばの壁にもたれかかり、半分寝ているような状態で答えた。


「大神宮さまのお守りもりゅうどだよ」


(なるほど、伊勢神宮の神官か。そこへ行ってるなら、すぐに分かるだろう)


 そう思った武蔵は、その夜はむしろの上で寝ることにした。しかし、鍛冶屋の小僧が起きて土間の戸を開けると、もう寝ているわけにはいかなかった。


「馬子、ついでだから山田まで連れて行ってくれないか」


「山田まで?」


 馬子は目を見開いた。しかし、昨日の分の駄賃もきちんと受け取っていたので、安心して行こうということになり、その日もまた武蔵は馬に乗り、松坂を経て、やがて伊勢大神宮への参道並木が暮れ方に見えてきた。


 冬の季節とはいえ、街道の茶屋はひどく寂れていた。並木の大木は風雨に倒れたまま横たわっており、旅人の姿も馬の鈴の音も稀だった。


 武蔵は山田の旅籠はたごから、宍戸梅軒が荒木田家に滞在しているかどうか問い合わせてみたが、返事は「そのような者は滞在していない」というものだった。何かの間違いであろうと言われ、武蔵はがっかりしつつ、釘を踏んだ傷の痛みを思い出した。傷口はさらに腫れてきており、豆腐粕とうふかすを搾った温湯で洗うと良いと教えられた武蔵は、翌日、一日中それを繰り返していた。


(もう今年も師走の中旬か…)


 そう考えると、武蔵は焦りを感じ始めた。吉岡家に宛てて出した決戦状は、すでに名古屋から飛脚に託してある。この期に及んで、足の傷が理由で遅れるとは決して言いたくなかった。その決戦の期日は、吉岡家の都合に合わせるよう伝えてはいたが、正月までには五条の橋にいなければならない。


「伊勢路に回らず、一筋に向かえば良かったかもしれないな…」


 軽く後悔しながら、湯に浸した足の甲を眺めていると、傷の腫れがさらに酷くなってきたように感じた。



「こんな薬が家伝で効くんですよ」とか、「この油薬を塗ってみてはいかがですか」などと、旅籠はたごの人々が色々な治療法を提案してくれるものの、武蔵の足の腫れは日ごとにひどくなっていった。片足はまるで材木のように重く感じられ、夜具の中に入れると、その熱と激痛に耐えられなくなる。


 ふと考えてみると、武蔵はこれまで、病気で三日間も寝込んだことがない。幼少期に頭の月代さかやき付近に腫物を患い、そのあとが今でも残っているため、常に月代を剃らないと決めている。しかし、それ以外で病気に苦しんだ覚えはほとんどない。


(病もまた、強敵だ…この敵に対抗する剣は何か?)


 彼の敵は、いつも外にいるわけではなかった。寝込んで四日目、武蔵は瞑想の中でそんなことを考えた。だが、ふと年の暮れが迫る暦を目にし、吉岡道場との約束を思い出すと、急に焦りが募る。


(こんなことで寝ていられない…)


 彼の肋骨は、さかんな心臓を押さえつけるように張り、心が熱く沸き立った。そして、腫れた足で無理やり蒲団をはねのけた。


(この敵にすら勝てないで、吉岡一門に勝てるか!)


 病魔を押さえ込むつもりで無理に正座してみるが、痛みが凄まじい。気を失いそうなほどの激痛に襲われた。


 武蔵は窓の方へ向き、目を閉じた。真っ赤に燃え上がる顔が徐々に冷めてきた。彼の固い信念が、病魔をいくらか後退させたのだろうか。頭が少しすっきりしてきたようだった。


 目を開けると、窓の外には伊勢神宮の外宮げぐう内宮ないぐうの神林が広がっていた。その上には朝熊山あさまやまの姿があり、さらにその山々の肩越しに、鷲ヶわしがたけという鋭い山の峰がそびえているのが見えた。


鷲嶺わしみねか…」


 武蔵はその山と視線を交わし合った。仰向けに寝ていた毎日、その山を見つめていたが、どうしてもその山に対して闘志が湧き上がってくるのだった。鷲嶺の傲岸な姿に、何とも言えない苛立ちを感じていた。


 その山の頂きが雲を突き抜け、群山の上に孤高にそびえ立っているのを見て、武蔵は柳生石舟斎やぎゅうせきしゅうさいの姿を思い浮かべた。まるで石舟斎その人が山となったかのような感覚に襲われ、雲の上から自分を嘲笑されているような気がしてならなかった。


「…………」


 山を睨みつけている間は痛みを忘れていたが、ふと我に返ると、再び激痛が襲いかかる。武蔵は自分の腫れ上がった足を見つめ、眉をひそめた。


「――おい! おい!」


 激痛に耐えきれず、武蔵は旅籠の女中を急に呼び出した。しかし、なかなか来ないので、彼は畳を二、三度拳で叩いた。


「おい! 誰かいないか。すぐに出発するから、勘定を頼む。それと弁当、焼き米、丈夫な草鞋わらじを三足ほど、用意してくれ!」

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