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第1章 夕焼けのプレリュード1

「おはよう。まーくん」

彼女はランドセルをそっと、机の側面にあるフックに掛ける。胸につけた名札に書かれている名は滝口祈梨。漢字を習ったばっかりと言わんばかりの拙さの字。だが、それは誰に対しても言えることでもある。かくいう、人の字に言及している俺の方がもっと汚い。先生もよく読めたなと思う。

彼女の容姿は、毎日寝てるのかと疑うほど整った長い黒髪、太陽の光が反射した夏の海のようにキラキラ光る黒い瞳。幼い男子は少し惹かれる、そんなところだ。

「遅刻かよ。珍しいな。寝坊?」

俺はニカニカして、祈梨に悪い冗談を仕掛ける。椅子に逆を向いて座り、馬に乗るようにガッタガッタと前後に持ち上げ、倒れない程度にバランスを立てて遊ぶ。

「そんなわけないよー。病院の定期検診」

祈梨特有のゆったりとした口調で返される。あれ、何かこいつに病気なんかあったっけ。全く病気を持っていない健全な天然系女子にしか見えない。ただの風邪をこじらせたのだろう。

「へぇ。なら、帰ってから、まっずいまっずいお薬お楽しみだな」

俺は笑いながら皮肉を言う。これが俺流のジョークみたいなものだ。

「まーくんはあいっかわらず、意地悪だよね」

スラリと整った頬をぷくーと切り餅のように、何倍にも膨らませる。とその頬はとても細いが、じっくりと熱せられたチーズのように、触ると手の中でとろけそうな程柔らかそうに見える。

「そういや、まこっちゃん、知ってるか。

あ、悪い。夫婦の会話の邪魔した?」

「夫婦じゃないよ。んで、なんだよ、新ちゃん」

祈梨が学校に来る前から話していたのは、小学校と中学校の時、一番親しかった友の咲本新一だ。彼とは頻繁に悪戯などをしたのを覚えている。小学校の"今日の給食のメニュー"が書かれたボードにメニューを書き換え、月一カレーライスにしたものだ。つまり、大体月一回カレーがあるから、月二回になるようにしていたということだ。給食のメニューには代わりはない。しょうもない悪戯だ。アホだ。先生に見つかり、二人してこっ酷く怒られたこともあるっけ。他にも色々していたが、多過ぎて忘れてしまった。

引越しがとりわけ多い地域に住んでいたため、仲が特に良いのは、この二人だけだった。仲良くなった人は大体引っ越して行った。三人だけが友達だったわけではなく、三人でいた時間が長かっただけなのだろう。思い出が深く脳に刻まれている。

「この辺にニンゲンモドキっていうのが出るの。幽霊みたいな感じだよ」

高城誠で新一からはこの頃から"まこっちゃん"で、祈梨からはこの頃は"まーくん"と呼ばれていた。俺は祈梨のことは"いの"と呼んでいた。

「ニンゲン、モドキ?聞いたことない」

「ニンゲンみたいな形をしてるんだって!」

「へぇ……人間なんじゃないの?それ」

悪戯には興味はあっても、実際にいないような存在には後ろめたさを覚える俺は冷ややかに応じる。対して、祈梨は感心したように目を輝かせる。

今考えると"モドキ"は擬のことなのだろう。人間の偽物といったところか。小学生が名付けるネーミングセンスじゃないが、そこは触れてはいけない禁忌なのだろう。

「そんなんいるわけねえだろ」

俺は即座に否定する。三年生だからといって、幽霊だとか未確認生物だとか全く信じていなかった。

「それがだな、川ちゃんが見たらしいぞ。怖くなって逃げたらしいけどなー」

「モドキってなんだ、モドキって」

「モドキはー……うん。モドキだよ」

幾分迷った末にキッパリと言った。

「おま、今誤魔化したな?まぁいい。それで、どんな奴なんだ?」

下手な誤魔化し方に半笑いになってしまう。

「あー、なんかニンゲンの姿には見えるけど妙に骨格がくねくねしてたとか」

「それ、くねくねだよね……」

そう言ったのは、祈梨で顔は苦笑い気味だ。

「その、くねくね?とか言う奴は見た瞬間精神崩壊、とかじゃなかったっけ」

「おいおい、新ちゃん。調子乗りすぎんなよー?どうせ、これから放課後見に行こーとか言うんじゃねえのか?」

新一はパチンと左手の指を鳴らした。恰好をつけて、正解を表したかったのだろう。しかし、パチンと良い音はせず、変なところを殴ったようなガスッと痛そうな掠れた音がした。率直に言えば、とてもとてもカッコ悪い。

「その通り!放課後に三人で行こうぜ!」

本当に痛かったのか、新一は左手をぶんぶん振っている。

悪いことに(俺視点では)全員のスケジュールは空いていて、行くことが決定した(雨は降らなかったが、どうせ、そうでなくても雨天決行だった)。


「全く、そんなもんいるわけねえってー。今からじゃ遅くないし帰ろうぜー」

ランドセルの中のものが一歩一歩進むのに呼応するようにガサッガサッと音を立てる。タイルの線を踏まないように大股に歩くと影もゆっくりと足を大きくあげる。

「まーたそんな事言ってー。それでも小学生かー。パーっと行こうぜ、パーっと」

大股に進んでいた足をぴたりと止める。しかし顔は新一の方を向かず、川へ向けた。葉っぱを一人一枚ずつちぎる。そして、三人で競争をする。気にしていなかったが、あいつはずっと黙っていた。

「俺、そんな暗いか。一緒にイタズラとかしてるじゃないか」

「絶対あり得ないってことはやろうとしないじゃん」

「まー、確かに」

急に祈梨が奇怪な声を上げる。

「いの、どうした」

祈梨は急に顔を上げる。

「三回連続、私が一位だよ。なんか奢ってね」

目をキラキラさせ、足はパタパタと駆け足で音を立てていた。

「わーった、わーったから。顔を近づけるな。近い近い」

「ぶー、最近まーくん冷たい」

「気のせいだってのー」

急に顔が熱くなり、顔を背ける。こいつはいつも自分の行動には気付いていない。祈梨自身は恥ずかしくないのだろうか。

「てか、こっちだって幼稚園児のままじゃないんですー。幼稚園児の時からは少しは冷静になるわ」

「とか言ってるけど、いっつもイタズラしてるけどな」

「ちょー、新ちゃんまで。お、お前もしてるだろ!」

最後は祈梨の結局まーくんは変わらないねっという言葉でダメ押しで戦闘不能になってしまった。

天然そうな雰囲気なのに、何故なのか

祈梨にはいつもことごとく論破されてしまう。新一のフォローもなかなかだが。

「んじゃ、後でここで集合な!」

上げ調子の新一が約束を持ち出す。

「おう、また後で」

「うん、後でー」

何故断らなかったのだろう。運命だろう。そうしよう。


「で、ここなのか」

着いた場所はすぐ近くの廃れたマンション。当時は廃れてはいなかったのだろうか、記憶が曖昧だ。新一は中学の時まで、ここに住んでいた。

「こんなとこにいるとは思えねえけどな」

「うん、俺も」

思考回路が乱れた。

「私も変だと思う」

さらに乱れた。

「おい、てめーら冗談じゃねぇよ。誘っといてそれかよ」

行きたくないのに、誘われた身にもなれよ。全く、冗談じゃない。

「まぁ、ここまで来たんだし。見ていかね」

やはり俺は全くの乗り気ではなかったのだが、連れて行かれた。もう抵抗する気は無かったのもあるが。


どうやら、このマンションの屋上にニンゲンモドキは居るらしい。屋上に行く道は階段の道ただ一つ。そろり、そろりと音を立てて登る。

吹き荒れる風や感じる悪寒により、鳥肌が立つ。何かある気がしないでもない。

一歩ずつ歩くに連れて、だんだんと足が重くなるように感じる。俺が履いている水色のサンダルが影のせいなのか、足取りのせいなのか、灰色に近い鈍い青色に見える。

何故だろう。あるはずもないのに。

そろそろ屋上だ。

「引き返すなら、今のうちだぞ」

ふと口に出てしまった。

「何、怯えてんの?」

新一が爆笑しながら言う。

「バッキャロー。んなわけ、ねえよ」

その瞬間だった。

一歩。

俺が階段を上がろうとしたときだった。

屋上からバサッという何かが飛ぶような音が聞こえた。

俺は片足だけ階段を上がった状態で数秒止まった。二人は一斉に逃げ始めた。

俺は一秒程硬直する。その状況を理解した俺は、硬直から醒め、走り始める。

「え、ちょっと。おい、二人とも待ってくれよぉおお!」

二段飛ばしで階段を降りる。既に二人が視界から見えなくなっていた。

何を血迷ったのか、俺は進行方向を変えて、階段をまた上がり始めたのだった。先程は重かった足取りが軽い。

すぐに屋上に着く。激しく風が鳴る。

……なんだ。やっぱりそういうことか。

ニンゲンモドキの正体についての確証を得た俺は、ゆっくりと二人の待つ下に降りる。


「おい、まこっちゃん、何してたんだよ」

「まーくん大丈夫?」

二人は本気で怯えてる表情をしている。俺はそれに堪えるのは必死だった。

「ったく先に降りてんじゃねえよ」

「何笑ってんだよ」

「本当だよー」

怪訝な表情を浮かべ始めた。何かに取り憑かれたとでも思っているのだろうか。

「ニンゲンモドキの正体を見た」

「「えぇ」」

二人は顔を見合わせた。そして、興味津々かというように目を輝かせる。

「確かめたいなら、自分で確かめろ」

「意地悪」

「まこっちゃん、そりゃねぇぜ」

軽蔑するような目で見られる。もし、あれが人間でも、"生物"でもないと知ると彼らはより一層残念がるだろう。ただでさえ興味を示していたのに、その興奮を摘み取りたくはない。

「まあ、なんだ。百聞は一見に、一見に」

「如かずだよー」

祈梨が猫の手を貸してくれる。ナイス、祈梨。

「そう、それだ。自分で確かめるんだ」

幽霊の正体見たり枯れ尾花とあるように、ニンゲンモドキは人間でも生物でもないとある罠だった。多分鳥の被害に遭っているのだろう。カカシのようなものが立て掛けられているのだ。

あの時の鳥が飛ぶような音は、カカシが着ている服がお化け屋敷の女子どもの幽霊のように人の驚愕を楽しむ笑い声だった。

それに気付いた二人はどう思うのだろう。笑ってくれるだろうか。笑ってくれるなら、話しただろうか。わからない。

「「ケチ」」

「言ってろ、言ってろ。別に何言われても俺は吐かねえよー」

いつの間にか、日は暮れかかっていた。ドヴォルザークの『新世界より』が流れ始める。

「あぁ、もうこんな時間か」

前を歩く二人の影が、オレンジ色に塗られたキャンバスの中、月の方向に引っ張られるように真っ直ぐ黒く延びていた。

「早く帰ろーよ、まーくん」

歩き出そうとしない俺に気付き、彼女は振り向く。逆光が明るく、顔が良く見えないが、笑っている。俺も言われるまで気付かなかったのだ。

「そうだな。そうだよな。いの、新ちゃん!分かれるところまで勝負だ!」

止まっていた俺を振り払うように俺は走り出す。

「ちょっ、いきなり過ぎんぜ!まこっちゃーん」

「本当だよ」

息を切らしながら、笑いながら、コケかけながら、夕焼けの中、三人は走る。置いて行かれた階段のように置いて行かれない。俺はもしかすると、置いて行かれるのが怖かったのかも知れない。二人が今はいる。怖くない。

水色のサンダルが走るのに着いて行くように俺はただひたすら、心が思うままに走った。



あの時は日が暮れるのがとても早く感じて、まだかまだかと明日が来るのを待ち望んでいたような気がする。いつから俺は、心の弾力が無くなって、明日を望まなくなったのか。

小学生の頃の俺が持ってたものは何なのか。時間、学校、自由、その他にも沢山選択肢はあるのだろうか。少なくともこの三つのうちでは、どれでもない気がする。挙げてはいないが、友達は今でも持っている。それでは何が違う。何が足りなくなった。

やはり夢なのか。


突然、いつもならないはずの自宅電話が鳴る。こんな時間にセールスか。

「はい、もしもし」

一応出る。苗字を言いながら、電話に出るのは良くないため、名乗りはしない。

『もしもし、滝口ですけど、高城さんのお宅ですか』

た、き、ぐち……?瀧口、焚口……違う。滝口。思考が止まる。滝口祈梨。その名が真っ先に出てくる。そんなわけがない。祈梨から電話が掛かってくるはずがない。

「はい。滝口、さん、ですか」

あいつは俺に電話してきて話す前に切ったことだってあるんだ。ない。期待するな。

『ご無沙汰しています。祈梨の母です』

祈梨。確かにそう言った。

「あ、いえ。こちらこそ祈梨さんにはいつも迷惑になってい……て」

いつの話だよ。高校二年の半ばで会わなくなって以来、何年の間会ってないんだよ。

『急に電話して申し訳ないです。お時間ありますか?』

「はい、全く問題はないです。ご遠慮なく」

『実は渡したいものがあるのだけれど、もう一つ用事があって。

実家の方に来てもらえませんか』

用事?何の?

「え、あの、小学校のですか」

『えぇ』

んな無茶な。スケジュールを確認する。

手帳をめくる中、心の底では、ある疑問が渦巻いている。

「ちょうど明日と明後日は空いてますね。どちらがいいですか」

偶然、必然、どちらで言えばわからないが、運命の因果というやつか。

『出来るだけ、早くがいいでしょう。貴方も積もるものがあるでしょうし』

「は、はぁ。では明日、そっちに向かいます」

『失礼します』

来る時間はいつでもというように、電話が切れる。

ツー、ツーという音が無情にも響く。俺は暫くそのままだった。硬直して動けなかった。

街に響く車の音やバイクの音が大きく聴こえ、耳を塞ぎたくなった。

夢のように、はたまた、全てを飲み込むブラックホールのように、今ある自分を徐々に消していってほしいという考えが頭の中でよぎり、回り続けた。

それは永遠に続く、後ろの正面のように自分を地獄に落とす呪縛だった。

寒気が走り、気分が悪くなってきたので、今日は取り敢えず寝ることにした。

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