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最終話

 ジョッシュは一歩一歩、恐怖を乗り越え、花畑に近づいていった。足が震えてなかなか進まない。

 上半身を蔓の緑、下半身を根の茶色に染めたルシアの体は、こちらに背を向けている。

 しかし、果たして花主とかいう花の化け物の視野が、人間の目と同じかどうかはわからない。もし違っていたら、背後に回りこむなどという作戦は無意味だ。

 いつ花主の顔がこちらに向くとも知れない。そんな恐怖と戦いながら、ジョッシュは花畑に足を踏み入れた。

 足元の注意を怠っていたのはそのためだ。

 突然、ざわりとした感触を足首に感じ、ジョッシュは声にならない悲鳴をあげた。

 見れば、アネモネの花の下にある目立たない葉が、ジョッシュの足に纏わりつこうと蠢いている。

 ジョッシュは思わずあとずさって花畑の外に出た。

 一見普通の花だったので、油断していた。この花も、花主ほどの力はなさそうだが、人間の血を吸った花主の眷族なのである。どんな攻撃をしかけてくるかわからない。

 それに加えて、今の足音が花主に気づかれはしなかっただろうかと気になった。見つかれば一巻の終わりある。

 だが、ジョッシュの不安をよそに、花主の首は前方に向けられたまま動かない。代わりに蔓が激しくうねっているが、それは鎖鎌で戦う青年、モードを追いかけるのに夢中である。

 モードの強さは想像を遥かに超えていた。

 ジョッシュには、モードの振るう鎌が見えない。あまりに高速のために。

 あの人はなんなんだ。

 そんな疑問が頭をもたげるが、しかし、今はそれどころではない。

 やるべきことをやらねば。この恐ろしい花の絨毯を進んで、ダニアンを連れ出さねばならないのだ。

 何か攻撃をしかけることができる花ならなおさらだ。

 こんな妖しく蠢く花の中に埋もれて、ダニアンの命が手遅れになっていたらと思うと、じっとしていられなかった。

 ジョッシュは近くに落ちていた木の枝を拾い、深紅の花の花びらをつついた。

 花は不快そうに身じろぎしたが、蔓をのばしてくるようなことはなかった。

 やはり、あの巨大な花主以外に大した力はない。そう結論付けると、ジョッシュは思い切って花畑に踏み込んだ。

 途端にざわりと地面が――いや、花の絨毯が揺れる。いくつもの目が一斉にこちらに向けられたかのような、不気味な錯覚を覚える。蛇の巣穴に投げ込まれた蛙のような。

 この感じには覚えがある。よく森の中に入っていくルシアのあとをつけ、この花畑を見つけた。それから何度も、ここに大事なものを隠してるのではないかと調べにきたのだが、一人で花畑の中に立った時、全身が凍りつくような視線を感じたことがある。獣が獲物を前にして舌なめずりしているかのような、そして自分がその獲物になったかのような、ひどく落ち着かない気分になる視線。あの時感じた視線は、この花のものだったのだ。

 喰われる。

 本能が逃げろと告げている。しかし、それでもジョッシュは勇気をもって、花の中を数歩進んだ。が、突然、足首に刺すような痛みが走り、反射的に身がすくむ。

 5センチほどの赤い筋が、くるぶしの下にできている。アネモネの鋭い葉に切られたのだ。

 蔓で貫くことなどはできなくても、そういうことはできるらしい。

 これではナイフの山の上を歩くようなものだ。ジョッシュは背中に冷や汗を感じた。

 喉の奥がねばつき、足が棒のように感じられる。

 ダニアンまでの距離が、果てしなく遠いものに思えてきた。

 怖い――――

 だが、モードが――人ではあり得ない戦闘力を持つ青年が、ジョッシュとダニアンのために時間を稼いでくれているのだ。

 ダニアンごと葬ったほうがずっと簡単だろうに。

 それを思うと、ここで挫けるわけにはいかなかった。

 ジョッシュは痛みをこらえ、切り刻もうとする葉の鋭さを頭から追い出し、傷がつくのも構わず早足で歩き出した。

 あまりにしつこく纏わりついてくる花は、足を振って踏み潰す。

 こいつらが、八歳で孤児となったジョッショを育ててくれたハンスを。心の傷を優しく癒してくれたルシアを奪ったのだ。少しもためらう理由はなかった。徐々に怒りに火がつき、ジョッシュの勢いは増していく。

 あと2メートル。あと1メートル。

 花主の注意はまだモードに向いている。

 そして、果てしなく長く感じられた距離を詰め、とうとうジョッシュはダニアンの元に辿り着いた。

 急いでここから離れなくては。細い首と足の下に手を差し入れ、そろりと抱き上げる。

 だがその時。

 

「お別れ……やだよう……」

 

 最悪のタイミングで、ダニアンの口から、言葉が漏れた。

 全身の血の気がひいていく。

 走れ。そう思うのに、力の抜けていく体は、ダニアンを胸に抱き寄せたところで止まってしまった。

 目を覚ましたわけではない。たんなる寝言だったのだろう。むにゃむにゃとダニアンは意味のない言葉を呟き続けている。

 少しの間が、ひどく長く感じられた。

 動きを止めた化け物の顔が、ゆっくりと二人の方を向く。

 

「アルフの体を、どこに連れていくの?」

 

 ルシアのものである声が、ジョッシュの背中を寒々と震わせる。

 頭上に伸び上がり、こちらに狙いを定める蔓は、易々と二人の命を奪うだろう。

 走れ。

 もう一度自分を叱咤し、次の瞬間、弾かれたようにジョッシュは駆け出した。

 しかし、前方に蔓がまわりこみ、ジョッシュの行く手を遮るように地面に突き立った。

 慌てて足を止め、逃げ道を探す。だが探すまでもなく、前方の蔓が消滅する。モードである。

 こんなに遠くまで鎖鎌の鎖を伸ばせるのだ。そんなことをちらと考えるが、余計なことを気にしている暇はない。

 ジョッシュは再び駆け出した。無我夢中である。ダニアンの体を半分ひきずりながら逃げる。

 また蔓が頭上を追い越した。ジョッシュは進路を変える。体を右に傾け、全体重を足にのせる。その足を前に進めようとしたその時、ボコッと足元の土が盛り上がり、根が飛び出した。

 咄嗟に体を捻り、串刺しを避ける。それが精一杯だった。

 ダニアンもろとも横倒しになったジョッシュの右から、左から、いくつもの蔓がやってくる。

 さすがのモードにも一度には破壊できないのではないかと思われる数の蔓が。

 ジョッシュはダニアンを胸にかばい、思わず目を瞑った。

 その時。

 

「母さん……」

 

 蔓が、止まった。

 ジョッシュとダニアンに向かっていた蔓が、一斉に動きを止めたのである。

 いまだ眠っているダニアンの、ただの寝言に反応して。

 ピタリと止まったのである。

「母さん……」

 もう一度、同じ言葉が繰り返される。

「母さん、大好き……」

 ふふっと笑みをこぼし、ダニアンは夢の中で誰に抱き締められているのか、ジョッシュの胸に頬をすりよせる。

 二歳で両親を失ったダニアンにとって、母親は一人しかいない。今、ここにいる一人しか。

「ダニ……アン……」

 ジョッシュは驚いて目を開いた。

 花主の――いや、ルシアの声が、自我を失ったはずのルシアの震える声が、ダニアンの名を呼んでいる。

 おそるおそる見上げれば、意志の光を持つ瞳が、二人を見下ろしていた。

 本来、花隷が花主に逆らうことはない。花主の支配下において、花隷が意識を取り戻すことは皆無に等しい。

 だが、二人の少年を見つめる瞳は、確かにルシアの心を宿していた。

 花主の意識を押さえつけ、身も心も全て捧げた花隷の、それはささやかな抵抗であった。

「ダニアン……ジョッシュ……。ごめんなさい」

 ジョッシュは息を呑んだ。

「ごめんなさい……みんな、ごめんなさい。止められなかった。愛してるのに、止められなかった」

 涙がこぼれていた。

 異形の者となった目に涙が溢れ、頬の亀裂を伝い落ちていた。

 目を見開き、ルシアを見つめる。

 恐怖で震える心にも、その言葉が真実の響きを持っているとわかった。

「母さん……」

 湧き上がる悲しみが恐怖を凌駕し、潤んだ瞳にかつての母を映す。

 

『私が、お母さんの代わりにあなたを愛するわ』

 

 大好きだった。

 大好きな母だった。

 殺されかけている今でも、その気持ちに変わりはない。だけど、ルシアはどうだったのだろう? その答えを知るのが、ずっと怖かった。怖くて、ルシアから逃げていた。

 だが嘘ではなかったのだ。かつて自分を癒してくれたあの言葉に、嘘はなかったのだ。

 もう…………それだけで十分だった。

「愛してるわ。愛してたのに。大切な子供たち。ごめんなさい。大好きだったのに。幸せなはずだったのに……」

 ひび割れた頬をとめどなく流れる涙は、こぼれ落ち、胸に咲くアネモネの深紅を濡らす。

「笑ってるあなたたちを見るのが辛かった。あなたたちの死を、どこかで願う自分が怖かった……。愛してるのに、愛してたのに、私は…………ごめんなさい、愛しい子供たち……私の弱い心は……」

 再び支配を試みるかのように、蠢く深紅の花を濡らす。

 

「憎しみを…………止められなかった……」

 

「離れなさい、ジョッシュ!」

 

 その一声でジョッシュは我に返った。

 過去を断ち切るかのように、ダニアンを抱えて一目散に走り出す。

 花主の蔓が追ってくることはなかった。

 中空を見つめ、ルシアはただ呟き続けていた。愛してたのに。ごめんなさい。終わりなき贖罪の言葉。

 そして、ジョッシュが花畑の淵を飛び越えた瞬間。

 神々の力を持つ刃が、花主の膨れ上がった胴体を横薙ぎに切り裂いた。

 緑の胴体の中心部にまで深々と食い込み、それはピタリと止まる。

「断ち切ってさしあげますよ、ルシアさん。貴女の苦しみ。その血に穢れた花ごと」

 鎖を引く手に力を籠め、モードは唱える。全てを断ち切る、終焉の言葉を。

「この世に咲く、全ての母なるフランディーネ。迷い子たちに、花の赦しと憐れみを」

 瞬間、青白い炎が燃え上がる。

 モードの手元から発し、鎖を走り、花主の体へと燃え移る青白い炎は、その巨体を一瞬にして包み込む。

 同時に、深紅の花畑へも業火は広がった。

 絶叫が空気を震わせる。音もなく。何者かの叫びは、静かな空へと吸い込まれるように昇っていく。

 

 澄んだ炎の中、ルシアは幸せそうに微笑んでいた。

 何を目に映しているのか、空を仰ぎ、優しい微笑を湛えながら呟いていた。

 

「アルフ……そこにいたのね……もう、苦しくないのね……? 良かった……もう離れない。もう……」

 

 はなれ、ないで。

 

 その言葉を最後に、呟きは炎に飲まれ、燃え上がる体は灰と化してくずおれていく。

 どこか悲しげな冷たい炎は、花びら一枚、根の一本も残すことなく、全てを包み、焼き尽くした。

 

 

 

 

 ジョッシュは半分欠けた頭蓋骨を胸に、そっと涙を流した。

 焼け跡の土の中から掘り起こしたものである。

 白骨死体は二体あった。一体は大人で、一体は子供の骨。

「トマス……。こんなところにいたんだな……」

 彼の消息不明を知った時からずっとくすぶっていた怒りは、もはやない。ただ深い悲しみがあるだけった。

「おかしいと思ったんだ。絶対手紙を書くって言ってたのに。町に行って、トマスの里親のことを訊いても、誰もそんな人は知らないって。母さんたちが何か知ってるはずだ、トマスは売り飛ばされたのかな、ってずっと考えてた。もし、父さんと母さんが、俺たちに隠れて何か悪いことをしてたら、って思ったら、怖くて誰にも言えなかった……。だけど、こんな結末だったなんて……こんなの……こんなの……」

 ジョッシュはルシアと同時に、姿のないハンスのことも疑っていた。

 しかし、それは完全に思い違いだったのだ。

 トマスが孤児院を出て行った翌日、ハンスも消えた。きっと、ルシアのしたことに気づき、問いただしたのだろう。そして、花に喰われた。

 やりきれない気持ちに涙がとめどなく溢れる。しかし。

「どんなに悲しくても現実から逃げてはいけませんよ。あなたは残された兄弟を守らなきゃいけないんですから〜」

 哀愁を蹴り飛ばすかのような間延びした声に、ジョッシュは顔を上げた。

 すでに元に戻った杖をつき、飄々とした青年は、いつもの笑みを浮かべている。

 すっとその目が細められた。

「ルシアさんがこれまで守ってくれていたように」

「モードさん……」

 ジョッシュは束の間ぼんやりとモードを見上げ、それから頷いた。

 これから忙しくなるだろう。なにせカーマイヤー家の主がいなくなったのだから。

 残された兄弟たちをどうやって守るか、考えなくてはいけない。モードの言うとおり、泣いている暇はないのだ。

 この命は、ルシアが自分の命と引き替えに守ってくれた命。

 どうしようもない憎しみから守りぬいてくれた命。

 浸っているといつまでも溺れてしまいそうな感傷は捨て去り、涙を拭って立ち上がる。

 満足そうに頷いたモードが、踵を返し、何も言わずに歩き始めた。

「……モードさん!」

 ジョッシュはその背中を呼び止めた。

「結局……あんたは何者なんだ?」

 人の力を超越した青年。血に穢れた花を刈り、同胞殺しと呼ばれる青年。

 もう二度とは会えない。そんな気がする。

 杖をついた青年は一瞬足を止め、しかし振り返ることなく答える。

「花刈人――そう、呼ばれてます。穢れてようと、穢れてまいと、人使いの荒い花たちにね」

 さぁっと風が吹き抜けた。木の葉が一斉に舞い上がる。

 ジョッシュは思わず目を瞑った。

「ああ……そうそう。気持ちを押し殺して花にこめるのも、ほどほどにお願いしますよ」

 モードの声が響く。飄々としていて、しかしどこかな淋しげな声が。

 僅かな後、ジョッシュが再び目を開いた時、そこには青年の姿はなく――ただ、深い森が、アネモネの微かな残り香と、灰となった儚い夢を覆い隠すかのように、ひっそりと広がっていた。

 

 

 

 ―― Fin ――

 


使用した花:アネモネ

花言葉:「期待、儚い夢、儚い恋、真実、薄れゆく希望、君を愛す」


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