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95 欠けたピース③




 なぜか突然抱きついてきた悪役令嬢から逃げるように、校舎の渡り廊下にやってきた。

 今日は始業式だから、生徒も先生も、みんなホールに向かう。だから校舎のある方に来る人はほとんどいないはずだ。いるとしたら、図書室を利用する生徒か研究室を利用する先生くらいだろう。

 とはいっても、こんな朝早くから読書したり研究したりする人などいない。そのため、渡り廊下に人影はない。


 ふう、と一息ついた。

 過去の私は、悪役令嬢と面識などなかった……と思う。


 はっきりと言い切れないのは、自分の記憶がかなり朧げだからだ。

 大好きだった魔法のことは、いくらでも思い出せる。今まで貯めてきた知識も、仮説も、結果も考察も、全部ではないかもしれないけれど、頭の底から次々湧いてくる。

 けれどそれ以外の事、例えばクラスメイトや授業内容、日付、出来事なんかは思い出そうとしても思い出せない。

 頭にぼやぼやと霧がかかって、出口で詰まって、出てくる気配もないのだ。


 でも、人見知り引きこもり魔法オタクの伯爵令嬢は、この国の貴族の頂点に君臨する公爵家の方々と知り合いになろうとは思わないだろう。そんなこと、恐れ多くてできるはずもない。


 さらに、抱きついてきた彼女の背後には、王太子やその側近ーーハントベア公爵家やヴァーネス辺境伯家の子息達もいた。二人とも、小説に出てきたから知っている。登場頻度は悪役令嬢や王太子よりは低かったが、読者に忘れられるほどではなかった。


 そんな学校一、いやこの国で一番キラキラしたグループが、なぜ私なんかに声をかけて、抱きついたりなんかしたのだろう。


 わからない。

 考えれば考えるほど、謎は深まるばかりだ。



 ふと、近づいてくる足音に気づいた。

 俯いて考え込んでいた私は、顔を上げて足音のする方を見る。


 足音の主は、コツンと靴の踵を鳴らして、私の目の前で立ち止まった。

 その顔には、驚きが浮かんでいる。


「あら、ラティーアさん。もう登校して大丈夫なの?」


 目の前の女性は首を傾げた。ふわふわの癖毛が柔らかく揺れる。

 制服を着ていないから教師だろう。全身からほのぼのとしたオーラが溢れ出ている、優しそうな人だ。


 この人は誰だっけ、と霧のかかった記憶の底を探る。


 ーー私はこの先生に魔法のことを教わったことがあるような気がする。

 それは座学で、教室で、黒板に棒人間を描いていた。ーー


「はい、もう元気いっぱいです。ご心配をおかけしました、……サリヴィア先生」


 サリヴィア・フラン先生。国家魔法士の資格を持つ魔法科の教師で、座学を教えている。


「そう。実戦演習で倒れた時はどうなるかと思ったけれど、無事回復してよかったわ。助けに行けなくてごめんなさいね。回復したとは言っても病み上がりなんだから、しんどくなったら保健室へ行くのよ」


 サリヴィア先生はそう言うと、「では、私は急ぐから行くわね。ラティーアさんも遅れないようにホールに向かうのよ」と言い残して、足早に去っていった。


 サリヴィア先生は、こんな朝早くから研究をしていたのだろうか。

 もしかしたら、夜通しやっていたのかもしれない。学園の敷地内にある職員研究棟は、たしか真夜中まで作業していても怒られないはずだ。

 どちらにしろ、とても研究熱心な先生だ。

 魔法科座学の授業が待ち遠しく感じた。



***



「ただいま」


 始業式が終わると、私は逃げるように寮に帰ってきた。

 今日一日、悪役令嬢がどこにいるかを常にチェックして、可能な限り距離を置いて生活していたのだ。

 ちらちらとこちらに視線を向けてくる悪役令嬢から逃げるのはとても大変で、明日からこんな日々が続くのかと思うとため息をつきたくなる。


 疲れた。早く魔法の研究がしたい。


「お帰りなさいませ、お嬢様。久々の学園はどうでしたか? 体調に異変はありませんか?」

「学園長のありがた〜いお話が退屈だったよ。体調は大丈夫」

「なら良かったです。去年も学園長のお話が長いとぼやいていましたね」

「去年のことは覚えてないんだけど、多分そうだろうね。ああいうのは、同じような話を毎年繰り返してるだけだから」

「……やはり、覚えていませんか」


 ハンナが顔を曇らせる。

 主人が、長い眠りから目を覚ましたと思ったら記憶喪失になっていたのだ。そりゃあ心配もするだろう。

 当の本人はそんなこと全く気にせず暢気に過ごしているけれど。


 研究室のドアノブに手をかけた私に、ハンナが鋭く声をかけてきた。


「お嬢様。今日は研究禁止です」

「えぇ! なんで」

「なんでも何も、久しぶりに登校してお疲れでしょう? 病み上がりなのですから、本来なら一日中ベッドの上にいるべきなのです。ほらほら、着替えたらさっさとベッドに入ってください。読書くらいなら許してあげますから」

「ええぇ。ハンナのけち。私は魔法を栄養にして生きてるのに」

「腹の足しにもならない冗談は置いておいて、早く着替えてください。ほら、腕上げて」


 ハンナは手際よく私のブラウスを剥ぎ取ると、代わりにレースのついた可愛らしいネグリジェを着せた。


「そうだ、ツッコミが忙しくて言い忘れてましたが」


 私を着替えさせ終わったハンナが、たった今思い出しましたとでも言うふうに手をポンと打つ。


「お医者様を呼んでおいたのでもうすぐ来られますよ。なので研究は禁止です。後ずさりして研究室に向かおうとしているの、バレバレですからね」

サリヴィア先生が黒板に棒人間を描いていたのは15話です。

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