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現代語訳 宮本武蔵  作者: AI Gen Lab
火の巻
41/165

物干竿

「――あ、確かに見ましたよ。猿を肩に乗せた派手な若者ですね。そんな格好をしている男なら、さっき通りましたよ」という情報が入った。


「どこで? どこでだ?」


「ええと、高津こうづ真言坂しんごんざかを降りて、農人橋のうにんばしの方へ行ったようです。そして橋は渡らずに、東堀の刀屋の前で姿を見たという話もありました」


「なるほど、手がかりがついたぞ。そいつに間違いない!」


「行くぞ!」


 と、言わんばかりに、夕方の雑踏の中を、ひときわ目立つ集団が駆け出していった。彼らは、肩に猿を乗せた派手な若者を追い求めているのだ。


 その頃、東堀の町並みはすでに店じまいが始まっていた。一人が店に入り、店主に何やら厳しい口調で詮索を始めると、やがて外へ出てきて言った。


天満てんまへ向かえ! 天満に行くんだ!」


 そして、先頭に立ってまた走り出す。他の者が息を切らしながら尋ねる。


「確実なのか?」


「間違いない!」


 この集団は、今朝から住吉を中心に、小猿を肩に乗せた美少年を追い続けている、吉岡道場の門弟たちだ。住吉からの手がかりを頼りに、この若者を見つけるべく、大坂市内を奔走していた。


 その頃、刀剣師の店での話によれば、その若者は確かに現れ、夕暮れに刀屋の前で腰を下ろしていたという。肩に猿を乗せ、通りすがりの者に刀の研ぎを頼もうとしたようだが、不在の店主に不満をもらし、こう言ったそうだ。


「京都で研がせるつもりだ。大坂の刀屋はどこを見ても雑兵の持つ安物ばかりで、ろくに研げやしない!」


 その言葉を残し、若者は立ち去ってしまったという。


「聞けば聞くほど生意気な若者だな。祇園藤次の髷を切っておいて、ますます調子に乗っているに違いない。今、奴の背後には、地獄への案内役が迫っていることも知らずに、得意満面で歩いているんだろうさ」


「見ろよ、青二才め。もう逃げ場はない。急ぐこともないさ」


 疲れ果てた門弟の一人がそう言うと、先を駆ける者が言い返す。


「いやいや、急がなきゃダメだ。淀川の船は、今ごろ出航するのが最後の船だぞ」


 彼らは、息を切らしながらも、若者を追い続けた。



 天満川の波を見下ろした瞬間、先頭を走っていた男が叫んだ。


「やばい、もう船が出てる!」


 それを聞いた仲間が問い返す。


「どうした?」


「もう船着き場の茶屋が片付けを始めてる。川には船が見当たらん!」


「もう出ちゃったか…」


 彼らは息を整えながらも、肩を落としてしばらく川面を見つめていた。まるで出し抜かれたかのように感じていたが、茶屋の者に話を聞くと、確かに小猿を連れた前髪の若者は、その仕舞い船に乗って行ったとのこと。船が出たのはつい先ほどのことで、次の船着き場である豊崎とよさきまではまだ到着していないらしい。


「下りは速いが、上り船はゆっくりだから、陸を走れば追いつけるぞ」と茶屋の者が言う。


「そうか。ここで逃したとしても、まだ追いつけるってことだな。急がずに一息入れていこう」


 そこで一同は、茶を飲み、餅や駄菓子を頬張り、再び川沿いの暗い道を急ぎ足で進んでいった。


 やがて、広い闇の向こうに銀蛇のように二股に分かれた川が見えた。淀川が中津川と天満川に分かれるあたりだ。その辺りに、小さな灯りがちらりと見えた。


「船だ!」


「追いついたぞ!」


 七人は色めき立つ。


 枯れたあしがまるで刃物のように光り、青いものひとつ見えない田畑を風が吹き抜けていく。霜が降りそうな冷たい風だったが、彼らには寒さを感じる余裕などなかった。


「よし、あと少しだ!」


 彼らは船との距離をどんどん詰めていった。しかし、勢い余って、一人が思わず大声で叫んでしまった。


「おーい! その船、止まれ!」


 すると、船からは、


「なんじゃあ…」と気の抜けた声が返ってきた。


 その場で仲間たちが先走った男を叱った。


「お前、何やってんだ! 今叫ぶ必要ないだろう。もう少し先の船着き場まで行けば、自然と船は停まるんだ。ここで叫んだら、相手に準備を整える時間を与えるだけじゃないか!」


「まあ、どっちにしろ、相手はたかが一人だ。今更気づかれたところで、もう逃げ場はないさ。叫んだ以上、名乗りかけて、川に逃げ込まれないようにしろ」


「そうだ、その通りだ」


 場を仕切る者がそう言い、仲間割れは収まった。七人は息を揃え、船と並走しながら再び声をかけた。


「おーい!」


 船からまた声が返ってきた。


「なんじゃあ!」


 今度は船頭らしい。


「その船、岸に寄せろ!」


 そう言うと、船の中から笑い声が響いた。


「阿呆が、何をぬかしとるんじゃ!」という嘲笑交じりの声が返ってくる。


 威圧するように再度命じると、今度は客の声らしきものが船から返ってきた。


「寄せられるもんか!」


 七人は息を白く吐きながら、互いに顔を見合わせた。


「よし、寄せられないなら、次の船着き場で待ってやる。だがな、そこの船に小猿を連れた前髪の青二才がいるだろう。恥を知ってるなら、船の端に立て。そして、もしその青二才を逃がしたら、乗ってる全員を陸に引きずり下ろすことになるぞ。覚悟しとけよ!」



 三十石船の中が騒がしくなり、そのざわめきが陸からも手に取るようにわかった。何かが始まる前触れに、船に乗っている連中が色を失っていた。


「岸に着いたら、きっと何かが起こる…」


 陸を歩いていた吉岡門下の七人は、袴をくくり上げ、襷をかけ、刀を抜く準備を整えていた。対する船の中の客たちは、口々に囁きあっていた。


「船頭、何があっても返事をするな」


「何を言われても黙っていろ。守口もりぐちまでは着けるな。守口には川番所があるから、お役人がいるんだ」


 船内では恐怖に顔を青ざめさせ、生唾を飲む者が続出していた。特に、最初に減らず口を叩いていた男などは、今や声も出せないほど縮こまっていた。彼らが頼れるのは、陸との距離だけだった。


 七人の侍たちは、船と並行して追いかけ続けた。しばらくの間は船内の様子を見守り、相手がどう出るか待っていたが、返事がないまま時間が過ぎていく。堪えきれず、ついに一人が声をあげた。


「――聞こえたか! 小猿を連れた洟垂れ武士よ、船のふなべりに出ろ!」


 すると、船の中から声が返ってきた。


「わしのことか?」


 客たちが「何も言うな」と言い合っていた中、一人の若者が立ち上がり、堂々と船縁に姿を見せた。


「おうっ!」


「いたぞ!」


「小僧め!」


 七人の侍たちは、その姿を確認すると、興奮して指を差し、まるで川を飛び越えて襲いかかりそうな勢いを見せた。


 前髪を垂らし、大太刀「物干竿」を背に負ったその若者は、堂々と立ち尽くしていた。彼の足元を打つ水明りが、鋭く光る歯を白く浮かび上がらせた。


「小猿を連れた青二才というのは、確かに俺のことだが、お前たちは何者だ? 稼ぎのない野武士か、それとも腹を空かせた旅芸人か?」


 その挑発的な声が川を渡って陸に届くと、七人は歯を食いしばり、顔を揃えて怒りに震えた。


「抜かしやがったな、小猿使いの奴め!」


 次々と悪罵が飛び交い、川面を打つように響いた。


「調子に乗るな、今に吠え面かいて謝ることになるぞ!」


「俺たちが誰だか分かって言ってるのか? 吉岡清十郎門下の俺たちだぞ!」


「今のうちに細首を洗っておけ!」


 船は、毛馬堤けまづつみに差しかかっていた。そこには船を繋ぐ杭と小さな小屋があり、毛馬村の船着き場に近づいていた。七人は、そこに先回りして降り口を固めた。


 しかし、船は河の中央で止まり、ぐるぐると回り始めた。客も船頭も、陸に着けるのは危険だと考えている様子で、誰も動こうとしない。


 それを見た吉岡門下の侍たちは再び怒鳴った。


「こら! なぜ船を岸に寄せん!」


「明日になっても明後日になっても、ずっと寄せずにいられると思うなよ! あとで後悔することになるぞ!」


「その船を寄せないなら、乗っている奴ら全員、陸に引きずり下ろしてやる!」


「小舟で乗り込んで、ぶち斬ってやるか?」


 次々と脅しの言葉が飛び交う中、突然、船のへさきが陸の方に向き直った。すると、沍寒ごかんの大河を裂くような一声が響いた。


「うるさいっ! 望み通り、今すぐ行ってやる。覚悟を決めて待っていろ!」


 見ると、前髪を垂らした若者自身がさおを取り、船頭や客たちの制止を無視して、ぐいぐいと船を岸へ向けて突き進めてきたのだった。



「――来るぞ」


「命知らずめが…!」


 七人の侍たちは、つかに手をかけ、船がぶつかってくる岸辺を囲んで待ち構えていた。船は川の流れを横切りながら、その鋭い舳先へさきを彼らに向けて一直線に進んできた。その船の先頭には、前髪を垂らした美少年が立っており、徐々に彼らの視界いっぱいにその姿が迫ってきた。


「ざ、ざ、ざっ…」


 船の舳先が枯れたあしに突き刺さり、まるで七人の侍たちの胸を直撃するかのように近づいてくると、無意識に彼らは後ろへと一歩、二歩と下がった。その瞬間、船の舳先から丸っこい影が飛び出し、七人の侍の一人の首に向かって跳びかかってきた。


「ひゃっ!」


 一人が叫ぶと同時に、七人の侍は一斉に刀を抜き、白い光が空に噴き上がった。しかし、すぐに気づいた。


「猿だ!」


 彼らが切ろうとしたのは、敵の前髪の少年ではなく、小猿だったのだ。動揺して斬撃を繰り出したのは、彼ら自身も不覚だった。


「慌てるな!」

 互いを戒め合いながら、何とか平静を取り戻そうとしたが、その狼狽する姿は、船の中に縮こまっていた乗客たちにとっては笑いをこらえるような滑稽な光景だった。


 そのとき、船の中で水を操っていた前髪の美少年がさおを葦の中に突き刺し、自分の身体を軽々と宙に浮かせた。小猿よりも俊敏に、難なく岸に飛び移ったのだ。


「やっ?」


 七人の侍たちは、一斉に方向を変えて少年を追った。待ち構えていたはずが、急な展開に焦りが顔に現れていた。全員が一斉に襲いかかるどころか、陣形が崩れ、縦隊になってしまった。それに対し、少年は悠然と構え、余裕を持って彼らを待ち受けていた。


 縦隊の先頭にいた侍は、もう引き返すことはできない位置に立たされていた。彼の目は血走り、耳には何も聞こえなくなっていた。平常の剣術の修練など完全に忘れ、目の前の少年に食いかかるように刀を突き出していった。


「…………」


 美少年はその巨躯きょくをさらに伸び上がらせ、右手を肩に伸ばし、背負っていた大太刀の柄を握った。


「吉岡の門人どもだな? 望むところだ。前にはまげだけで許してやったが、それでは物足りなかったようだな。俺も少し物足りなかったところだ。」


「ほ、ほざくな…!」


「この物干竿ものほしざお、どうせ手入れに出すんだ。手荒につかってやるぞ!」


 宣言を受けた侍は逃げる暇もなかった。少年の手に握られた物干竿はまるで梨割りのようにその侍を真っ二つに斬り伏せ、彼をその場で死骸と化した。



 前方にいた一人が、大太刀を振るう敵に倒されるのを見た瞬間、残った六人は混乱し、脳の中枢が一瞬で狂い、隊列も統一感を失ってしまった。戦いがこうなると、群れは一気にもろくなる。それに対して、勢いに乗った前髪の美少年は、長く伸びた「物干竿ものほしざお」を自在に操り、次の一人を横からなぐった。


 その一撃で相手を斬り倒すことはできなかったが、それでも十分な威力があったに違いない。一人は叫び声を上げて、横へ飛び退き、葦の中へ転げ込んだ。


(――次だ)


 と、美少年は鋭い目で周囲を睨み渡す。残った侍たちも、さすがに戦い慣れないながらも、自分たちの立場が危ういことに気づき、円を描くようにして美少年を囲み込んだ。


退くな!」 「退くなよ!」


 互いに声を掛け合い、何とか士気を保とうとする。そこでほんの少し勝利の可能性を感じた彼らは、勢いに駆られ、


小童こわっぱめ!」


 と叫びながら一人が突撃した。しかし、それは勇気というよりも、恐怖を忘れるための無意識の行動だった。


「思い知れ!」


 そう叫びながら突進するが、その刀は美少年の胸に届く前に、虚空を斬りつけただけだった。彼は自分の刀が届いたと思い込んでいたが、実際にはまだ二尺も届いていなかったのだ。


 当然、攻撃を誤った刀の先は地面にカチンとぶつかり、彼自身はまるで死の淵に飛び込むように身を晒してしまった。だが、簡単に斬ることができる状況にもかかわらず、美少年はその倒れた侍を無視し、別の敵に向けて「物干竿」を一気に振り抜いた。


「ぐわッ!」


 明らかな末期の叫びが響き渡り、もう一人の侍が倒れた。すると、残った三人は一瞬で気力を失い、わらわらと逃げ出した。


「それが吉岡の兵法かっ!」


 美少年は物干竿を手に、逃げる侍たちを追いかけながら叫んだ。


「汚いぞ、返せ!」


 彼は逃げる侍たちを罵りながらも、足を止めることなく追撃を続けた。


「待てっ、待てっ! 人を船から呼び出しておいて、捨てて逃げる侍がどこにいるかっ! そのまま逃げるなら、吉岡を天下に笑い者にしてやるがよいか!」


「笑い者にする」という言葉は、侍同士で使う際、最大の侮辱を意味する。唾を吐きかけられる以上の屈辱だ。――だが、逃げる侍たちには、その言葉すらも届かない。


 その頃、毛馬堤けまづつみを寒々とした夜空の下、馬の鈴の音が響いてきた。霜と淀川の水明かりが、提灯ちょうちんも必要ないほどの明るさを作り出していた。馬上の人影と、馬の後ろを歩く人々は、白い息を吐きながら急ぎ足で進んでいる。


「おっ!」 「御免っ!」


 逃げてきた三名の侍たちは、馬の鼻先にぶつかりそうになり、慌てて後ろを振り返った。



 慌てて手綱を引いたので、馬が足を踏み鳴らしていなないた。馬上の人物は、馬の前で戸惑っている三人を見下ろし、


「やっ、門下たちか」


 と驚いた表情を見せたが、すぐに怒りを露わにして叱りつけた。


「たわけ者め、どこで終日うろついていたのだ!」


「若先生ですか」


 三人の一人が応じると、さらに馬の陰から植田良平が現れ、


「何事だ、その様子は。若先生のお供をしているにもかかわらず、若先生が戻るのも知らず、また酒場での喧嘩か? 馬鹿な真似はいい加減にしろ」


 彼らがいつもの酒の上の喧嘩と見られたのでは、堪らない。三名は不満げな語調で、まるで自分たちは吉岡流の名誉を守るために戦っていたのだと説明し、状況を早口で一気に話し、


「あれ、あれがやって来ます!」


 と近づいてくる足音におびえた表情を浮かべた。


 その怯えた姿を見た植田良平は、呆れ顔で、


「何を騒ぐんだ。口ばかりで行動が伴わないではないか。それでは、吉岡流の名誉を守るどころか、逆に泥を塗ることになる。――よし、俺が相手をしてやろう」


 そう言うと、馬上の清十郎も三名を後に残し、植田良平は一人で十歩ほど前に進んだ。


「御座んなれ、前髪の若者よ」


 植田良平は身構えて、近づいてくる足音を待ち受けた。彼は、前髪の美少年が、例の長剣「物干竿」を振り回しながら風を切ってこちらに向かってくるとは知らなかった。


「やあ! 逃げるのが吉岡流の極意か? 俺は殺生を好まないが、この物干竿が、まだまだと鍔鳴りして承知しない。逃げてもいいが、その首だけは置いていけ!」


 前髪の美少年はこう叫びながら、毛馬堤の上を疾走してこちらに迫っていた。


 植田良平は唾を手に吐き、刀の柄を握り直した。しかし、美少年の疾風のごとき勢いはすさまじく、植田の姿など見えていないかのように、その頭上を越えていくかのようだった。


「――わっしょっ!」


 植田は大喝を発しながら、大刀で払い上げた。しかし、美少年はそれを難なくかわし、瞬く間に反対方向へ回り込むと、まるで軽く宙を舞ったかのように、再び物干竿を振り返してきた。


 その剣気の烈しさに、植田は息を呑んだ。かつてこんな殺気を感じたことはなかった。なんとかその一撃を避けたものの、植田は毛馬堤から田んぼの方へ転がり落ちてしまった。幸い、堤は低く、凍った田んぼだったが、彼は戦機を完全に失ってしまった。


 植田が再び堤の上に立ち戻ったとき、前髪の美少年はすでに獅子奮迅の勢いで、門下の三名を次々に薙ぎ払い、さらに馬上の吉岡清十郎へと迫っていた。



 自分の身の危険が迫る前に、なんとかなるだろうと清十郎は思っていた。しかし、現実はすぐに目の前にやってきた。美少年が振るう暴力的な剣技、物干竿が突進し、清十郎が乗っている馬の脇腹を突こうとした。


「岸柳! 待て!」


 清十郎は高らかに叫び、瞬時にあぶみにかけていた足を鞍の上へ移した。鞍を蹴り立つようにして飛び上がり、馬は前髪の美少年を跳び越え、清十郎自身は見事に三間(約5.4メートル)後ろに飛び降りた。


「――鮮やかだ!」


 賞賛したのは、味方ではなく敵の前髪の美少年だった。彼は物干竿を持ち直しながら、清十郎へと跳躍して、


「今の所作、敵ながら見事だ。察するに、そなたが吉岡清十郎か。ちょうどよい機会だ、いざ勝負!」


 美少年の目には、闘志が炎のように燃えていた。清十郎もまた、武術の名家であるだけに、余裕を持ってその挑戦を受け止めていた。


「岩国の佐々木小次郎か。確かに俺が吉岡清十郎だが、無意味に剣を交えるつもりはない。勝負はいつでも決着をつけられるだろうが、まず理由を聞かせてくれ」


 清十郎が「岸柳」と呼んだ時、美少年はその言葉を耳に入れていなかったが、彼が「佐々木小次郎」と名指しした時には明らかに反応した。


「や! ……俺を、岸柳佐々木小次郎とどうして知っている?」


 驚きを隠せない様子で美少年が尋ねた。清十郎は膝を打ち、


「やはり、小次郎殿であったか」と頷きながら前に進み、


「お目にかかるのは初めてだが、噂はよく聞いていた」


「誰から?」


 少し茫然としたように小次郎が言うと、清十郎は続けた。


「その兄弟子、伊藤弥五郎殿から」


「お、一刀斎殿とご懇意か?」


「ついこの秋頃まで、一刀斎殿は白河の神楽ヶ岡に庵を結んでおいでだった。時折、こちらに立ち寄ってくださることもあった」


「ほう!……」


 小次郎は笑みを浮かべながら、


「ならば、俺たちは初対面ではないようなものだな」


「一刀斎殿は、しばしばそなたの話をしていた。――岩国に、岸柳佐々木と称する者がいる。自分と同じく、富田五郎左衛門の流れを汲み、鐘巻自斎先生に師事した者で、同門の中でも一番若いが、行く末は自分と天下を争うだろうと」


「だが、それだけでこの場で俺が佐々木小次郎だと分かったのはどうしてだ?」


「一刀斎殿からそなたの年若さや人柄、そして長剣を自由に操る姿を聞いていたからだ。それを見て、もしやと思い、当て推量で言ったまでだが、それが図らずも的中した」


「奇遇だ! これはまさに奇縁」


 小次郎は快哉を叫んだが、ふと自分が持つ血に染まった物干竿を見つめ、この状況をどう収めるべきか考え込んだ。



 お互いに話し合った結果、誤解が解け、すっかり打ち解けた二人――佐々木小次郎と吉岡清十郎は、毛馬堤を並んで歩いていた。その後ろからは、植田良平と三名の吉岡門人が寒さに震えながら続いている。まるで旧知の友のように振る舞う二人の姿が夜の道を照らしていた。


「いや、最初からこちらは売られた喧嘩に巻き込まれた感があっただけで、事を好んだわけではないんだ」


 と、これは小次郎の言い分。清十郎は小次郎の話を聞きながら、祇園藤次が阿波の船中で振るった行動や、後の出来事を思い合わせ、


「けしからぬ男だ。戻ったら糾明しなければならない。――そなたを怨むどころか、こちらこそ門下どもの不手際で何とも申し訳ない」


 そう言われると、小次郎もまた謙虚な姿勢を見せ、


「いやいや、私もこのような性質ですから、つい大言を吐いてしまいますし、喧嘩なら誰にでも応じるのです。だから、門下の者ばかりが悪いわけではありません。むしろ、彼らの心根は健気で、不憫に思えるほどです」


「いや、私が悪いのだ」


 清十郎は自責の念に駆られ、沈痛な顔で歩いていた。


 小次郎が、「そちらに含むところがないなら、すべてを水に流そう」と言うと、


「願ってもないことだ。むしろ、これを機に今後の交誼を深めたい」


 清十郎もそう応じた。


 二人の和やかな様子を見て、後ろを歩く弟子たちはほっと胸を撫で下ろした。美少年のような前髪の若者が、あの伊藤弥五郎一刀斎が「岩国の麒麟児」とまで称賛していた佐々木小次郎であるとは、誰も最初は思いもしなかっただろう。


「これが、岸柳か……」


 植田良平や他の門人たちは、今さらその背中を見直し、ようやく非凡な人物だと認めざるを得なかった。


 毛馬村の船着場に戻ると、そこには物干竿で倒された死体がいくつか転がっており、すでに寒天に凍りついていた。清十郎は門人に後始末を指示し、植田良平は逃げた馬を見つけて連れ戻す。小次郎は口笛を吹きながら、どこかにいる小猿を呼んでいた。


 口笛に応じて、小猿は姿を現し、小次郎の肩に飛びついた。清十郎は、


「ぜひ、四条の道場へ来て逗留していただきたい」


 と、自分の乗馬を小次郎に勧めたが、小次郎は首を振って、


「いや、それはできません。私はまだ若輩の身で、貴公は平安の名家・吉岡拳法の嫡男である。遠慮なくお乗りください。しばらくの間、話しながら京都までお供いたしましょう」


 傲慢にも見える一方で、礼儀をわきまえた小次郎であった。


 年末が近づき、清十郎は、宮本武蔵との決着をつける宿命がある。その前に小次郎という強者を道場に迎え入れられることで、少し心強さを感じるのだった。


「ではお先に失礼します。足が疲れたら交代しましょう」


 清十郎はそう言って、再び鞍の上へ移った。

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