悪夢
今から百五十三年前、スティーブル・ファーガソンという生物学者が発表した論文に「自身献上による下位種の生殖活動について」という物がある。
それには下位の種が自分自身や同族の体を上位種に食料として捧げるために交尾と育児しか行わなくなり、その結果下位の種の総数が爆発的に増える……という魔獣の変わった生態について論じているが、それが行われるのは自分の群れの長が上位種になった時のみであった。
ただそのような事態は普通は発生しなかった。なぜなら上位種がわざわざ自分よりも弱い物の群れに入ることは野生であり得ないからだ。
……だが、そのあり得ないことが目の前に広がっていた。
「ウガアアアアアアア」
「うおっ」
オーガが叫びながらセマカに向かって棍棒を振り下ろす。しかしそれはちょこまかと動き回るセマカには当たらず、後ろにあった巨大な岩を砕くだけだった。
避けるセマカの表情に余裕の色は無い。一発でも食らえば死が待っているのは火を見るよりも明らかだったからだ。
反撃しようにも槍はすでにオーガの硬い皮膚に弾かれ折れて使い物にならなくなっており、逃げようにも洞穴に繋がる道は大量のコーガに塞がれてしまっている。
今セマカに出来ることはただこの洞窟の中でオーガから体力の続く限り逃げ惑うことだけだった。
「セマカーッ! 無事かーっ!」
セマカの頬を大量の汗がつたい、手を膝につけていないと立っていられないほど追い込まれた時、待ち望んでいた助けがやってきた。
出口に陣取っていたコーガ達の体が突然起きた爆発によって空中に吹き飛ばされる。そこから入ってきたのは監督者であるグローリアだった。
「セマカ逃げるぞ! これはお前達が敵う相手じゃない!」
グローリアが魔導書を持っていない方の腕をぐるぐる回しながらセマカに向かって叫ぶ。
しかしその動きにオーガが気付かないわけが無かった。当然である、自分の大切な食料のほとんどが一瞬で消し炭にされてしまったのだから。
オーガは怒りの雄叫びを上げるとグローリアのいる方に向きを変え、歩き出した。だが発砲音が聴こえると同時にオーガは右目を抑えてもがき苦しみ始めた。
「おま、ちょっ、何をした⁉︎」
「グローリアさんに向かって振り下ろそうとしていたんで!」
グローリアが驚いたように振り返る。後ろには高熱のせいで赤く発光し始めた銃を投げ捨てるアイリーンの姿があった。
「セマカさん、生きたいなら早く来てください! 死にますよ!」
アイリーンがセマカに向かって叫ぶと下に見ていた者からの注意に激昂したのか、セマカはグローリア達のいる洞穴にダッシュでたどり着いた。
しかしそれが体力の限界だったのか、セマカは息を荒げながらその場に崩れ落ちた。
「おい、残りの二人は⁉︎」
「外に待機しています!」
「よし、それじゃあすぐに逃げるぞ!」
セマカの体を担ぎ上げながらグローリアが走り出す。続いてアイリーンも走り出そうとしたが、何かに引っかかるとそのまま転んでしまった。
アイリーンが怪訝な表情を浮かべながら足元を見ると、先ほどグローリアに吹き飛ばされたコーガの死に損ないがしっかりとアイリーンの右足首を握りしめ、気味の悪い笑みを浮かべていた。
アイリーンは焦りながらもそのコーガの頭をハンマーで叩き飛ばしたが、本能的に危険を感じ上を見た。
そこには天井が壊されたことで見えるようになった青空と、片目になったオーガが怒りの混ざった壮絶な笑みを浮かべて棍棒を振りかぶっている姿だった。
グローリアが何か叫んでいる声をアイリーンの耳は捉えていたが、脳はその音の意味を認識することが出来なかった。
アイリーンはスローモーションのように迫る棍棒を見ることは出来たが、足を動かすことは出来ず、棍棒に激突した。
アイリーンの体は棍棒のところどころに生えていた突起に鎧が引っかかったせいで、前ではなくオーガの遥か後方に飛んで行った。
その様子を外でまざまざと見せつけられたマルティの甲高い悲鳴が起こる。グローリアは歯を食いしばりながらその光景から目を逸らし、洞穴を駆け抜けた。
「逃げるぞ! マルティ立て……ないよなぁ!」
パピオンが腰が抜けた状態のマルティを半ば引きずる形でグローリア達の先を懸命に走り始める。
そんな四人に狙いを絞ったオーガは外と自分の住処を隔てる洞穴の天井を全て破壊し尽くしただの道にしてしまった。
しかしその頃には四人はもう森の中へと消えていた。オーガは残った左目で森を睨みつけると、自分の住処に転がったアイリーンの元へと向かった。




