2 武勇に長けた貴公子は概して口下手である
「っはああああああ!」
ロカ・アンブロシオ・ラスコーン侯爵はマントを翻して屋敷に戻り、従僕マルシオとともに自室へ入った途端に膝から崩れ落ちた。
雄叫びのような声を少しでも抑えようと大きな両手で顔を覆い、床に額をこすりつけんばかりになったロカの顔は耳まで真っ赤である。
「ぐぅぅっ……!」
事情を知らぬものが見れば、湧き上がる憤怒に身を震わせているようであろう。行き場のない怒りをまき散らしているようにしか見えない。そんなことは十分わかっていたが、ロカ自身あふれんばかりの感動を抑えることに必死だった。
口から手を放したらもっと大きな声が漏れてしまうに違いない。こんな醜態を側近であるマルシオ以外には見せられない。けれど我慢できない。
唇を噛みながら感情を爆発させている主に、マルシオは呆れたように肩を竦めるだけだった。こうなったら長いということを彼は良く知っていたのだ。
しばしの間嗚咽を漏らすようにうめき声をあげていたロカは、顔を上げるとばっとマルシオを振り返った。
「くっっっそかわいくね!?」
氷帝と言われるほどに整ったロカの口から飛び出した言葉は、なんともそぐわない一言だった。頬も耳も、それどころか首まで真っ赤である。ロカがマルシオの襟首をねじり上げん勢いで詰め寄ると、幼馴染でもある従僕はどうどうと主を宥めるように肩を叩いた。
「声を抑えなよ、ロカ。それじゃ他の使用人が起きてくるだろ?」
「これが抑えてられるか! 見たか? あの男装。ぶかぶかのキュロットに細いブーツ! 髪をまとめていたからか? 小動物にしか見えん! おまけに肌も白いし艶々してるし、目もくりくりしていて淑女らしくなく窓から飛び降りるわちょこまかと動くわ、あの生き物、端的に言って可愛すぎるだろう!」
「わーかった、分かったから落ち着けって」
「これが落ち着いていられるか! 彼女の顔をあんなに近くで見たのも初めてなんだぞ。し、しかも……」
言葉を切ると、ロカは自分の右手を開き目を落とした。子どもの頃から剣を握り、斧を振るった手の表面は固く、節くれだった関節が目立つ。そんな武骨な手のひらで妻の手首に触れた感触を思い出すと、またロカの頭が沸騰した。
「さ、触っちゃったじゃないか! なんだあの細さ! いや細さより柔らかさだ! 極上の絹よりきめ細かい肌に骨などないかのような柔らかさ! き、傷でもつけていたらどうしたらいいんだ!」
「いや、いくらロカでも素手で触れたくらいで人間の皮膚は傷つかないでしょ」
「お、俺の節くれだった手指を知っているだろう! 下着にちょっと引っかかったらもうその生地がだめになっちまう事、お前なら知ってるだろう!」
「いやあ、人間の皮膚はもう少し丈夫だし」
「し、しかもちょっと力を籠めたら折れそうなほど細かったんだ! あー! いや待てマルシオ。お前あんなに乱暴に彼女を落として、怪我どころじゃすまなかったかもしれないじゃないか! 心臓が止まるかと思ったぞ!」
「それは悪かったって。でも奥様って意外と頑丈そう……」
「俺たちと一緒にするな!」
はあ、とマルシオが盛大なため息を放った。
「炎の氷帝様ともあろう方が、ちょっと取り乱しすぎですよ。いくら焦がれてやまない奥様を間近に見ちゃったからって言っても、もう少し落ち着けって」
「くっ……!」
自身に最も近しく信頼している男からの指摘に、ロカは奥歯を噛み締めた。望んだわけでもなくつけられた恥ずかしい二つ名で呼ばれれば、沸騰しきっている頭がわずかに冷える。
そうだ。自分は冷静沈着を旨とする王国最強の武人である。どれほどの混戦であっても、苛烈な戦であっても狼狽えるような真似はしなかった。
ロカは二度、三度とゆっくり、深く息を吐いた。ぐつぐつと煮えたぎった脳や腹が幾分落ち着き、熱く火照った顔や耳が次第に落ち着きを取り戻していく。
「……すまん、マルシオ」
「まあまあ。こんなロカを見ることができるのが従僕の特権と言えば特権なんだけどね」
「主の失態を喜ぶな」
「少しは落ち着いてくれたようで助かったよ。でもそんなに奥様を可愛く思っていて好きでたまらないならちゃんと言ってさし上げればいいだろう。結婚してからずっと、公務だなんだと早朝から深夜まで仕事して食事もともにしていない上、寝室も別のままなんて、一体何をやってるんだ」
「う、うるさい……!」
「全く、ほんっとうに君は口下手なんだから。夜会で一目惚れしたって、女性にしてみたら悪くない口説き文句だと思うけど?」
「言うな! は、恥ずかしいに決まってるだろ!」
「はいはい。君が奥様に自分で伝えるまでは黙っとくさ」
ふふ、とマルシオは小さく笑いを漏らした。従者が主を笑うなど、普通の貴族の屋敷ではこんなことは許されないだろう。しかし主と従僕という関係ながら幼馴染という気さくな部分がロカの心を癒していることは間違いない。
マルシオは侯爵家と付き合いの深い男爵家の三男である。物心つくころから幼馴染として育ち、家督を継ぐ必要がないからと言って従僕になってくれた。彼の楽天的な性格は、戦場に身を置くことが多く気を張ることが多いロカにとっては無くてはならない存在なのだ。
柔らかなマルシオの笑みを見て、ロカは自分の肩から力が抜けるのを感じていた。一仕事を終え、高ぶった気持ちを静めるのは従僕との語らいと一杯の酒である。
醜態をさらしてしまった今日は詫びの代わりに少しいい酒を開けようかとロカが棚に向かうと、マルシオは腕組みをしながら首を傾げた。
「しかし、五回目か……」
「何がだ」
「奥様の脱走だよ。嫁いでいらしてから半年、静かに暮らしていたはずの方がなぜこんなに頻繁に脱走を計画するようになったんだろう」
「それなんだがな……」
ロカは棚から出した瓶からグラスへ酒を注ぐと、マルシオに一つ差し出した。
「どうやら彼女は自分の妹と立場を入れ替えたいと思っているらしいんだ」
「はあ? なんでまた。奥様から直接聞いたのか?」
「いや、初回に置手紙があってな。自分がこっそり脱走して身を隠すから離縁してくれ、その代わり妹を送るから自分だということにして妻に迎えろと」
「置手紙の件は初耳だ。奥様の妹君と言えば、双子姫の妹の方ってことか。確かに奥様に瓜二つという噂だけど……」
訝し気にマルシオは首を捻った。妻の謎めいた言い分に戸惑うのも仕方ない。自分の代わりに妹をと言われた当のロカさえ、どうして妻がそんなことを言い出したのか分からないのだ。
しかも今夜はあなた方のためなどと言ってはいなかったか。一体どんな思惑があるのか、はっきりさせなければいけない。
ただそれをはっきりさせるには妻と話し合いが必要なのだが、ロカにはその決心がつかなかった。
何せ恥ずかしいやら照れくさいやらで結婚以来一度もちゃんと顔を合せたことがないのである。ロカ自身、自分の口下手は自覚している。動揺し、狼狽え、赤面し、ルイーサを前にすると思うように言葉が出てこないことが容易に想像でき、どうしても踏ん切りがつかないのだ。
そんなことを考えているだけで、ロカの脳裏には初めて出会ったときのルイーサの顔が浮かんできた。
国王が主催した、ロカの凱旋記念の夜会だった。
濡れたように艶やかな黒髪に大ぶりの真珠をいくつも挿し、凛とした立ち姿を披露したルイーサはまさしく伯爵令嬢という身分にふさわしい姫君だった。美しいと単純に思った。しかしそれだけだったら求婚することはなかっただろう。しかし事件が起こった。
父親に連れられて諸侯に挨拶をして回っていたルイーサがロカの前に来た時、傍を通りかかった配膳係のメイドが毛足の長いじゅうたんに躓いた。城のメイドは良く訓練されているから派手に転びはしなかったものの、盆に乗せられたグラスが傾き、飲み物がこぼれてしまったのだ。
そのほとんどは盆に受け止められたがいくつかの水滴が四方に跳ねた。もちろんロカの方にも。しかしロカにし水滴は届かなかった。
いつの間にと目を見張る素早さで、メイドとロカの間に素早く体を割り込ませたルイーサが受け止めたのだ。飛び散った水滴は伯爵令嬢の胸元に点々とシミを作ってしまったが、ルイーサはメイドを叱責することなく扇でシミを隠した。そして「大丈夫、こうすれば見えません」と、恐慌状態に陥りそうになっていたメイドに囁いて微笑んだのだ。
気位が高いだけの令嬢であれば、メイドが失職するほどの罰を与えようとする場面である。騒ぎが大きくなれば夜会を主催した国王に恥をかかせることになるだろうし、夜会の主役でもあるロカの顔にも泥を塗ることになっただろう。
まるで何事もなかったかのように挨拶を続けるルイーサの、その些細な配慮にロカの心は射貫かれた。
決して彼女の顔や家柄に惹かれたのではない。ぽそりとロカの口から本音がこぼれる。彼女の妹などは先日紹介された気もするが顔も定かではない。
「……妹じゃ、だめなんだよなぁ」
「じゃあそれをちゃんと奥様に言ってあげなよ」
「それができれば苦労しない……」
ロカが手に持ったグラスを勢いよく煽る。何言っているんだ、とマルシオがぴしゃりと言い放った。
「どんなに訓練した兵たちにだって命令は言葉にしなきゃ伝わらないんだよ。知り合ってたいした関係も作ってない男女ならなおさらだ。このままじゃ本当に奥様に逃げられるぞ」
「ぐ……」
「早くちゃんと話すんだよ。侯爵家のためにも、お前と奥様の二人のためにも」
気の置けない仲というのはありがたい反面、遠慮や容赦というものもない。良い酒で唇を湿らせた従僕から投げつけられた正論に、ロカはぐったりと項垂れたのだった。




