毒の痕跡
セレスティアは日課を作った。
毎日午前中に母の部屋を訪ねる。「おかあさまとあそぶ」が名目だ。実際にはリリアーナの膝の上で絵本を読んでもらったり、一緒に窓辺の花に水をやったりする。三歳の娘が母に甘える姿は、誰が見ても微笑ましい光景だった。
だがセレスティアの目は、常に母ではなくサイドテーブルの上の薬壺に向いていた。
観察を始めて十日が経った。
この十日間で分かったこと。
母の薬は一日三回。朝食前、昼食前、夕食前。
薬は陶器の壺に入っており、銀のスプーンで一匙ずつ服用する。
薬の色は濁った緑。薬草を煮出した液体。
匂いは甘く、僅かに苦い。灰銀草の特徴と一致。
そして最も重要な観察結果。
薬の壺は三日に一度、新しいものに入れ替えられる。
入れ替えるのは医師ローレンツ。だが壺を薬庫から持ってくるのは――使用人だ。
使用人は薬庫の鍵を持っていない。
薬庫の鍵を管理しているのは、家政を統括する家臣。
すなわち、ディートリヒ・クラウス。
ディートリヒは直接薬に手を触れない。だが薬庫の管理権を持っている。薬庫に何が保管され、何が出し入れされるかを把握できる立場だ。処方箋通りに調合された薬が薬庫に保管され、使用人が母の部屋に届ける。この流れの中で、ディートリヒは薬の内容に干渉できる。
処方箋を操作する王都の宰相派。
薬庫を管理するディートリヒ。
忠実に処方通り調合するローレンツ医師。
だれも手を汚していない。だれも「自分がやった」とは言えない仕組み。
処方箋は「偉い先生の指示」。ローレンツは「その通りにしただけ」。ディートリヒは「薬庫の管理をしただけ」。
だれも悪くない。でもおかあさまは死ぬ。
そういう仕組みをつくった人がいる。宰相だ。
だが一つだけ、穴がある。
薬そのもの。
薬の成分を分析すれば、灰銀草が薬効量を超えていることが証明できる。それが証拠になる。処方箋に「灰銀草を薬効量の三倍入れろ」と書いてあるなら、処方箋自体が殺意の証拠だ。
問題は、誰がその分析をするか。
セレスティアにはできない。三歳の身体では実験器具を扱えない。そもそも読み書きすらできない――ということになっている。
フェリクスだ。
◇
その日の午後、セレスティアは書庫を訪ねた。
フェリクスは相変わらず本に埋もれていた。机の上に五冊、床に三冊、膝の上に一冊。十三歳の少年は、本がなければ生きていけない生き物だ。
「おにいさま」
「ん、セレスか。また来たのか」
「おにいさまのほんがすき」
「好きなのは本じゃなくて絵だろう」
フェリクスは苦笑しつつ、薬草学の挿絵が美しい本を開いてみせた。前回と同じ本だ。
セレスティアはフェリクスの膝の上に収まり、本の絵を眺める振りをした。実際には文字を読んでいる。三歳児が読めるはずのない学術書の文字を。
視線を走らせる。目次。章立て。
第七章「毒性を持つ薬草の分類と判別法」。
その中の一節。「灰銀草(Cinerea Herba)」。
「灰銀草は少量(乾燥重量0.5グラム以下/日)であれば血行促進の薬効があるが、1グラム以上/日の長期摂取は肝臓および腎臓に不可逆的損傷を与える。症状は緩慢に進行し、初期は倦怠感、食欲不振、微熱として発現するため、一般的な虚弱体質と誤診されやすい」
教科書通りの記述。これが母に起きていることだ。
だが三歳のセレスティアが「この本の第七章を読んでくれ」と頼むわけにはいかない。不自然すぎる。
別のアプローチが要る。
「おにいさま」
「なんだ」
「おかあさまのおくすり、このほんにのってる?」
フェリクスの指が止まった。
「母上の薬?」
「うん。おかあさまのおくすりのざいりょう。このほんにあるかなって」
フェリクスは眼鏡の奥の目を細めた。
三歳の妹が母の薬の成分について質問している。普通ではない。
だがフェリクスは頭ごなしに否定しない。学者だからだ。疑問には答えを求める。
「……どうして母上の薬が気になるんだ?」
「おかあさまがにがいっていってたから。にがいおくすりのんでるのに、げんきにならないから。おにいさまならしらべられるかなって」
子供の論理だ。薬が苦い。飲んでいるのに元気にならない。だから薬がおかしいのでは。
三歳児としては突飛な推論だが、不可能ではない。子供は時に大人が見過ごす疑問を投げかける。
フェリクスは黙って本のページをめくった。薬草の索引。
そして、呟いた。
「……確かに、母上は何年も薬を飲んでいるのに良くならない。おかしいと言えばおかしいな」
火が点いた。
セレスティアは内心で拳を握った。だが表情は無邪気な三歳児のまま。
「おにいさま、しらべて?」
「調べるって言っても、薬の成分を知らなければ始まらない。処方箋が必要だ」
「しょほうしぇん、って?」
わざと舌足らずに聞く。
「お薬の作り方が書いてある紙だよ。ローレンツ先生が持っているはずだ」
「じゃあ、ローレンツしぇんしぇいにきいて?」
フェリクスは考え込んだ。
十三歳の少年が、家の医師に「母の処方箋を見せてください」と頼む。不自然ではない。学問への好奇心として通る。フェリクスならなおさらだ。
「……まあ、聞いてみてもいいか。薬草学の勉強にもなるし」
フェリクスは呟くように言った。独り言に近い。だがセレスティアには聞こえていた。
ただ、フェリクスの声には躊躇いも混じっていた。
「でも処方箋は医師の管轄だからな。ローレンツ先生が見せてくれるかどうか。守秘義務もあるし」
そうだ。簡単にはいかない。医師には患者の情報を守る義務がある。十三歳の少年が「見せてください」と言っても、断られる可能性は十分にある。
セレスティアの胸に不安がよぎった。もしフェリクスが断られて、そこで諦めてしまったら。
だが今は待つしかない。フェリクスを信じるしかない。
二つ目の駒が動いた。
◇
夕刻。セレスティアは母の部屋にいた。
リリアーナは窓辺の椅子に座り、刺繍をしている。セレスティアは母の足元で積み木を積んでいる。三歳児らしい遊び。だが頭は別のことを考えている。
薬壺がサイドテーブルにある。
今日は新しい壺に替わる日だ。朝、使用人が新しい壺を持ってきた。
母が席を外した隙に、セレスティアは行動を起こした。
積み木遊びの延長で、サイドテーブルの近くまで移動する。手を伸ばす。壺に触れる。
蓋を開ける力は――ある。陶器の蓋は重いが、三歳の手でもずらすことはできる。
蓋をずらした。陶器が擦れて小さな音を立てた。
その瞬間、廊下から足音が聞こえた。
身が凍った。
蓋を持つ手が止まる。足音は近づいてくる。規則正しい、使用人の靴音。
戻さなければ。だが三歳の手は震えて、蓋がうまく噛み合わない。心臓が喉を突き破りそうだった。
足音が部屋の前を通り過ぎた。遠ざかっていく。
ただの通りがかりだった。
だが手の震えが止まるまで、しばらくかかった。
改めて、中を覗き込む。
濁った緑色の液体。薬草の煮出し汁。表面に薄い油膜が浮いている。
匂いを嗅ぐ。
甘い。そして苦い。
前回と同じ匂い。だが今日は、もう一つの匂いに気づいた。
微かに――本当に微かに――金属のような匂いが混じっている。
金属みたいな匂い。おにいさまの本で読んだ匂いだ。灰銀草が多すぎる時の匂い。
通常の量なら気づかない。でもこんなに匂うということは――多すぎるのだ。
匂いだけでは証拠にならない。だがセレスティアの確信は深まった。
蓋を元に戻す。積み木の山に戻る。何事もなかったように。
母が戻ってきた。
「セレスティア、積み木、上手にできた?」
「みて、おかあさま。おしろつくったの」
積み木で作った不格好な塔を見せる。三歳児の精一杯の建築。
リリアーナは微笑んだ。「まあ、素敵なお城ね。誰が住んでいるの?」
「おかあさまとわたし。おとうさまもおにいさまも、みんないっしょ」
リリアーナの目が潤んだ。「素敵ね。みんなで一緒に住めるお城」
母の手がセレスティアの頭を撫でる。
柔らかい手。だが以前より少し骨張ってきている。肉が落ちているのだ。毒のせいで。
時間がない。
母の身体は確実に蝕まれている。
フェリクスが処方箋を確認し、灰銀草の過剰配合に気づくのを待つ余裕が、どれだけあるか。
焦るな。焦って失敗すれば全てが水の泡だ。
だが母の手の骨の浮き具合を感じるたびに、焦りが胸を締めつける。
「おかあさま」
「なあに?」
「おくすり、きょうはもうのんだ?」
「お昼に飲んだわよ。夜ご飯の前にもう一回飲むの」
「にがかった?」
「少しだけね」
少しだけ。母はいつもそう言う。だが本当は「少し」ではないのかもしれない。味覚が鈍っている可能性がある。灰銀草の長期摂取は味覚障害も引き起こす。
セレスティアは積み木の城を見つめた。
不格好な塔。すぐに崩れそうな、危うい構造。
今の公爵家と同じだ。外から見れば立派だが、内側に毒が回っている。一つ間違えれば崩壊する。
この城を、本物の城に建て替えなければ。
土台から。一つずつ。
「おかあさま、あしたもくるね」
「ええ、いつでもいらっしゃい。お母様は待っているわよ」
待っていて。
もう少しだけ、待っていて。
必ず助けるから。
セレスティアは母の部屋を出た。
廊下の窓から夕焼けが見える。赤い空。
赤。血の色に似ている。
断頭台の記憶がちらついたが、振り払った。
今は前を見る。
母を救う。それが最優先だ。
他のことは全て、その後でいい。




