お金について① ~世の中、やっぱり『銭』が一番!~
よう、ようっ!
今回のお話は『お金』らしいじゃねえか!
銭と言えば、俺の番だろ!
俺は誰かって!?
そんな野暮なことを聞く奴には『びた一文』くれてやんねえからな!
俺は呂宋 助左衛門。
まあ戦国時代の一商人ってとこだ。
ルソン(現在のフィリピン)から「便器の壺」を持ち帰って、太閤に「貴重な壺」と偽って献上したら、大目玉を食ったって話は有名だよな。
あははっ! あん時の太閤の顔と言ったら、今でも忘れられねえな。
「やっぱり高貴な壺というのは『香り』が違うのう」
とか言ってたけ! あははっ!
……って、長い前置きはさておき。
じゃあ、早速行くぜ!
まずはさっきの『びた一文』って話からしようじゃねえか。
(1)戦国時代の貨幣の歴史
街道や運搬能力の向上、さらに武士らによる治安維持によって、室町時代は『流通』が急速に発展したのよ。
俺たち商人が大活躍を始めたのもこの頃だな。
古代から「物と物の交換」が基本だった訳だが、売り買いが盛んになるとそういう訳にもいかねえ。
そこで『貨幣』が誕生する。
そして、鎌倉時代以降で、よく使われたのが『硬貨』。
特に『宋銭』と呼ばれる、昔の唐(中国)から仕入れた銅で作られた『銅銭』がよく利用されていたのさ。
しかし唐の王朝が明に代わったことで、『永楽通宝』と呼ばれる新しい硬貨が日本にも入ってくるようになった。
それに加えて、『宋銭』の偽物まで作られるようになる始末……。
偽物の『宋銭』は、『びた銭(鐚銭)』って呼ばれてたんだぜ。
そう、この『びた銭』こそ『びた一文』の語源ってことだ。
俺たちとしては、『びた銭』と『宋銭』を同じ価値として扱う訳にはいかねえ。
そして明の新しい硬貨である『永楽通宝』も俺たちの間ではどのくらいの価値で扱ったらいいか、知れたもんじゃねえ。
だから俺たちは『びた銭』や『永楽通宝』を嫌ったわけだ。
支払いの中に『びた銭』や『永楽通宝』が入っていないか確認する。
もしそれらが含まれてたら……。
――やいっ! てめえ! びた銭が入ってるじゃねえか! 俺をだまそうとしたな!
――びた一文くれえで、がたがた言ってんじゃないよ! これだからさかひ(堺)のもんはケチくさくてなんねえな!
――なんだとぉ!!
といういざこざが日常茶飯事となっちまったのさ。
そして唐じゃあ『宋銭』がもう作られていねえって話じゃねえか!
しかも日本への輸出を制限してやがる!
『宋銭』が足りなくなってくると、ますます『びた銭』や『永楽通宝』を紛れ込ませてくる奴らが増えてきた。
そうなりゃ、俺たちだって厳しく支払われた硬貨を一枚一枚確認するしかねえ。
このように商人が支払われる硬貨を選別することを『撰銭』と呼んだ。
しかしこの『撰銭』は時間がかかってなんねえ。
そうなると物の売り買い自体が、めちゃくちゃ時間を食う羽目になっちまった。
さらに、悪どいことを思いつく奴ってのは、どの時代にもいるもんだな。
戦国大名の中には劣悪な『びた銭』を海外から大量に仕入れる奴が出てきたのさ。
そして奴らは大量の『びた銭』を抱えたところでこう言ったのだ。
――これからは『撰銭』を禁じる!! がはははっ!
なんと!
『宋銭』も『びた銭』も同じ価値で扱えって命令してきやがった!
これを『撰銭令』と呼んだ。
特にひでえのは『大内』とかいう九州と中国をまたにかけた大名よ。
――庶民が『撰銭』をするのはダメ! ただしわしに納める年貢は『撰銭』して、『宋銭』だけを納めよ!!
あの野郎!
滅んでしまえ!!
……と福岡商人たちが呪詛していたら、見事に下剋上で滅ぼされちまった。
ざまあみろってんだ!
こうして『撰銭』と『撰銭令』は俺たち商人にとって、頭の痛い悩みとなっていった訳だ。
そこで立ちあがったのが『織田信長』公って御方よ!
えっ? 信長公のことなら、よく知ってるって!?
はははっ! それなら話は早えや!
信長公が行ったのは『びた銭』の価値を七段階に分けて、それぞれ『宋銭』との交換相場を決めてくれたのさ。
この相場は信長公が御亡くなりになってからも続けられた。
そして『びた銭』の中でも『京銭』と呼ばれたものが、最終的には『宋銭』に代わって、徳川様の時代では基準の通貨として使われるようになったのさ。
しかし、『宋銭』はこれ以上増えない替わりに、『びた銭』は増える一方。
そうなってくると『銅銭』を貨幣とするのは限界が生じてきた。
そこで登場するのが『米』さ。
そう、あの食べる『お米』!
その『お米』が貨幣として使われるようになっていくんだ。
もちろん『お米』で買い物ができるって仕組みじゃねえぞ。
『お米』で硬貨の価値を測ろうってわけさ。
よくよく考えてみれば『お米』なら農民たちが自分で作れる。
つまり日本全国が『貨幣工場』となれるわけだ。
さらに偽造のしようがない。
いざとなれば人の命をつなぐ食料にもなる。
これほどまでに都合のよい『貨幣』はねえ。
そう考えたのは『豊臣秀吉』って農民の出の御方さ! 世間じゃ『太閤』って呼ばれているんだぜ!
ええっ!? 太閤も知ってるって!?
そいつは都合がいい!
太閤が行ったのは、それまで一般的だった『貫高制』という『通貨で土地の価値を表す』から『石高制』と呼ばれる『米の収穫量で土地の価値を表す』というもの。
つまり物の価値の基準を『米』として、年貢も武士の給料ももすべて『びた銭』が混じった『硬貨』ではなく、偽造のしようがない『米』で支払われたってことだ。
しつこいようだが、『米』で買い物ができたってことはねえぞ!
あくまで買い物は『硬貨』で行われていたが、『米』が貨幣代わりに使われたってことになるな。
まあ、その後の時代のことは俺にはよく分からねえが、『徳川家康』って御方の時代になると、なんでも日本国内で硬貨を作れるようになるっていうから驚きじゃねえか!
しかも『宋銭』や『永楽通宝』のような『銅銭』だけじゃなくて、『銀貨』や『金貨』も作られた。
そして『金』『銀』『銅』で作られた貨幣は『お米』を基準として価値が決められて、交換取引が行われるようになるそうだ。
『銀貨』を鋳造する場所は『銀座』。
『金貨』を鋳造する場所は『金座』なんて呼ばれるんだとよ。
えっ!?
『銀座』なら知ってるって?
高級なお店が並ぶ街なのかい?
へぇ、そいつは一度拝んでみてみたいものだねぇ。
最後になるが、徳川様の世も250年もすれば、『金貨』と『銀貨』の交換相場が日本と外国では大きく違ってしまう。
つまり大量の『金』が異国に流れるきっかけとなっちまうんだ。
それを可能にするために諸外国が『鎖国』を解くように江戸幕府に強い圧力をかけてくるのさ。
そして異国との貿易のいざこざが発端で、『明治維新』なる新たな世作りが始まるらしいじゃねえか。
やっぱり世の中『銭』で動くっちゅうのは、どの時代も変わらないものなんだねぇ。
今回はこの辺で終いにしようじゃねえか。
次回は『びた一文』はどれくらいの価値なのか、っつうのを見てみようぜ!




