第48話 眼精疲労のツボ
「おはようございます、エリク様。お着替えもせずに、書類とお戯れですか?」
ヒストリカの冷たい声が部屋に響く。
その言葉に、エリクは肩を縮こまらせた。
「いや、その……昨日の分がまだ片付いてなくて……」
悪戯がバレた子供のような言い訳を言葉を口にしながら、エリクは目元をこすった。
その動作だけでも、彼が溜め込んだ疲労の大きさが伺える。
ヒストリカは満点のため恨をつきながらも、まずは努めて穏やかな声で尋ねた。
「昨日の分……ということは、昨晩は仕事を途中で切り上げたのですね?」
「ああ、君に言われた通り、早めに休もうと……」
「ですが、結局は朝からこれですか。意味がありませんね」
穏やかな声は気がつくと鋭い刃に姿を変えている。
冷やかな指摘に、エリクは視線を逸らす。
確かに、ヒストリカの言う通りだった。
昨日の夜は早めに寝たものの、早朝に目覚めると気になってしまった。
結局ベッドを抜け出して書類の山に向かい、朝食も取らずにこの有様である。
「ま、まあでも! 大丈夫だよ! 今日はいつもより調子が良いし……」
取り繕うように言うエリクをヒストリカはジトッと見つめ、すらりと書類に手を伸ばした。
「これは、領地の財務報告書ですか?」
「……うん」
「何やら苦戦した跡があるのですが」
報告書には、エリクが何度も修正をして、まだ数字が確定していない痕跡があった。
悔しげな表情を浮かべてエリクは言う。
「実は、今月の収支バランスを確認していたんだけど、どうも数字が合わなくて……」
エリクの言葉を聞きながら、ヒストリカはさらりと視線を落とす。
内容を数秒間で把握した彼女は、静かに口を開いた。
「おそらく、商業税の計算方式が変わったことが影響していますね。収支報告の末尾に、税制改正の影響について但し書きがあります。これを考慮しないと、数字が食い違って見えるはずです」
「えっ……」
エリクは驚いたように書類の端を確認する。
確かに、そこには小さく但し書きがあった。彼の表情が少しく曇る。
「……こんな簡単な見落としをしていたなんて」
エリクは眉を寄せ、愕然と肩を落とした。
「やはり、疲れが溜まっているのでは?」
「……まぁ、少しな」
正直、少しどころではないだろう。
彼の目の周りにはうっすらと隈が浮かび、疲労の色が濃く刻まれている。
ヒストリカは静かに息を吐く。
(この仕事中毒っぷりは、ゆっくりと改善していなければなりませんね……)
初めてこの家に来た時のことをヒストリカは思い出す。
嫁いだ初日も、エリクは挨拶はそこそこにボロボロな体を引き摺って仕事をしようとしていた。
それだと効率が悪いし、身体を壊しかねないと、無理やり寝かせたのは良い思い出である。
その時よりは多少マシになったとはいえ、エリクの仕事に対する没頭ぶりは健在であった。
真面目で仕事熱心なのは良いことだが、それで床に伏せっては本丸転倒である。
(とりあえず、疲労を少しでも軽減させなければ……)
そう考えたヒストリカは、エリクのすぐそばまで歩み寄る。
そして何の前触れもなく、そっと彼のこめかみに指を添えた。
「えっ」
突然の感触に、エリクが小さく息を飲む。
「目の疲れには、ここを押すと良いのです」
ヒストリカの指先が、こめかみの少し上のツボを的確に押さえる。
優しく、それでいて適度な圧力を加えながら、ゆっくりと指を回すように動かした。
「ああっ……なにそれ……」
未知の感触に、エリクの肩からふっと力が抜けた。
「首の後ろの窪みの部分もツボです。ここを押すことで血流が改善され、眼精疲労が和らぎます」
ヒストリカの指が、今度は首筋の後ろにそっと触れる。
少しずつ指を押し当てると、エリクの体が僅かに震えた。
「くっ……」
「痛いですか?」
「……いや、気持ちいい」
気の抜けた言葉に、ヒストリカはふっと口元を緩ませた。
「何よりです」
ヒストリカは再び、ゆっくりと圧を加える。
エリクはすっかり身を委ねた様子で、静かに目を閉じた。
しばらくツボを押していると、エリクの瞳に心なしか光が戻った。
「ありがとう、ヒストリカ。おかげでかなり楽になったよ」
「お安い御用です。ちなみにですが、ご自身で押せる方法もあります。ここに親指を押し当てて……」
ヒストリカは首の後ろに手を当て、示すように指で押してみせる。
「それから天井を見上げるようにググッと上を見たら、勝手に親指がツボを刺激してくれます」
「こうか?」
「少しずれていますね」
ヒストリカはすかさずエリクの手を取った。
「失礼します」
そう言いながら、彼の親指を正しい位置に導くようにそっと動かす。
その瞬間、二人の距離がぐっと近づいた。
視線が交差する。
エリクの澄んだ瞳が、至近距離で見つめてきて、ヒストリカは思わず動きを止めた。
一瞬、時間が止まったような感覚。
ヒストリカはわずかに動揺したが、すぐにこほんと咳払いをして平静を取り繕う。
「……ここです」
あらためてツボを押すヒストリカ。
「あ、ああ……なるほど……確かに効く……な……」
エリクは上擦った声を上げながらも、首の後ろを押してから天井を見上げる。
その表情はどこか恍惚としていて、溜まった疲労が霧散していってるようだった。
「適度に休憩を挟みながらツボを押せば、少しは楽になるはずです」
「定期的にやってみるよ。本当に、ヒストリカはなんでも知ってるな」
「本で読んだので」
なんでもない風にヒストリカは言うが、彼女の頭脳には計り知れないほどの知識が眠っている。
ヒストリカの実家のエルランド子爵家は、高祖父の代に起こった戦争で隣国からここヒーデル王国に亡命してきた経緯を持つ。
ヒストリカの高祖父は医療国家であったエスパニア王国の高明な医者であった。
彼は亡命の際に大量の本や論文を持ち込んでおり、ヒストリカは両親の指示でその本を全て読み込んでいた。
そのためヒストリカは医療に関する膨大な知識を取得していたのだった。
「なんにせよ、一番良いのは適切に睡眠を取ることですけどね」
「うっ……気をつけます……」
「ともかく、少しでも楽になったのなら良かったです」
「うん、身体がかなり軽くなったよ。ありがとう、ヒストリカ」
エリクは心からの感謝を込めて言った。
その言葉に、ヒストリカは微かに頷いた。
「では、もう一つ提案があります」
「提案?」
「仕事を減らすのは難しいでしょうから、せめて、少しでも効率的に進めるための方法を考えませんか?」
ヒストリカは書類の山を指差しながら言った。
「例えば、不要な業務の洗い出し、簡単に処理できるものと、時間がかかるものを分類する。後回しにできるものは後に回し、今すぐ必要なものだけを優先的に処理するなど、既にやっている事も多いかもしれませんが」
エリクは苦笑しながら、痛いところをつかれたとばかりに肩をすくめた。
「余裕があるときはできていたけど……今は追い込まれていて、効率化まで頭が回っていないんだよな」
その言葉に、ヒストリカは小さく頷いた。
無計画に作業を進めても、結果的に時間を無駄にすることになる。
それは彼女も実家で領地経営に関わっていた経験から、よく理解していた。
「……君に手伝ってもらえるなら、心強いんだけどな」
「お手伝いしますよ」
即答だった。エリクは驚いたように彼女を見つめる。
「本当にいいのか?」
「もちろん。公爵夫人として、当然のことです」
それは義務としての言葉だった。
しかしヒストリカ自身、彼を放っておけないと思ったのも事実だった。
彼女はこれまで、自分の能力を積極的に活かそうとしたことはなかった。
女性が知識を持つことが軽んじられるこの国では、目立てば反感を買うだけで、実際に婚約破棄の原因にもなった。
だからこそ、過度に主張せず、必要最低限の範囲で能力を発揮することが最善だと考えてきた。
しかし、エリクは違う。彼は彼女の知識、行動を否定しない。むしろ頼りにする。
だからこそ、手を差し伸べることに、ためらいはなかった。
エリクの表情が柔らぐ。
「……ありがとう」
ヒストリカはエリクの肩から少し力が抜けたのを感じた。
ツボ押しの効果か、それとも彼女の言葉が安心を与えたのか。
いずれにしても、エリクが少しでも楽になるのであれば、それでいい。
「では、まずは書類の仕分けから始めましょう。……エリク様?」
ヒストリカが声をかけると、エリクはぼんやりと目を瞬かせ、僅かに頭を振った。
「……ああ、悪い。少し眠くなってきた」
そう言いながら、エリクは片手で目元を擦る。
「であれば、休息を取るべきですね」
「いや、でも……寝てしまったら集中力を戻すのに時間が……」
「何も深く眠る必要はないです。仮眠……いえ、目を閉じるだけで構いません」
ヒストリカの静かな声が、エリクの言葉を遮った。
彼女は書類を整えながら、理知的な口調で説明を続ける。
「人間の脳は、目で見る情報の処理に莫大なエネルギーを消費します。研究によれば、脳の情報処理のうち約八割が視覚に関連しているそうです。そのため、目を閉じるだけでも、脳への負担は大きく軽減されりんです」
エリクは眠気を堪えながら、彼女の言葉に耳を傾ける。
「つまり、仮に寝なくても、目を閉じるだけで脳の疲労回復には効果があるということです」
「なるほど……そういうものなのか」
「はい。特に、十五分ほどの短時間の仮眠は、脳の記憶定着を助け、集中力を回復させる効果があります」
ヒストリカはそう言って、エリクをじっと見ながら言葉を続ける。
「今のあなたは、効率を考える余裕もないほどに疲れ切っています。これ以上無理に作業を続けても、判断を誤るだけです」
ヒストリカの冷静な分析に、エリクは苦笑しながら天を仰いだ。
「……そう言われると、ぐうの音も出ないな」
エリクは苦笑を浮かべつつも、結局、素直に椅子の背もたれに体を預けた。
「……じゃあ、少しだけ」
「はい。その間、邪魔はしませんので」
ヒストリカは、彼がリラックスできるよう、音を立てぬようにゆっくりと席を立ち、室内のカーテンを調整した。
強すぎた朝の光を和らげると、室内の雰囲気は少し穏やかになる。
エリクは目を閉じ、深く息を吐いた。
「君がこうしてそばにいると、妙に安心するな」
「……そうですか」
エリクは微かに笑いながら、体の力を抜いた。
そのまま、エリクの呼吸が少しずつ深くなっていく。
ヒストリカは、机に積まれた書類をちらりと見た。
彼の能力と、断りきれないその人柄ゆえに溜まった膨大な仕事量。
しかし、それをこなすために、エリクが健康を損なってしまっては本末転倒だ。
(この人が無茶をしないよう、しっかりと見守らなければ)
そんな決意を胸をにするヒストリカであった。




