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第49話 ヒストリカの屋敷改造計画

 エリクの呼吸は次第に落ち着き、やがて規則正しいリズムを刻み始めた。

 最初は浅かった眠りも、徐々に深くなっていくのが分かる。 


 肩の力が抜け、完全に体が椅子に預けられる。


「……まあ、十五分で起きれるわけないんですけどね」


 ヒストリカは小さくため息をついた。

 仮眠とは言ったものの、今のエリクの疲労具合を考えれば、短時間の休息で済むわけがない。


 限界まで酷使された体と頭には、今何よりも必要なのは仕事ではなく、十分な睡眠だった。


(とりあえず、しっかり眠ってもらわないと)


 ヒストリカはそう考えながら、そっと近くに置かれていた膝掛けを手に取った。

 薄手ではあるが、冷えた空気から身を守るには十分だ。


 ヒストリカは静かにエリクの肩にそれをかける。


「……おやすみなさい、エリク様」


 誰にも聞こえないほどの小さな声でそう呟き、ヒストリカは静かに執務室を後にした。

 廊下を歩きながら、ヒストリカはふと考える。


(エリク様の仕事は確かに膨大だけど……それだけが疲労の原因じゃないのでは……)


 日々の生活の中で感じていた違和感。


(この屋敷全体に、何か問題があるのかもしれません)


 例えば、エリクが頻繁に咳をしていたこと。

 彼は体が弱いとはいえ、ここ最近、喉の調子が悪そうにしていることが増えていた。


 そして、それは埃や空気の質とも関係があるのではないかと考えた。

 屋敷の掃除は一見すると行き届いているが、見えない場所に埃が溜まっている可能性はある。


(エリク様の食事も気になりなるわね……)


 忙しさにかまけて適当に済ませているのではないか。

 屋敷の料理人たちがどこまでエリクの体調に気を配っているのか、確認する必要があるとヒストリカは感じた。


(いずれにしても、一度、屋敷全体を見直すべきね)

 

◇◇◇


 ヒストリカはまず、使用人たちの管理を行っているハミルトンを探すことにした。

 執事長である彼ならば、屋敷の運営状況について最も詳しいはずだ。


 ハミルトンはすぐに見つかった。


「おや、ヒストリカ様。何かご用でしょうか?」


 ハミルトンは、相変わらず穏やかながらも冷静な態度で彼女を迎えた。


「ええ。少し、屋敷内の環境について気になっていることがあって」


 ヒストリカは淡々とした口調で話し始める。


 エリクの咳の原因、屋敷の掃除が適切に行われているかどうか、料理人の管理状況などについて、細かく尋ねた。

 ハミルトンは一つ一つの質問を冷静に受け止めながらも、考え込むような表情を見せた。


「確かに、掃除については、見える部分はきちんと行っておりますが、細かい部分の点検は……」

「おそらく、十分ではないでしょうね」


 ヒストリカは断言した。

 エリクの部屋にいたとき、彼が使う机の端にうっすらと埃が積もっていたことを思い出す。


 表面的には整えられているように見えても、屋敷全体の衛生管理が徹底されているとは言い難い。


 それは、ヒストリカが初めてこの屋敷を訪れた際にも感じていたことだった。


「試しに、手近な家具の上を指でなぞってみて」


 ハミルトンはヒストリカの言葉に従い、近くの装飾棚の上を指でなぞった。

 そして、指先を確認し、わずかに眉をひそめる。


「……確かに、埃が溜まっていますね」

「目につかない場所ほど、掃除が疎かになるわ。エリク様は屋敷内で多くの時間を過ごす。衛生環境が悪ければ、体調を崩してもおかしくないわ」


 ハミルトンは少しの沈黙の後、深く頷いた。


「なるほど……ご指摘、もっともです。申し訳ございません。すぐに掃除を徹底させましょう」

「それについてなんだけど……」


 ヒストリカは逡巡した後、ハミルトンに尋ねた。


「私から使用人たちに呼びかけて、掃除を行っても良いかしら?」

「ヒストリカ様が、ですか?」


 ハミルトンは少し驚いたように目を見開いた。

 貴族の女性、それも公爵夫人となるべき人物が、屋敷の管理に積極的に関与するのは珍しいことだった。


「ええ。エリク様の体調に関わることだから、一刻も早く、衛生状態を改善したいの」


 ヒストリカの言葉には一片の躊躇いもない。

 何よりもエリクのために少しでも快適な環境を整えたいという気持ちがあった。


 ハミルトンはしばし黙考し、やがて深く頷いた。


「わかりました。正直なところ、私も屋敷の管理まで手が回らず、細かな部分の不備には気づいていながら、対応しきれておりませんでした。ヒストリカ様がそう言ってくださるのなら、大変助かります。本来ならば私が指示を出すべきところ、お手数をおかけして申し訳ありません」

「気にしないで。私にとっても他人事ではないから」


 ヒストリカの言葉に、ハミルトンの表情が和らぐ。


「ありがとうございます。では、使用人たちには私からもお伝えしておきますので、ヒストリカ様のお力添え、どうかよろしくお願いいたします」


 ヒストリカは静かに頷いた。

 続けてヒストリカは尋ねる。


「それと、食事の件も確認したいわ」

「食事、ですか?」

「ええ。エリク様の食事、栄養バランスを考慮されているのか気になるわ」


 ヒストリカの問いかけに、ハミルトンは少し考えるように眉をひそめた。


「料理長に任せておりますが……彼はエリク様が食べやすいように工夫しているとは聞いております」

「なるほど」

(おそらく、不十分ね……)


 と、ヒストリカは考える。


 ヒストリカはすでに何度かこの屋敷の調理場を訪れ、シェフたちの手際を見ていた。

 彼らの腕は確かだが、貴族の食文化においては「味の良さ」や「贅沢さ」が重要視され、栄養バランスという概念はまだ希薄だった。


 実際、エリクの食事も豪華ではあるものの、ヒストリカから見れば偏りが大きい。


「ありがとう、ハミルトン。参考になったわ」

「いいえ、こちらこそ。身を引き締める良い機会になりました」


 ハミルトンと別れた後、ヒストリカはその足で厨房へ向かった。

 厨房は相変わらず活気があり、料理人たちが慌ただしく調理をしていた。


 しかしヒストリカが入ると、彼らは動きを止めて視線を向けてきた。


「ヒストリカ様。調理場にいらっしゃるのは久しぶりですね」


 料理長が微笑みながら近寄ってきた。

 彼はヒストリカが以前何度か厨房で自ら調理をしたことを覚えているため、警戒というよりも好意的な態度だった。


「ええ。今日は少し、エリク様の食事について確認したいの」

「食事、ですか」


 ヒストリカは料理長から、エリクの最近の食事内容が記されたメモを受け取った。


 同時にヒストリカは、料理人たちが準備している食材にも目を向けたが、やはり野菜の使用量が少ないことが気になった。


「エリク様の食事だけど……もう少し、野菜を増やせないかしら?」


 ヒストリカの言葉に、料理長はぱちくりと目を瞬かせた


「野菜は付け合わせとしては出しておりますが……それでは不十分でしょうか?」

「ええ。野菜には体を整えるために必要な成分が含まれているわ。ただ食べればいいのではなく、適切に組み合わせることで、より効果的に体の調子を整えられるの」


 いつの間にか手を止めて集まってきた料理人たちが、興味深そうに彼女の言葉に耳を傾ける。

 料理長は真剣な顔つきになりながら尋ねた。


「体を整える成分……それは一体、何なのでしょう?」


 料理長の質問に、ヒストリカはピンと指を立てて答えた。


「例えば、野菜や果物には、体の調子を整える『滋養成分』があるわ。肉や魚は体を作る力になるけど、それらを上手く働かせるためには、野菜や果物に含まれる成分が不可欠なの」


 貴族社会では、「滋養がある」という表現はよく使われるが、実際に栄養の種類について意識している者は少ない。

 ヒストリカの説明を聞きながら、料理人たちは新たな知識を得るかのように真剣に耳を傾けていた。


「それに、冷えた体を温める食材や、疲労回復を助けるものもあるわ。例えば、根菜類や一部の果物は体を温める作用があるため、エリク様のように冷えやすい体質の方には有効よ」

「なるほど……そんな考え方があるとは!」


 料理長が感嘆の声を上げた。


「初めての概念です。ヒストリカ様、すごいです!」


 厨房のあちこちから、感嘆の声が上がる。

 ヒストリカは少しだけ戸惑いながらも、冷静に頷いた。


「料理は味だけではなく、体に合ったものを作ることが重要よ。エリク様の体質に合わせた料理を考えて、負担にならないようにしてください」

「承知いたしました、ヒストリカ様! 早速、取り入れてみます!」


 料理長は力強く頷き、厨房の者たちも意気込んでいた。

 彼らにとって、これまでの貴族の食文化にはなかった新しい考え方に触れることは、料理人としての技術向上にも繋がるのだろう。


「ありがとう。それと、温かい飲み物をこまめに提供して。冷たいものばかりだと、喉を痛めてしまうから」

「かしこまりました!」


 ヒストリカは最後に厨房の様子を一通り見回した後、満足げに頷いた。


(これで、少しはエリク様の体調も改善されるはずです)


 エリクの健康管理は、仕事の負担を軽減するだけでは不十分だ。

 彼の身体を内側から整えることもまた、公爵夫人としての役目なのだと、ヒストリカは強く認識していた。


◇◇◇


 厨房での行動を終えたヒストリカは、次に使用人たちに目を向けた。

 先ほどハミルトンと話した通り、使用人たちと実際に掃除を敢行するためだ。


 とはいえ、ただ「掃除を徹底しなさい」と命じるだけでは意味がない。

 長年この屋敷で働いている使用人たちは、それぞれの持ち場で忙しく、気が回らなくなっている部分もあるのだろう。


 怠慢というよりは、単に意識が向いていないだけなのだ。  

 ならば、彼ら自身が「掃除を徹底しよう」と思えるようにすればいい。  


 ヒストリカはソフィを見つけるなり声をかけた。


「ソフィ」

「ヒストリカ様! どうされました?」

「使用人たちを集めてもらえるかしら」

「はい、すぐに!」


 ソフィは元気よく返事をし、廊下を駆けていった。


◇◇◇


 しばらくして、使用人たちが食堂に集まった。

 ヒストリカは静かに彼女らを見渡し、穏やかに口を開く。


「皆さん、お忙しいところをお集まりいただき、ありがとうございます」


 彼女の静かな声が広がると、使用人たちは少し緊張した面持ちで耳を傾けた。

 普段あまり接する機会のない公爵夫人が自ら話すとなれば、何事かと身構えるのも無理はない。


「私がこの屋敷に来てからしばらく経ちましたが、皆さんが日々、この屋敷を支えてくださっていることには感謝しています。公爵家がこうして成り立っているのも、皆さんの働きがあってこそです」


 ヒストリカがそう言って、深く頭を下げると、使用人たちは驚いたように目を丸くした。


 貴族の中でも高位にある公爵夫人が、使用人に対して礼を示すことは珍しい。

 使用人たちの間に、少なくない戸惑いが生じた。


「ですが、少し気になることがあります」


 ヒストリカの言葉に、場の空気が張り詰めた。


「例えば、廊下の隅にたまる埃、燭台のくすみ、カーテンに残る微細な汚れ……。これらはほんの些細なことですが、長く続けば積み重なり、屋敷の空気を悪くしてしまいます。エリク様が最近、頻繁に咳をされているのも、もしかするとこれが影響しているかもしれません」


 ヒストリカの指摘に、使用人たちは顔を見合わせ、次第に小さな声が上がり始める。


「確かに、最近ちょっと埃っぽいとは思ってたけど……」

「やることが多くて、手が回っていなかったわね……」


 気まずそうな声に対し、ヒストリカは後段権する。


「皆さんが怠けているとは思っていません」


 再びヒストリカに、使用人たちは顔を向けた。


「皆さんはそれぞれの仕事を懸命にこなしてくださっています。ただ、掃除のやり方を少し見直すだけで、もっと快適な環境を作れるのではないかと思うのです」


 ――頭ごなしに命令しても、人は動かない。

 それは、かつての婚約者であるハリーとの関係で痛感したことだった。


 人を動かすには、相手が納得し、自らの意思で行動しようと思えるように仕向けることが重要なのだ。

 ヒストリカは一度視線を巡らせた後、優しく微笑んだ。


「屋敷の掃除を、皆さんで協力しながら、より徹底して行いませんか?」


 その言葉に、使用人たちがどよめく。


「確かに……ヒストリカ様のおっしゃる通りだわ」

「エリク様の健康にも関わるなら、これは見過ごせませんね!」


 次々と前向きな声が上がる。

 それを確認しながら、ヒストリカはさらに言葉を重ねた。


「もちろん、私も協力します」


 一瞬の沈黙の後、使用人たちが驚愕した表情を浮かべた。


「ヒストリカ様が……!?」

「いけません、公爵夫人となられるお方が掃除など!」


 使用人たちは必死に止めようとするが、ヒストリカは静かに首を振る。


「いいえ。確かに私は公爵夫人ですが、この屋敷に暮らす者の一人でもあります。そして、私は自分の手で整えることが嫌いではありません」


 実際、エルランド家にいた頃から、彼女は屋敷の整理整頓を自ら行っていた。

 勉強に没頭する日々の中で、効率的に動くには自分で環境を整えるのが一番だったのだ。


「皆さんが日々忙しく働いていることは理解しています。だからこそ、今ここで、屋敷をより良い状態にするために、一緒に動きましょう」


 ヒストリカの落ち着いた声が響き、使用人たちは言葉を失った。

 しかし、その後、ぽつりぽつりと呟きが上がる。


「ヒストリカ様のお気持ち、ありがたく受け取ります」

「私たちも本気でやらないといけませんね!」


 こうして、屋敷の大掃除が始まった。


◇◇◇


 ヒストリカの呼びかけによって、屋敷の至るところで、使用人たちが掃除に取り組み始めた。 ヒストリカもまた、率先して動く。


 まず目についたのは、廊下に敷かれた分厚いカーペットに染みついていた長年の埃。


「うう……これはなかなか時間がかかりそうですね……」


 使用人たちは叩いて埃を落とそうとしていたが、それでは十分に汚れが取れない。


「叩くだけでは埃が舞うだけよ。まず、乾いた布をかけてから、ゆっくりと巻き取るようにして掃除してみて」

「は、はい!」

 ヒストリカの指示に従い、メイドたちは布を使って慎重に埃を絡め取りながら作業を進めた。


 舞い上がる埃が減り、廊下の空気が徐々に澄んでいった。


「す、すごいです! あっという間にとれていきます!」


 弾んだ声を上げる使用人を見届けた後、ヒストリカはくすみがこびりついた燭台や装飾品の銀細工に目を向けた。

「ここを磨くときは、布だけで拭くのではなく、少しだけ温めた水を含ませるといいわ。冷たいままだと汚れが取れにくいけれど、ぬるま湯を使えばすぐに落ちるはずよ」

「わかりました!」

 ヒストリカが手本を見せながら、温めた布で軽く拭う。


 すると、銀細工の表面があっという間に本来の輝きを取り戻した。

 窓の掃除に取り掛かる庭師たちにも指示を出す。

「窓を拭くときは、ただ水を使うだけじゃなく、少しだけレモンを加えた水を使うと良いわ。汚れが落ちやすくなるのと、曇りにくくなるから」

「おお、そんな方法が!」 

 試しにその方法で拭いてみる。

 すると、窓ガラスが今まで以上に透き通り、屋敷の中に柔らかい光が差し込んだ。


 庭師も興奮冷め止まぬ様子で、次々に窓をピカピカにしていった。

 ヒストリカは、使用人たちと手分けして屋敷の掃除を進める中で、ふと足を止めた。


 未だに静寂が満ちている執務室を思い浮かべる。


(エリク様の部屋も、掃除しないと)


 むしろエリクが多くの時間を過ごす場所こそ、清潔にしなければならない。


 彼の執務室は使い終えた書類が山積みにされたままのことも珍しくない。

 窓も長く開けられることが少なく、空気の入れ替えが不十分な状態が続いている。

 彼が頻繁に咳をしていたのも、おそらく部屋の環境が一因だろう。


(今なら……)


 エリクは一度深く眠ると、簡単には目を覚まさない。

 それを知っているヒストリカは、静かに執務室の扉を開け、中へと足を踏み入れた。

 

 ◇◇◇

 

 薄暗い室内で、エリクが静かに眠っていた。

 先ほどヒストリカがかけた膝掛けにくるまって、規則正しい寝息を立てている。

 体は完全に脱力し、深い眠りに落ちていることが一目で分かった。


 普段は仕事に追われ、常に気を張っている彼だが、今はまるで別人のように穏やかな表情を浮かべている。

 ヒストリカは静かに息を整え、掃除へと意識を向けた。


 まず目についたのは、窓辺に溜まった埃だ。

 長く換気が行われていなかったのか、カーテンの隙間から微細な塵が舞うのが見えた。


 ヒストリカは窓を静かに開き、新鮮な空気を取り込む。


(まずは空気の入れ替えからね)


 そう考えながら、彼女はすぐに手を動かした。

 机の上には、整理されていない書類の束が無造作に積まれていた。

 ヒストリカは慎重に書類を整理し、不要なものを分け、重要そうなものは一箇所にまとめる。


 次に、本棚に目を向けた。

 並べられた書物には、うっすらと埃が積もっている。

 一冊ずつ取り出し、表紙を丁寧に拭きながら、順番を整えていった。

 続けてヒストリカは使用人に必要な道具を持ってきてもらうと、布を使って優しく磨いていく。 やがて、部屋は見違えるような輝きを取り戻し、机の上は整然と片付いた。

 

 ◇◇◇

 

 作業を終え、室内を見回す。

 カーテン越しに入り込む月明かりが、綺麗になった床や書棚に優しく降り注いでいた。


 埃っぽかった空気はすっかり澄み、室内は清潔な静寂に包まれている。


(これで、少しは快適に過ごせるはず……)


 エリクは、まだ静かに眠っていた。

 ヒストリカはそっと彼の側へ歩み寄ると、寝顔を覗き込んだ。


 普段とは違う、無防備な彼の姿。静かな寝息が、規則正しく聞こえてくる。


 彼女はそっと手を伸ばし、金髪を優しく撫でた。柔らかく、さらりとした髪が指先を滑る。


 目を覚ます気配はない。

 ヒストリカは小さく息を吐き、彼の膝掛けを整えると、静かに執務室を後にした。


◇◇◇


 夜になる頃には、カーペットの色が一段と鮮やかになった。

 銀細工は眩い輝きを取り戻し、廊下には埃ひとつない清潔な空気が流れている。


「かなり綺麗になったわね」


 ヒストリカは満足げに息を吐いた。

 使用人たちも周囲を見回し、改めて掃除の成果を目にしていた。


「すごい……屋敷がまるで別の場所みたい……!」

「見違えましたね!」

「これまで何度も掃除していたはずなのに、こんなに綺麗になったことはなかったわ」


 使用人たちは感嘆の声を漏らしながら、誇らしげに顔を見合わせる。   

 彼女たちの表情には、ただの労働ではなく、自分たちの手で屋敷をより良くできたという達成感が宿っていた。


「さすがヒストリカ様ですね!」


 ソフィが駆け寄ってきて言う。


「あんなにみんなをやる気にさせて、屋敷を大変身させるなんて!」

「大したことはしてないわ」

 ヒストリカはさりげなく流そうとしたが、ソフィはじっと彼女を見つめた後、にやりと笑った。


「エリク様のためと思う力は流石ですね」

「……っ!」

 ヒストリカはわずかに肩を跳ねさせた。

 ソフィはその反応を見て、ソフィは悪戯っぽく笑う。

 ヒストリカは目をそらしながら、小さく息を吐いた。


「そ、そういうのじゃないわ。公爵夫人として、屋敷を整えるのは当然のことよ」

「そうですかぁ?」

 ソフィは笑いを抑えきれない様子で頷く。

 ヒストリカの胸の奥に生じた、「エリク様のためにしてあげたい」という気持ち。


 それを認めるのは、もう少し先になりそうだった。


「それはそうと……ヒストリカ様って、前より柔らかくなりましたよね?」

「……柔らかく?」

「ええ。昔のヒストリカ様だったら、もっと理論的に淡々と話していたと思うんです。でも今日は、使用人のみなさんがどうしたらやる気になるか、ちゃんと考えて話していましたよね」


 ヒストリカは少し驚き、それから考え込んだ。


「そう、ね……」

 確かに、昔の自分なら今回のようなやり方はしなかったはずだ。


 必要なことは端的に伝え、余計な感情を挟まずに指示を出す。

 曖昧な言い回しをするよりも、理論的に説明する方が効率的だと信じていた。


 しかし、それが人を動かす最善の方法であるとは限らないと、今では理解できる。

 かつての婚約者であったハリーとの関係も、その考え方が影響していた。


 彼に間違いを指摘する時、感情を交えず、理屈で正そうとした。

 だが、それは彼にとっては「見下されている」と感じさせるものだったのかもしれない。


 頭ごなしに押し付けられたと感じた時、人は反発する。

 今日、使用人たちに対してとった方法は、それとは違うやり方だった。


 ただ命じるのではなく、彼らの納得を引き出し、自分から動こうと思わせる。

 それができたのは……。


「エリク様のおかげですね!」


 ソフィが、ヒストリカの思考を先取りしたように言った。

「そう、かもしれないわね」


 ヒストリカは否定しなかった。

 彼のコミュニケーションの仕方は、自分とは正反対だ。


 相手の良いところを見つけ、認め、穏やかに話を進める。

 人に何かをさせる時も、押し付けるのではなく、自然とやる気を引き出してしまう。


 そういうところが彼の魅力であり、影響を受ける理由なのだろう。


(エリク様と過ごす中で……私も少しずつ、変わってきているのでしょうか)


 そっと胸に手を当てて、そんなことを考えるヒストリカであった。



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