兄という存在
エドヴァルト・フォン・アルヴェインは、嵐のような男だった。
声が大きい。歩幅が広い。笑い声は廊下の端まで響く。公爵家の跡取りとしてはやや粗野だが、それを補って余りある豪快さと誠実さがある。騎士修行から一時帰還したエドヴァルトは、実家にいる間、まるで太陽のように屋敷を照らしていた。
「セレス! 今日は天気がいいぞ! 庭で遊ぶか!」
朝食の席で、エドヴァルトは末の妹に声をかけた。
公爵が眉を顰める。食事中に大声を出すなという無言の叱責だ。エドヴァルトは「すみません」と首を竦めるが、反省の色は三秒で消える。この兄はそういう人間だ。
セレスティアは頷いた。「いく」
前世のセレスティアは、この兄との記憶が少ない。
十五歳年上。セレスティアが物心ついた頃にはエドヴァルトは騎士修行に出ており、帰還するのは年に数回。幼い妹と青年の兄の間には、接点が少なかった。
母が死んだ七歳の時、エドヴァルトは遠方の任地にいて葬儀に間に合わなかった。戻ってきた時には、妹は既に心を閉ざしていた。
その後も兄と妹の関係は疎遠なまま推移した。エドヴァルトは妹を気にかけてはいたが、不器用な男だった。繊細な妹に何を言えばいいか分からず、結局何も言わなかった。
そしてセレスティアが処刑される時――
エドヴァルトは貴族院に乗り込んだ。
剣を帯びたまま議場に押し入り、「妹は無実だ! 裁判をやり直せ!」と叫んだ。
近衛騎士に取り押さえられた。
それでも叫び続けた。「セレスティアは何もしていない!」
その後、エドヴァルトは「行方不明」になった。
宰相派による暗殺だと、後にセレスティアは独房で知った。
兄の遺体は発見されなかった。
あの声が、今も耳に残っている。
「妹は無実だ」という叫びが。
この世で唯一、セレスティアのために剣を抜いてくれた人の声が。
◇
庭に出た。
三月の庭は、まだ冬枯れの名残がある。だが日差しは温かく、風は柔らかい。花壇の隅にクロッカスが顔を出し、生垣の根元にはフキノトウが芽吹いている。
エドヴァルトはセレスティアを肩車して歩いた。
十八歳の青年の肩の上は高い。三歳の視界からは見えなかった景色が広がる。
「セレス、あの山が見えるか? あの向こうに王都がある」
「おうとはとおい?」
「馬車で五日だな。だが馬なら三日で行ける。俺が馬を飛ばせば二日だ」
「おにいさま、おうまじょうず?」
「当然! 騎士だからな!」
エドヴァルトは胸を張った。肩の上のセレスティアが揺れる。
「わっ、おちる!」
「落とすわけないだろ。兄がしっかり持ってるから安心しろ」
大きな手がセレスティアの足をしっかりと支えている。
この手なら安心だ。この手は裏切らない。
芝生の上を歩きながら、エドヴァルトは自分の騎士修行の話をしてくれた。
「ヴァイスハウプト辺境伯の屋敷で修行してるんだが、あそこは厳しいぞ。朝日が出る前に起こされて、日が沈むまで剣を振る。飯は固いパンと塩漬け肉だけだ」
「おいしくないの?」
「まずい! だが腹が減れば何でもうまい!」
ガハハ、と笑う。この兄の笑い声を聞いていると、世界が明るくなる気がする。
「でもな、辺境伯は厳しいが公平な人だ。身分に関係なく、実力で評価してくれる。俺が貴族の子だからって甘やかさない。平民の騎士見習いと同じ扱いだ。最初はムカついたが、今は感謝してる」
「おにいさま、あぶないことした?」
「ん? ああ、この間な、山賊討伐の演習で一人で先行しすぎて辺境伯にこっぴどく怒られた。『お前が死んだら公爵家に顔向けできん!』って」
笑って話している。本人には危機感がない。
――だから前世で死んだのだ。この兄は。まっすぐすぎて、一人で突っ込んで、誰にも止められない。
気がつくと、セレスティアはエドヴァルトの襟を掴んでいた。
三歳の小さな手で、力の限り。爪が布地に食い込んでいる。
「だめ。ひとりでいっちゃだめ」
声が違った。三歳の甘えた声ではなかった。低く、切迫した、大人の声色。
エドヴァルトの目が丸くなった。三歳の妹の顔に、およそ子供らしくない何かが浮かんでいる。恐怖でも悲しみでもない。もっと深い、もっと切実な感情。
「セレス……?」
はっとした。手を離した。指が強張っていて、すぐには開かなかった。
「……ごめんなさい。こわいゆめ、おもいだしちゃった」
慌てて取り繕う。だが声はまだ震えている。三歳児の仮面が、一瞬だけ完全に剥がれた。
エドヴァルトは何も言わなかった。ただ妹の頭をそっと撫でた。
ヴァイスハウプト辺境伯。後に公爵家の味方になる人物だ。エドヴァルトがその弟子であることは、将来の布石になりうる。
「おにいさま、けんがつよくなった?」
「ああ! 辺境伯の屋敷に来た時は百人中八十番目だったが、今は十番以内に入った!」
「すごい。一ばんになれる?」
エドヴァルトは少し考えて、正直に答えた。
「一番は無理かもな。一番は辺境伯の息子のコンラートだ。あいつは天才だ。六歳なのに大人の騎士見習いを打ち負かす」
コンラート。後にセレスティアの味方になる少年。エドヴァルトの口からその名前が出るとは。
「コンラートくん、つよいの?」
「強い。だがそれ以上に、真っ直ぐだ。正義感の塊みたいな子だ。ああいう奴がいると、自分も背筋が伸びる」
エドヴァルトの声に尊敬がこもっている。年下の子供に対してでも、認めるべき相手は素直に認める。この兄の美徳だ。
芝生を一周して、エドヴァルトはセレスティアを下ろした。
地面に座り、目線を合わせる。
「なあ、セレス」
「なに?」
「お前、最近変わったな」
心臓が跳ねた。
「かわった?」
「ああ。前はもっと……何て言うか、静かだった。おとなしくて、何も言わなくて。俺が帰ってきても、あまり反応しなかった」
当然だ。前世の三歳のセレスティアは、普通の三歳児だった。特に聡明でもなく、特に活発でもない、ごく普通の公爵家の末娘。
今のセレスティアは違う。十八年分の意志を持った三歳児。差は歴然だ。
兄に気づかれるのは想定内ではあったが、具体的にどう反応すべきか。
「でもよ」
エドヴァルトは続けた。
「良い変わり方だと思う。お前は前より生き生きしてる。父上に話しかけたり、フェリクスの書庫に行ったり。いいことだ」
追及する気はないらしい。エドヴァルトは細かいことを気にしない男だ。妹が活発になったことを、単純に喜んでいる。
セレスティアは安堵しつつ、次の言葉を選んだ。
「おにいさま」
「ん?」
「おにいさまは、しんじてくれる?」
「何をだ?」
「わたしが、なにかいったとき。しんじてくれる?」
エドヴァルトは首を傾げた。三歳児の質問としては抽象的すぎる。だがこの兄は、言葉の意味が分からなくても、妹の目を見て答えてくれる。
「当たり前だ。妹の言うことを信じない兄がいるか」
即答だった。一片の迷いもない。
前世でも、この兄だけは信じてくれた。
裁判の最中も、処刑が決まった後も、最後の最後まで。
そしてそのために命を落とした。
涙が出そうになった。堪えた。ここで泣いたらおかしい。
だが声が震えるのは止められなかった。
「おにいさま」
「おう」
「しなないで」
また同じことを言ってしまった。二度目だ。最初は肩車の時に。今日で二回目。
エドヴァルトの表情が変わった。
先日は軽く受け流した言葉だが、二度繰り返されると、さすがに引っかかるものがあるのだろう。
「セレス。なんで俺が死ぬと思うんだ?」
まっすぐな目で聞いてくる。嘘を言えない目だ。
セレスティアは必死に言葉を選んだ。三歳児の語彙で、核心に触れずに。
「……こわいゆめみたの。おにいさまがいなくなるゆめ」
エドヴァルトの目が柔らかくなった。
妹が悪夢を見ている。兄がいなくなる悪夢を。
それは三歳児としてはありうることだ。分離不安。大好きな人がいなくなる恐怖。
エドヴァルトは大きな手でセレスティアの頭を包み込んだ。
頭全体を覆うほどの手。剣だこだらけの、だが温かい手。
「夢だよ、セレス。夢は本当にはならない」
違う。あの夢は本当になった。前世では。
「俺はどこにも行かない。百まで生きる。約束しただろ?」
「やくそく」
「ああ、約束だ。男に二言はない」
エドヴァルトが笑った。白い歯を見せて、豪快に。
その笑顔が眩しかった。
前世では見られなかった笑顔。十八歳の妹は、この笑顔を知らなかった。
兄が殺された後に届いた手紙だけが、兄の最後の言葉を伝えた。
「セレスティアを頼む」と、父に宛てた手紙。
父はその手紙を読んだのだろうか。読んだとして、何を思ったのだろうか。
考えるな。前世のことは。
今を見ろ。この笑顔を。
この笑顔を守るためにこそ、二度目の人生がある。
「おにいさま」
「なんだ?」
「だいすき」
エドヴァルトは一瞬固まり、それから顔を真っ赤にした。
十八歳の青年騎士が、三歳の妹の「大好き」で赤面する。
「お、おう。俺もだ。お前は俺の大事な妹だ」
照れ隠しに頭を掻きながら、立ち上がる。
「よし、そろそろ中に戻るか。フェリクスの奴も引きずり出して、みんなで茶でも飲むか」
「うん!」
エドヴァルトがセレスティアの手を引いて歩き出す。大股の兄に三歳の妹が必死についていく。歩幅が違いすぎて、セレスティアはほとんど走っている。
「おにいさま、はやい!」
「おっと、すまんすまん」
エドヴァルトが歩幅を縮める。
この兄は、妹のペースに合わせてくれる。
前世では、その機会がなかっただけで。
◇
屋敷に戻ると、書庫の前でフェリクスと合流した。
「フェリクス! 茶を飲むぞ! 付き合え!」
「今忙しいんだが……」
「いいから来い! セレスが寂しがってるだろ!」
フェリクスはため息をつきつつ、本を閉じて立ち上がった。
兄二人とセレスティアが、母の部屋に向かう。
リリアーナは二人の息子と末の娘が揃って来たことに驚き、嬉しそうに笑った。
「まあ、三人揃うなんて珍しいわね。マルガレーテ、お茶をお願い」
マルガレーテが紅茶を淹れ、クッキーを並べる。
エドヴァルトが大声で騎士修行の武勇伝を語り、フェリクスが「それは物理的に不可能だ」とツッコミを入れ、リリアーナが笑い、セレスティアがクッキーをかじる。
何でもない時間。家族が揃って、笑っている時間。
ふと、廊下に気配がした。
母の部屋の扉は半開きだった。その隙間の向こう、廊下の薄暗がりに、人影が一つ。立ち止まり、部屋の中を見ている。
セレスティアがクッキーを口に運ぶ振りをしながら目を向けた時、影はもう消えていた。足音もなく。
誰だったのか。使用人か。それとも。
背中を冷たいものが伝ったが、笑顔は崩さなかった。
前世にはなかった。
母が生きている間にも、家族が揃ったことは殆どなかった。父は仕事で不在。エドヴァルトは修行先。フェリクスは書庫。セレスティアはいつも一人だった。
今世では違う。
この時間を、自分の手で作った。
フェリクスを書庫から引きずり出し、エドヴァルトに庭で遊ぼうと言い、母の部屋に行こうと提案した。
三歳の子供が、家族の時間を設計している。
誰もそのことには気づいていない。
これでいい。
気づかなくていい。
ただ笑っていてくれればいい。
セレスティアはクッキーをかじりながら、家族の笑い声に包まれていた。
小さな幸福。だがこの幸福の下には、毒と裏切りと陰謀が蠢いている。
この笑い声を守るために、明日からまた戦う。
三歳の戦士は、クッキーの欠片を口の端につけたまま、静かに決意を新たにした。




