最終話 ハッピー・エンド
楽しい時間というのは、得てして過ぎ去るのが早い。
会心の出来とは口が裂けても言えない感想文を提出した僕たちは、文芸部の行く末を案じながらも、一月ばかり、穏やかな時を過ごしていた。
休みの日にはデートに繰り出した。手を繋いで歩いて、喫茶店で休憩して。
たまにセックスもした。相変わらず実代はそういうときだけ、妙に恥じらった。
キスは、あまりしなかったかもしれない。お互いが傍にいるということだけで、心が安らいだので、それ以上を求めなかったのかもしれない。
恋人という存在が、万人にとって同じとは思えない。それでも、僕たちは世間一般と同じことをしながらも、明らかに違うように思っていた。
ドキドキなんてしない。切なかったり、強く会いたいと願ったりもしない。ただ、穏やかな日常の象徴として、相手がいるだけだった。
だが、そんな日常が続くかと言われれば、そうではなかった。諸行無常というのは仏教の言葉らしいが、なるほど、中々言い得て妙である。全てのものは、変わらずにはいられない。
「残念だけど……廃部が決定したわ」
吉野先生に呼び出されたのは、五月も終わりを迎えようとした、暖かい日のことだった。
半ば覚悟を決めていただけに、驚きは少なかった。それでも、最高にして唯一の読書の場を奪われるのだと思うと、ショックは大きい。
「会議では色々揉めたみたいだけど、最後は不破君――生徒会長が、潔く廃部にしてしまおうって言ったらしいわ。彼の所為ではないけどね。他の部を納得させるには、それしかなかったんでしょう」
なるほど、不破らしい。公私を混同せずに、正しい判断を下したわけだ。不破を恨むつもりは毛頭ない。他の部の人間達もだ。彼らは実に真っ当な正論を述べたに過ぎない。
この先、どこで本を読もうかと考えながら、僕は吉野先生に一礼して、その場を去った。
「やはり、無理だったか」
実代の反応は、淡々としたものだった。彼女も僕と同じで、覚悟をしていたのだろう。ショックは大きいだろうが、それを敢えて表情に出すつもりはないようだ。
「やれやれ。どこで、本を読めばいいのだろうな」
実代は苦笑して、部室に備え付けられてある本棚を見渡した。考えていることが、本当に全部同じに思えて、僕もつられて苦笑いで返してしまった。
「誠二は、家は兄弟がうるさいのだったな。喫茶店に行く金も無く、図書館は落ち着かない上に遠い。世知辛いとはこのことか」
「そういえば、実代はどうして家で本を読まないの?」
実代の家には、一度行ったことがある。落ち着いて本を読めそうな部屋だという印象があったのだが。
「確かに、姦しい兄弟はいないがな。両親の喧嘩が絶えなくて、おちおちと読書なんてできないさ」
「初耳だね」
僕の家は、基本的にとてもうるさいが、それも家族仲がいいから、うるさくできるのだ。喧嘩も時折するが、お互いに仲が良いとわかっているからこそできるような喧嘩だ。
「家族仲が悪いわけではないさ。喧嘩は親にとって、コミュニケーションの手段であって、それ以外の何物でもない。私もそれとわかっているから放置しているが、如何せんうるさくて敵わない」
結局、僕たちはとことん似たもの同士なのだろう。喧嘩がコミュニケーションツールとして役立つというのは、中々興味深いが、実代が気にしていないならば、敢えて僕がそれを心配する必要もない。
「そんなことよりも、これからどうなるのだろうな。よもや、文芸部が潰れたからと言って、私たちの関係も潰そうなどとは思わないが、正直なところ、この場所で誠二とのんびりとするのが、何よりも楽しい。思い出の場所にするのは、卒業してからにしたいのだが」
「うん。卒業したら、幾らでも方法はあるんだけどねえ」
「ほう。あるのか?」
「大学に進学するつもりだけど、ちょっと遠いんだ。下宿しようと思うんだけど、そこならば誰にも邪魔されずに、理想の環境を作れると思うからね。実代も一緒に住むかい?」
「それはいいな。そういう未来があるならば、ここからの二年ぐらいならば、我慢もできるかもしれん」
起こるかもわからない未来について語らうのは、楽しかった。
実代と一緒に生活をする。一緒に登校して、サークルにも入らず、帰ってきたら読書をして、僕が作る美味しくない晩御飯を食べて、のんびりと語らう。まさか、同居をお互いの両親が許すとも思えないが、いつかそんな生活が出来ればと、心から願ってしまう。
「それでも、やはりこの場所は惜しい。二年は、きっと長いのだろうな」
「本さえ読めれば、あっという間なんだろうけどね」
僕たちは苦笑してから、最後になるかもしれない文芸部での穏やかな時間を過ごした。
生徒会からの正式な通告があったのは、翌日だった。
放課後、部長である僕と、副部長の実代が生徒会室に呼ばれた。対応したのは、生徒会長の不破だけだった。
「いや、すまないね。他の者は皆、出払っていてな。もうすぐ体育祭があるので、僕一人で説明させてもらうよ」
不破はいつもと変わらぬ調子で僕たちにソファに座るように言い、向かい合う形で自分も座った。
「今回のことは、残念だった。僕自身が最終的な決断をしたので、僕がそういうのも、少々おかしい気もするけどね」
「なに、生徒会長の決断は、生徒の総意だろう。君を恨む道理はないさ。それに、残念だと言ったのも、本当なのだろう。憎めないセリフを言うものだ」
実代が不敵に笑う。不破はやれやれと肩を竦めて、コホンと咳払いをひとつした。
「僕個人としては、文芸部は存続させたかったのだがね。他の部からの反発が強すぎた。本日を以て、文芸部は廃部となり、以後、あの部室は資料室として、図書室に入りきらない本を格納する場所にすることにした。幸い、本棚などの備品は揃っているからね」
あの場所に、本があるだけでも救いになる。というところだろうか。改めて廃部だと言われると、急に現実味を帯びてきて、僕は自然と肩を落とした。実代も隣で、大きな溜息をつく。
「どうにもならんか?」
「どうにもならないね。これは決定したことだ。文芸同好会を設立するならば、相談には乗るがね。部室を使うことはできないが」
「部室があったから、入部したわけだしね。同好会を作る理由がないさ」
申し出を断ると、口から自然に溜息が漏れた。
もう、あの部室で本を読むことは出来ない。あの場所で、実代と語らうことが出来ない。
もう、あの穏やかな時間は、帰ってこないのだ。
失うことの辛さは、かつて実代と別れを決意したときに味わっている。実代を見ると、じっと俯いて、何かに耐えるように拳を握りしめていた。その様子を眺めていると、不意に涙がこぼれた。
「鷹成、泣くことはないだろう。君と雪吹さんが別れるわけでもあるまいに。ただ、文芸部が潰れただけだ」
不破の言葉に、実代が物凄い勢いで立ち上がり、不破の胸ぐらを掴んだ。
「お前に何がわかる。あの場所が、私たちにとってどれほど大事なものか、お前にはわからないだろうが!」
実代が声を荒げるのを、はじめて見た。
目をつり上げて、今にも不破を殴り飛ばそうとしているかのような怒気を孕んで。
「わからんさ。君たちが恋愛感情をうまく捉えられないように、僕にも文芸部にこだわる理由がわからない」
不破は冷静な声で言い、実代の手をゆっくりと解く。それから、不意にニヤリと笑い、僕を見た。
「まだ話は終わっていない。話半ばで感情的になるなど、君たちらしくもないな」
「……どういう意味?」
「言葉通りさ。雪吹さん。鷹成に対する想いの強さも、文芸部への執着もよくわかったから、座ってくれないか」
不破の言葉に、実代は釈然としない様子ながらも、再び僕の隣に腰を降ろした。まだ怒りは収まらないのだろう。不破を睨み付けたままだった。そんな実代を気にした素振りもなく、不破は淡々とした様子で言葉を続けた。
「いいかい。ここから先は僕からの――いや、生徒会長としての僕からの提案なのだけどね。資料室を作成するにあたって、管理する人間が必要になるんだ。まさか司書をもう一人雇うわけにいかないし、出来れば、生徒にその権限を持ってもらいたいと思っている」
思わず、僕と実代は不破の顔を見上げた。
「生徒会の人間が務めてもいいのだが、ご覧の通り、僕以外は出払っているというこの状況だ。会長の僕が留守にするわけにはいかないし、かと言って人員を割くほど暇でもない。それに、本を扱うわけだから、本を愛している人間のほうが都合が良い」
実代が、不敵な笑みを浮かべるのがわかった。そして、このときばかりは僕も、実代と同じようにニヤリと笑ってしまった。
「後は、言わなくてもわかるだろう。元・文芸部の部長と副部長。今はその任を無くしたが、あの部屋をよく知っているし、これ以上ない人選だと自負している。本人達の了承さえあれば、すぐにでも任命したいと思っているのだが」
不破はそれだけ言って、やれやれと溜息をついた。
文芸部は潰れる。しかし、僕と実代は再び、あの部室にいても良い。そんな状況が生まれるなんて、ちっとも想像していなかった。
「不破……君ってヤツは……」
「怒って損をした。まったく、意地が悪いのに人が良いとは、ややこしい男め」
「きちんと流れ通りに説明しただけさ。それで、鷹成君と雪吹さん。資料室の管理のほう、お願いできるかな?」
不破の問いかけに、僕と実代はお互いの顔を見た。実代は相変わらず、不敵に微笑んでいる。僕もきっと、いつも通りの顔をしているのだろう。そして、答える必要すら感じない回答を、僕たちは言う。
「不破の頼みだしね。謹んで引き受けるよ」
「そういうことだ。生徒会長の頼みとあらば、致し方ない」
「……快諾してくれて嬉しいよ」
やれやれと肩を竦める不破に、僕たちはもうどうしようもなく嬉しくなり、そのまま飛びついてしまった。
それから、一週間ほどは少々大変だった。
僕と実代はいつの間にか生徒会役員という肩書きを与えられ、資料室管理という役割を言い渡された。
図書室の蔵書が飽和状態というのも本当で、本を大量に移動して、虫干しをしたり、分野別に分けたりと、比較的真っ当な仕事をさせられた。
それでも、いざそれが終わってしまうと、後は普段と変わらない。
少々手狭になってしまったが、ソファとコーヒーのドリッパーはある。ラジカセもこっそり流している。資料室というのは名目だけで、実際は普段から読まれない本を格納しておく場所なので、蔵書を探して人がやってくるなど、滅多にない。
つまり、本当に名目だけが変わって、やっていることはちっとも変わらないというわけで。
「実代。図書室から来た本だけどさ。面白のいっぱいあるよ。古いからってバカにできないね」
「ふむ。折角だから、片っ端から読み尽くすとするか。二年は長いと思ったが。中々に短くなりそうだ」
僕たちも相変わらず、文芸部室改め資料室で、穏やかな時を過ごしている。
「しかし、流石にここではもう、良俗に反する行為はできんな。鍵を閉めるわけにもいかんし。不破のやつめ、何が忙しくて人員が割けないだ。しょっちゅう顔を出してはコーヒーを呑んでいく。おいそれとキスもできん」
「まあ、いいんじゃないかな。不破の持ってくる本、けっこう実代も気に入ってるみたいだし。それに、別にこの場所でする必要もないさ。二年も待てば、飽きるほどできると思うよ?」
僕たちは、きっとこれからもずっと一緒だ。確証は無いし、恋人同士の絆は得てして壊れやすいと聞く。それでも、一緒にありたいと願うのが、恋人たる所以だろう。
「そう言えば、両親に同棲の許可をもらったぞ」
「……そういうのは、普通言わないと思うんだけど」
実代もやはり、考えていることは同じのようだ。この先に、僕たちが別れることなんて、幾らでも考えられるはずなのに、そんなことは構いやしない。
「いい加減に恋人ぐらい作れと言われたからな。思わず将来を誓った男がいると返してしまった。大学からでも同棲したいほどに、と付け加えてな」
「将来を誓うって……まあ、語弊がありすぎるけど。それもいいね」
今、僕たちは恋愛という感情を胸に抱いている。
思いつきのような未来予想図ですら、現実にできてしまいそうなほど、恋をしている。
「さぞかし怒られるだろうと踏んでいたが、あの親は娘を一体、何だと思っている。手を叩いて喜ばれた。あろうことか、娘がようやく女らしくなってきたとさえ言われた」
「順風満帆ってやつじゃないかな。僕の両親も最近、僕に恋人が出来たって気付いたみたいでね。家が狭いから、彼女と同棲してでも、大学生になったら下宿しろだってさ」
もし、これが物語であれば、やはり肺炎に罹っている。
今ならばきっと、僕たちは窓を開け放って、世界に向けて愛していると言えるだろう。
僕たち自身は、はしかに罹り。物語は肺炎に罹り。病人ばかりのこの場所から、臆面もなく愛を叫ぶことができる。
「ふむ。そう考えると、やはり二年は長いな」
愛を叫ぼう。狂おしくなくて良い。ただ、隣にいるだけの幸せを。
「長いほうがいいよ。この場所で、実代と一緒に過ごせるなら、長いに越したことはない」
この曖昧で朧気だけど、安心できる存在を。
「……本当に、誠二は不思議だ。これだと、長くても短くても幸せじゃないか」
僕たちがみつけたものを。
「まさか、今から言う言葉を、口にする日がくるとは思っていなかった」
ただ、世界に向けて言うよりも、まずは目の前の恋人に。
「ほう。どんな言葉だ?」
僕の初恋の人。
「ひどく陳腐で、ありふれた言葉だよ」
僕に恋を教えてくれた人。
「ふむ。随分ともったいぶる。何なら、私から言おうか?」
僕が恋を教えた人。
「けっこう緊張するんだよ。大丈夫、僕から言うから」
一緒に恋を探した人。
「ふむ。ならば、心して聞こう」
雪吹実代という恋人に、この言葉を最初に伝えたい。
「……実代。愛してるよ」
「うむ。私も誠二を愛している」
実代は不敵に微笑み、それから少しだけ頬を朱に染めた。
拙作にお付き合いいただき、ありがとうございました。皆々様の佳き恋を、この物語の結とさせていただきたいと思います。
2008年 4月29日
春の夜が明ける頃。白闇に光る星を眺めながら。
伊達倭