二人の世界征服
「ふふ、なにそれ。誤魔化すの下手くそ」
高原さんはくすりと笑い、グラスの結露を指先でなぞった。
「でも、いいよ。デブくんが『ただのデブ』でいたいなら、あたしもそう思っとく」
「うん。それが一番いいと思うな」
ぼくはヘラヘラと笑いながら、氷の溶けたジンジャーエールを一口飲んだ。冷たい液体が喉を通る感覚が、暴れそうになる胸の奥の不気味なパワーを静めてくれる気がした。
世界を滅ぼせる力。
そんな大層なもの、ぼくには似合わない。
ぼくに必要なのは、みんなをクスッと笑わせる下手くそなベースの重低音と、カブのエンジン音と、たまに食べるラーメンの特盛だけだ。
「あ、そうだ」
高原さんがバッグから、小さなノートを取り出した。五線譜が引かれた歌詞ノートだ。
「曲、作ってきたんだ。まだメロディだけだけど……聴いてみる?」
「えっ、もう!? すごいな高原さん」
「麻梨乃でいいよ」
「え?」
「『高原さん』って固いじゃん。バンドメンバーなんだから」
麻梨乃さん。
いや、麻梨乃。
……だめだ、心の中で呼ぶだけで心臓が破裂しそうだ。
「ま、麻梨乃ちゃん……でいい?」
「……まあ、デブくんならいいや」
麻梨乃は少し照れくさそうに目をそらすと、スマホを取り出してイヤホンをぼくに差し出してきた。片方を麻梨乃が、もう片方をぼくが耳に装着する。
再生ボタンが押されると、アコースティックギターの切ないコード進行と、彼女のハミングが流れてきた。
——すさまじく、綺麗な旋律だった。
孤独を知っている人にしか作れない、静かで、でも温かい音。
ぼくの超能力なんて足元にも及ばないような、本物の「世界を変える力」が、その小さなイヤホンの中に詰まっていた。
「……すごいよ、麻梨乃ちゃん」
ぼくは心から感嘆の声を漏らした。
「めちゃくちゃいい。ぼくらのバンドにはもったいないくらいだ」
「でしょ? だからさ……あたしのこの歌、デブくんのベースで支えてよ」
麻梨乃が真っ直ぐにぼくを見つめてくる。
その瞳には、かつての冷めた一匹狼の影はなかった。ほんの少し不安そうで、でも確かな期待に満ちた、一人の女の子の瞳だった。
「……うん。任せてよ。練習、死ぬほど頑張るから」
ぼくが力強く頷いた、その時だった。
カランコロン、と喫茶店のドアが開いた。
入ってきたのは、数人の男たち。黒い革ジャンを着た、いかにもガラ行儀の悪そうな集団だ。その中心にいた人物の顔を見て、ぼくの血の気が引いた。
葛尾くんだ。
大学の軽音サークルで圧倒的な人気を誇るバンドのボーカル。そしてクリスマスに、麻梨乃を強引に自分のバンドに引き込もうとして、ぼくに邪魔された男。
「……チッ、やっぱりここにいやがったか」
葛尾は取り巻きを引き連れて、まっすぐぼくたちのテーブルへと歩み寄ってきた。店内の空気が一瞬で凍りつく。
「探したぜ、高原。……なんで電話突っぱねて、こんな豚野郎と茶しばいてんだよ」
「葛尾……」
麻梨乃の顔から笑みが消え、冷たい一匹狼の表情に戻る。
「あたしの勝手でしょ。電話はもう掛けてこないでって言ったはずだけど」
「はっ、冗談だろ? 俺たちのバンドを蹴って、こんな素人以下のデブとバンド組むだと? 笑わせんなよ!」
葛尾はドカッとぼくたちの隣のテーブルに腰掛け、大きな音を立てて足を放り出した。
「おいデブ。お前、高原に何か吹き込んだだろ。身の程を知れよ。お前みたいな出来損ないが、高原の隣に立っていいわけねえだろ」
店内の客たちが怯えたようにぼくたちを見ている。マスターも奥でオドオドと電話機を握りしめていた。
ぼくは、下を向いた。
頭を下げて、ただ嵐が去るのを待とうとした。
いつものことだ。バカにされるのには慣れている。ぼくがニコニコ笑って「すみませ〜ん」と言えば、だいたいの場は収まる。それで誰も傷つかないなら、ぼくのプライドなんてどうだっていい。
「ねえ、葛尾」
麻梨乃が静かに立ち上がった。
「やめて。デブくんは関係ない。あたしが自分で決めたことだから」
「うるせえな! 高原、お前マジで頭おかしくなったんじゃねえの? こんな奴のどこがいいんだよ! 金か? それとも……」
葛尾がニヤリと嫌な笑みを浮かべ、麻梨乃の肩に手を伸ばした。
「この豚に、なんか弱みでも握られてんのか?」
麻梨乃がその手を振り払おうとした。
しかし、葛尾の力に押され、麻梨乃の体がグラリと揺れた。
彼女の肘が、テーブルの上のコーヒーカップに当たる。
ガシャン。
熱いコーヒーが、麻梨乃の白いニットの袖に広がった。
「あつっ……!」
麻梨乃が小さな悲鳴を上げる。
「おぉ、わるい。手が滑った」
葛尾は反省する様子もなく、へらへらと笑った。
「ほら見ろ、こんな狭い店でゴチャゴチャやってるからだ。高原、さっさと俺と来いって——」
葛尾の言葉は、最後まで続かなかった。
ピキッ。
小さな、ガラスの割れるような音が響いた。
葛尾が「え?」と声を漏らす。
喫茶店の中のすべての音が、完全に消失した。
エアコンの送風音も、街の喧騒も、マスターの息遣いすらも。
「……あ」
ぼくは、自分の手元を見た。
握りしめていたジンジャーエールのグラスが、分子レベルで分解され、サラサラとした光の粉となって消えていくところだった。
空間が、歪んでいる。
ぼくを中心に、重力が狂い始めていた。
テーブルの上のスプーンやフォークが、静かに空中へ浮き上がる。
葛尾たちの表情が、嘲笑から絶望的な恐怖へと一瞬で塗り替えられた。彼らは声すら出せない。全身の毛穴から冷や汗を噴き出し、ガタガタと震えている。
死だ。
本能が、圧倒的な「終わりの存在」を理解したのだ。
ぼくの胸の奥で、カチリと何かが外れた。
『……ああ、ダメだ』
ぼくは、みんなを愛してる。
争いなんて嫌いだ。
世界を平和に、楽しく生きていたい。
でも。
ぼくの目の前で。
麻梨乃が、熱がって、悲しそうな顔をしている。
ただそれだけのことが。
ぼくの中の「絶対に開けてはいけない箱」を、簡単にぶち破ってしまった。
視界が真っ赤に染まる。
ぼくが本気で「消えろ」と願えば、葛尾たちだけじゃない。この街も、この国も、この地球に存在するすべての物質が、一瞬で原子の塵となる。
『ダメだ、抑えなきゃ……抑えなきゃ……!』
能力が暴走し、店内全体の空気が異常な高熱を帯び始める。
窓ガラスに亀裂が入り、天井からパラパラと粉塵が落ちてくる。
その時。
ぎゅっ。
温かいものが、ぼくの右手に触れた。
「……デブくん」
声が聞こえた。
震えているけれど、しっかりとぼくを呼び止める声。
見上げると、麻梨乃がぼくの手を両手で強く握りしめていた。
彼女の袖はコーヒーで汚れていて、体は恐怖で震えている。ぼくから漏れ出す恐ろしい圧力に、押し潰されそうになりながら。
それでも彼女は、逃げずにぼくの目を見ていた。
「大丈夫だから」
麻梨乃は、必死に微笑もうとしていた。
「あたし、平気だから。……ね?」
その温もりと、言葉。
ぼくの暴走しかけていた心が、すーっと冷えていくのが分かった。
宙に浮いていたスプーンたちが、カチャンと静かにテーブルに落ちる。
歪んでいた空間が元に戻り、途絶えていた周囲の音が、一気に戻ってきた。
「ハッ……! ガハッ……!」
葛尾たちは酸素を求めて狂ったように喘ぎ、床にへたり込んだ。
何が起きたのか理解できていない。ただ、死の恐怖だけが彼らの脳に刻み込まれていた。
「ヒッ……ひぃいっ!」
葛尾は腰を抜かしたまま、必死に後ずさりし、逃げるように店の外へ飛び出していった。取り巻きたちも、言葉にならない悲鳴を上げながらそれに続いた。
静寂が戻った喫茶店。
ぼくは慌てて麻梨乃の手を離し、深々と頭を下げた。
「ご、ごめんなさい! 火傷……大丈夫!?」
おしぼりを手に取り、彼女の袖を拭こうとする。手が震えて、うまく力が入らない。
やっぱりぼくは化け物だ。
こんな力を持っていて、一瞬でも「消してしまいたい」と思ってしまった。
麻梨乃にも、きっと気味悪がられた。嫌われた。もう二度と、会ってくれないかもしれない。
絶望に打ちひしがれるぼくに、頭の上から声が降ってきた。
「……やっぱり」
「え?」
ぼくが顔を上げると、麻梨乃は自分の汚れた袖を見つめた後、ふっと優しく笑った。
「やっぱり、助けてくれた」
「麻梨乃ちゃん……?」
「デブくんはさ、『どうもしない』なんて嘘ついたでしょ」
麻梨乃は椅子に座り直し、冷めたコーヒーを一口飲んだ。そして、少しだけ意地悪そうな、でも飛び切り愛おしい笑顔でぼくを見た。
「あたしが傷つきそうになったら、ちゃんとおこるじゃん」
「それは……その……」
言い訳を探すぼくに、麻梨乃はノートを開いてペンを走らせた。
「よし、決まり。バンドの名前は『世界征服』ね」
「えぇ!? ダサいし物騒だよ!?」
「いいの。あたしたちで、この退屈な世界を征服するの。……音でね」
そう言って笑う彼女を見て、ぼくは涙が出そうになった。
ぼくの異常さを知っても、彼女は逃げなかった。
ぼくを「ただのデブ」として、そして「大切な仲間」として、ここに置いてくれた。
「……うん。世界征服、しよう」
ぼくは鼻をすすりながら、満面の笑みで頷いた。
世界を滅ぼす超能力なんて、いらない。
ぼくには今、この下手くそで、愛おしくて、最高のバンドがあればいい。
スーパーカブのエンジン音みたいに頼りない、ぼくたちの青春が、ここから始まりを告げようとしていた。




