お抱え医師の秘密
ローレンツ医師は善人だった。
それが問題を複雑にしている。
五十代半ば。丸い眼鏡に白衣。穏やかな笑顔。公爵家に三十年仕えた古株の医師で、エドヴァルトの出産にも、フェリクスの百日咳にも、セレスティアの誕生にも立ち会っている。公爵家の人間の健康を誰よりも知る男。
前世のセレスティアは、ローレンツを「母を殺した医者」として恨んだことがある。独房の中で、恨む相手を探していた時期に。だが冷静に考えれば、ローレンツが意図的に毒を盛ったとは考えにくい。
先生は、患者を見ない人ではない。母の顔色も、脈も、食欲も、三十年の経験で誰より細かく診ている。
それでも王宮医師団から届く処方箋と、認証印のある薬材証明書までは疑えなかった。地方の診療室では、粉末にされた薬材の濃度を正確に量る設備がない。規格書が偽造されているなら、経験だけで見破るのは難しい。
処方箋と薬の実物が一致しているかを証明する。その役目は、フェリクスに託した。
◇
セレスティアが書庫で母の薬について問いかけてから、三日が過ぎた。フェリクスが動いたのは、その朝だった。
書庫で薬草学の本を読み込んだフェリクスは、学者の好奇心に駆り立てられ、ローレンツの診療室を訪ねた。
セレスティアはその場にいなかった。いるべきではなかった。十三歳の少年が医師に質問するのは自然だが、三歳の妹が同席していたら不自然だ。
だがナターシャがまだいない今、情報を得る手段は限られている。セレスティアは書庫の近くで待った。フェリクスが戻ってくるのを。
一時間後、フェリクスが戻ってきた。
手に紙を持っている。セレスティアの心拍が上がった。
フェリクスは書庫の自分の机に座り、紙と小さな薬包を広げた。処方箋と薬材証明書の写し、それにローレンツが比較用に分けてくれた灰銀草製剤の試料だ。
セレスティアはフェリクスの足元に座った。積み木を持ってきているから、遊んでいるように見える。だが耳はフェリクスの呟きに集中していた。
フェリクスは処方箋、薬材証明書、薬草学の本を見比べた。
処方箋は、王宮医師団の標準製剤を一日二グラム。証明書には「灰銀草一、基剤三の四倍希釈」とある。書面通りなら、実際の灰銀草は0.5グラム。安全な薬効量だ。
だがフェリクスは、試料を水に溶かした。灰銀草の成分だけに結合する試薬を加え、沈殿を濾し取り、乾かして重さを量った。王立学術院の薬材定量法。医師の診療器具ではできないが、学者の実験器具ならできる。
天秤の皿が傾いた。
「……証明書と、合わない」
低い声。独り言。だがセレスティアの耳は一語も聞き逃さない。
「基剤が、ほとんど入っていない。これは希釈製剤じゃない。灰銀草そのものが、一日あたり二グラム。表示の四倍じゃないか」
セレスティアの拳が握りしめられた。
四倍。
薬効量の四倍の灰銀草が、毎日、母の身体に入っている。
いつからこの濃度になったのかは、まだ分からない。
母の身体がどれだけ蝕まれているか。想像するだけで吐き気がする。
フェリクスはさらに計算を続けた。
「長期摂取の致死量は……累積摂取量を体重あたりで計算すると……母上の体重を五十キロとして……」
ペンが止まった。
フェリクスの呼吸が止まった。
長い沈黙。書庫の埃が、光の中を舞っている。
「……あと、二年」
フェリクスの声が震えていた。
「このまま飲み続けたら、あと二年で致死量に達する」
その言葉を聞いた瞬間、視界が白く弾けた。
前世の朝が蘇る。母の部屋。白百合の匂い。カーテンの隙間から差す秋の光。冷たくなった母の手を握りしめている七歳の自分。「おかあさま、起きて」と繰り返す声。起きない。もう起きない。
呼吸が乱れた。三歳の肺が痙攣するように収縮する。積み木を握る手が白くなり、全身が震え始めた。
だめだ。ここで取り乱すわけにはいかない。フェリクスに気づかれる。
間に合う。今世は間に合う。まだ母は生きている。まだ温かい。
歯を食いしばり、呼吸を整えた。三歳の身体が言うことを聞くまで、何度も何度も息を吸って吐いた。
あと二年。前世では七歳で母が死んだ。今は三歳だから、前世の記憶だけを頼りにすれば、あと四年あるはずだった。だがフェリクスの計算は、現在の投与量を前提にしている。配合が途中で変わっていたのなら、前世の死期を今世にそのまま当てはめてはいけない。
いずれにせよ、猶予はない。
フェリクスは椅子から立ち上がった。処方箋と薬材証明書の写し、定量結果を手に。
「セレス、ここで待ってろ。すぐ戻る」
兄は足早に書庫を出た。その足は父の書斎に向かっていた。
セレスティアは一人、書庫に残された。
動いた。フェリクスが動いた。
王都の薬材認証が偽装されていることに気づき、父に報告しに行った。
自分が仕組んだ通りに。
だが喜べなかった。
「あと二年」という数字が頭にこびりついている。
母を殺す毒が、今この瞬間も母の臓器を侵している。
一日でも早く止めなければ。
◇
フェリクスが父の書斎に駆け込んだ後、何が起きたかをセレスティアが知ったのは、夕食の席だった。
食堂の空気が、いつもと違っていた。
公爵の表情は変わらない。相変わらず冷徹な仮面だ。だが目の奥に怒りの火が灯っている。静かな、だが灼熱の怒り。
エドヴァルトは口を引き結んでいる。普段の豪快さが消えている。
フェリクスは俯いている。自分が発見した事実の重さに押しつぶされそうになっている。
リリアーナだけが、何も知らない顔で微笑んでいた。
「今日はみんな静かね。何かあったの?」
誰も答えなかった。
セレスティアは母の横に座りながら、母の顔を見上げた。
笑っている。何も知らずに、無邪気に笑っている。
その笑顔に、前世の記憶が重なった。死の朝、最後に見せた母の微笑み。あの時も同じ顔だった。自分がもうすぐ死ぬとも知らず、娘に笑いかけていた。
涙が滲みそうになった。テーブルの下で小さな拳を握りしめ、堪えた。
生きている。母は今、生きている。それを確認するように、母の袖にそっと触れた。温かい。
セレスティアは家族の顔を一人ずつ見た。
父は動く。確実に。この男は家族を害する者を許さない。
問題は、どう動くか。
食後、公爵がフェリクスとエドヴァルトを書斎に呼んだ。
セレスティアはついていこうとしたが、マルガレーテに止められた。
「お嬢様、もう就寝のお時間ですよ」
仕方なく寝室に戻った。だが眠れるはずがない。
ベッドの上で目を開けたまま、天井を見つめた。
父は今、何を話しているだろう。
薬材証明書の偽装。灰銀草の過剰配合。母への毒殺疑惑。
ローレンツ医師をどうするか。処方箋の出所を追うか。
そして――ディートリヒの名前は出るだろうか。
まだ早い。ディートリヒと処方箋を直接結びつける証拠はない。
薬庫の管理権を持っているという状況証拠だけでは、公爵は動かない。
だが疑惑の種は蒔かれた。
公爵が薬材証明書の出所を調べれば、王宮医師団に辿り着く。
王宮医師団と宰相派の繋がりが浮かび上がれば、「公爵家に敵がいる」という認識が生まれる。
そうなれば、ディートリヒへの監視も強まるはずだ。
一歩ずつ。外堀から埋めていく。
◇
翌朝、セレスティアが母の部屋を訪ねると、サイドテーブルから薬壺が消えていた。
「おかあさま、おくすりは?」
「ローレンツ先生が、お薬を新しく作り直すって。少しお休みですって」
リリアーナは何も知らない。夫と息子たちが昨夜何を話したか。
だがセレスティアは理解した。
公爵が動いた。
薬を止めさせた。処方箋を精査し、新しい薬が安全だと確認されるまで投薬を中断。
最初の一手が成功した。
母の身体に入る毒が、今日から止まる。
完全に止まる。
セレスティアは母に抱きついた。
「おかあさま、よかった」
「あら、何がよかったの?」
「おかあさまがげんきになる」
リリアーナは不思議そうに笑ったが、娘を抱きしめ返してくれた。
セレスティアは母の胸に顔を埋めながら、静かに涙を流した。
泣いているのは三歳の子供ではない。
十八歳の少女だ。
前世で母を失い、その喪失を十一年間抱えて生きた少女が、今世で母を救えた喜びに泣いている。
まだ終わっていない。毒を止めただけだ。
犯人の追及はこれからだ。
母の身体の回復もこれからだ。
宰相派との戦いも、まだ始まったばかりだ。
だが今この瞬間、母の心臓の音を聞きながら、セレスティアは目を閉じた。
窓の外で、春の鳥が鳴いていた。
窓辺のスノードロップが、午前の光の中で静かに揺れていた。




