第24話 三度目の朝
三度目の「あの朝」を、俺は奇妙なほど静かな気持ちで迎えた。
一度目は何も知らないまま、ただ世界の異変に巻き込まれただけだった。
二度目は先を知っているという全能感にすっかり浮かれて、いちばん大事な場面で足元をすくわれた。
でも、今度は違う。
俺の胸の奥には現実で澪を死なせたあの記憶が、消えない焼き印みたいに深く刻まれている。
あの血の重さも、腕の中でみるみる軽くなっていく命の感触も忘れていない。ありがとうという最後の声も、はっきりと耳に残っている。
だからもう、つまらない全能感に浮かれたりはしない。
油断もしないし、欲もかかない。
俺は自分の弱さも犯した過ちもぜんぶ抱えたまま、この三度目の周回の入り口に立っていた。
軽くなるためじゃない。
重さを忘れないために、覚えておくと決めたんだ。
鏡を見るとそこに映る自分の顔つきも、少し変わった気がした。
目の奥に、前にはなかった覚悟みたいなものが宿っている。
もう、守られるだけの俺じゃない。
澪や黒鉄や仲間たちにずっと守られてきた俺は、もういない。
今度は、俺がみんなを守る番だ。
たとえこの身を、すり減らすことになっても。
今度こそ、全部守る。
その決意だけが、俺の中で揺るぎない一本の芯になっていた。
誰も死なせない。海も識も、レンも。そして何より、澪を。
二度と、あんな選択はしない。
コアより世界の命運より、まず澪を守る。
その順番だけは、何があっても絶対に間違えない。
これは自分への戒めであり、たった一つの誓いだった。
動き方も、前の二周とはまるで変わっていた。
どこに何があっていつ、どんな危険が襲ってくるのか。誰をどう動かせば、いちばん損なく前に進めるのか。
二度の周回を経て俺の頭の中には、恐ろしく詳細な地図が出来上がっていた。
無駄な寄り道はしない。
迷いも、ためらいもない。
最短の道で、最善の一手だけを淡々と選んでいく。
その感覚は答えを丸暗記した試験を、もう一度受け直しているのに近かった。
二度目の周回でファントムの巡回ルートに踏み込んで、危うく囲まれかけた。
今度はその時間と場所を、まるごと避けて通る。
二度目に無駄に消耗した戦闘も、起きる前に芽を摘んでおく。
失敗の一つ一つが、今の俺にとっては貴重な手引きだった。
痛みを伴って覚えた教訓ほど、確かなものはない。
仲間を集めるのも、もう手探りじゃなかった。
識のところへ行って、あいつがまだ誰にも話していない例の仮説を言い当ててやる。世界の定数が整いすぎていること。世界に継ぎ目があること。それだけで、あの理屈屋は一発で食いついてきた。
「なんで、それを君が知ってる」
目を見開いた識に俺はただ、こう返した。
「同じことに気づいてる人間が、いるってことだ。世界の継ぎ目に。この箱の、外側に」
箱という言葉に、識の表情がはっきりと変わった。
こいつが、ずっと一人で抱えてきた違和感。
それを丸ごと肯定してやれば、識ほど頼れる味方はいない。
レンにはファントムに大切な人を奪われた、その古い傷にそっと触れる。するとあの寡黙な狙撃手は多くを語らないまま、静かに手を貸してくれた。
海は何も言わなくても俺の異変を嗅ぎつけて、いつものように勝手についてくる。
たった数日でチームは前の周回よりもずっと早く滑らかに、完璧な形で揃った。
レンが一度だけ、俺に訊いてきたことがあった。
「あなたはなぜ、そんなに必死なの」
俺は、少し迷ってから答えた。
「失いたくない人が、いるんだ。もう二度と、失いたくない」
レンはしばらく俺を見つめてから、小さくうなずいた。
「その気持ちは、わかる」
あいつもまた、ファントムに大切な誰かを奪われた一人だ。
言葉は少なくても、俺たちは同じ痛みで繋がっていた。
不思議そうな顔をしたのは、海だった。
「お前さ、なんか変わったよな」
昼飯をかきこみながら、あいつがぽつりと言った。
「前は、もっとおどおどしてたっていうか。自信なさげだったのに。最近のお前、なんか妙に肝が据わってる」
俺は、思わず苦笑した。
そりゃそうだ。
お前が知らないだけで俺はもう何度も、お前が死ぬところまで見てきたんだから。
「まあ、いろいろあったんだよ」
俺がそうはぐらかすと海はそれ以上は突っ込まずに、にっと白い歯を見せた。
「ま、頼りになるのはいいことだ。困ったら、言えよ」
その底抜けに能天気な笑顔を見て、胸の奥がきゅっと痛んだ。
こいつは、何も知らない。
この笑顔を守るために俺がこれまでどれだけのものを賭けて、どれだけのものを失ってきたのかを。
でも、それでいい。
何も知らないままずっとこうして笑っていてくれれば、それでいいんだ。
そのために、俺は戦っている。
澪との関係も、前とは少しだけ違っていた。
あの誓いを交わしてからこいつはほんの少しだけ、俺に心を開くようになった。
相変わらず口数は少ないし、表情も乏しい。
でも二人きりのときふとした拍子に、ひどく柔らかい顔を見せることが増えた。
それを目にするたびにこいつを守りたいという気持ちが、また一段と強くなる。
「真。あんまり、無理しないでよ」
ある日ふいに、澪がそう言った。
俺がこいつを気遣うのと、同じくらい。
こいつもまた、俺のことを気にかけてくれている。
「無理してるのは、お前のほうだろ」
俺がそう返すと、澪はふっと小さく笑った。
「お互いさま、ってことね」
その、少しだけ柔らかい横顔を見られただけで。
この周回も、戦う価値がある。
そう、思えた。
ただ、心配なこともあった。
澪の体は巻き戻すたびに、確実にすり減っていく。
この周回が始まった時点で、もう顔色は紙みたいに白い。
歩く速度も、以前よりだいぶ遅くなっていた。
残された巻き戻しの回数はもう、ほとんど残っていない。
次にしくじれば本当に、後がないんだ。
だからこそ、この周回で決める。
もうやり直せるという甘えを前提にした戦い方は、二度としない。
今度こそ一発で、すべてに片をつける。
それに最近、妙な感覚があった。
巻き戻しを重ねるたびに、俺の中の『何か』が少しずつ、目を覚ましていくような感覚が。
封じられていた記憶の蓋が、じわじわと開きかけている気がするんだ。
二度目に巻き戻したときも自分の意志で、はっきりと力を引き出せた。
この『何か』が完全に目覚めたとき俺は本当の意味で、戦えるようになるのかもしれない。
根拠はない。
でもそんな予感だけは、確かにあった。
やるべきことは、はっきりしている。
まずチームを整える。
次に現実への渡航ルートを確保し、コアを手に入れる。
そして俺の中に眠る鍵と繋いで、世界解析コードを完成させる。
それさえできれば誰が人間で誰がファントムか、すべてが白日の下にさらされる。
もう、疑心暗鬼に怯える必要はなくなるんだ。
二度の失敗で、道筋は頭に叩き込まれている。
あとは一つも間違えずに、それを正確になぞるだけだ。
そして、もう一つ。
今度の周回で、どうしても向き合わなきゃいけない相手がいた。
黒鉄だ。
二度の周回を通して俺はあいつのことを、ずっと保留にしてきた。
ファントムだと知りながら消すこともできず、味方に引き込むこともできず。
ただ遠くからその様子を、用心深く見ているだけだった。
でももう、そんな悠長なことをしている時間はない。
あいつは、いずれ必ず牙を剥く。
現実への渡航といういちばん危ない局面で、あいつの裏切りが致命傷になる可能性だってある。
頭では、わかっている。
あいつは、敵だ。最初から、俺たちを欺くために近づいてきた偽物。
父の戦友だというのも、ぜんぶ嘘だった。
なのにどうしても割り切れない部分が、胸に残っていた。
俺を鍛えてくれた、あの不器用な厳しさ。
あれが全部演技だったとは、どうしても思えなかったんだ。
もしあの男の中に、ほんの少しでも本物の何かが残っているなら。
もしかしたらあいつをこちら側に、引き込めるかもしれない。
敵を一人減らし、味方を一人増やす。
それができれば、勝率は大きく変わる。
甘い考えだと、自分でも思う。
でもその可能性に賭けてみる価値は、あるんじゃないか。
そんなふうに思いはじめている自分が、確かにいた。
どうする。
危険な芽は、早いうちに摘んでしまうのか。
それとも——あの誰も見ていないところで野良猫に餌をやっていた背中を、もう一度だけ信じてみるのか。
答えは、まだ出ていない。
でもこの周回のどこかで、あの男との決着だけは必ずつけなきゃならない。
俺は今もどこかで何も知らずに暮らしている、あのぶっきらぼうな大男のことを思った。
俺がいちばん信じた男であり同時に、いちばん警戒すべき敵。
あいつとの問題に片をつけないかぎりたぶん、本当の勝利には手が届かない。
そんな予感が、確かにあった。
三度目の周回が、静かに動き出す。
今度こそ誰一人欠けさせず、すべてを守り抜くために。
迷いはもう、とっくに捨てた。
胸にあるのは、たった一つの願いだけだ。
今度こそみんなで笑って、この長くて苦しい周回を終わらせてみせる。
俺はまっすぐ前を見据えて、覚悟の最初の一歩を踏み出した。




