夜泣きの理由
夜が怖い。
昼間は大丈夫だ。頭を働かせ、計画を練り、家族を観察し、戦略を立てる。思考が止まらない限り、恐怖は奥に引っ込んでいる。
だが夜が来ると、思考が止まる。
身体が眠りを求め、意識が薄れ、理性の壁が崩れる。
その隙間から、あれが這い出してくる。
断頭台の記憶。
毎晩のように夢を見た。
今夜も同じだった。
夢の中で、セレスティアは十八歳に戻っていた。処刑広場。群衆の声。鎖の重さ。断頭台の階段を上る足。
膝をつく。首を置く。木の匂い。血の匂い。
アレクシスの無感動な目。青い空。
そして――刃の音。
金属が空気を裂く。高い音ではない。重い音だ。鋭いのに重い。世界を断ち切る音。
首に冷たいものが触れる刹那――
「いやあぁぁぁっ!!!」
目が覚めた。
闇。天蓋。レースの縁飾り。自分の部屋だ。
身体が震えている。全身が汗で濡れている。寝間着が肌に張り付いている。
首に手を当てた。繋がっている。首はある。切られていない。
だが感触が残っている。冷たい金属が首筋に触れた、あの一瞬の感触が。
吐き気がこみ上げた。
ベッドの端に身を乗り出し、嗚咽する。胃の中身は殆ど出ない。三歳の胃は小さく、夕食から時間が経っている。空えずきだけが繰り返される。
涙が止まらない。
鼻水も止まらない。
情けない。十八歳の精神を持つ人間が、毎晩こんな醜態を晒している。
だが止められない。これは理性で制御できるものではない。
足音が聞こえた。
一つではなかった。廊下の奥から近づいてくる早足の足音。それとは別に、もう一つ。遠く、部屋から離れていく足音があった。
誰かが先に来て、立ち止まって、去っていった。そんな足音。
だが今のセレスティアにそれを聞き分ける余裕はなかった。
扉が開いた。
「お嬢様!」
マルガレーテだった。寝間着の上に羽織り物を引っかけ、髪は乱れたまま。隣の部屋で寝ているマルガレーテは、セレスティアの叫び声で飛び起きたのだろう。
蝋燭の灯りがマルガレーテの手の中で揺れている。その柔らかな光が、闇を押しのける。
「お嬢様、大丈夫ですよ。マルガレーテがおりますよ」
ベッドに駆け寄り、セレスティアを抱きしめる。
温かい腕。柔らかい胸。マルガレーテの匂い。石鹸とラベンダーの匂い。
セレスティアはマルガレーテにしがみついた。
三歳の小さな手で、侍女の寝間着を握りしめた。
「こわい……くび、きられるの……こわい……」
声が震える。幼児の声が、恐怖で引き裂かれている。
「何が怖いのです? 悪い夢を見たのですか?」
悪い夢。そう、悪い夢だ。だが、この夢には現実の記憶という元がある。
実際に起きたことだ。自分が、本当に経験したことなのだ。
首を切られた記憶が、毎晩蘇る。
「くびが……くびがきられる」
マルガレーテの腕が強くなった。
三歳の子供が、首を切られる夢を見る。普通ではない。
マルガレーテもそれは分かっているはずだ。
だがこの侍女は問い詰めない。追及しない。
ただ抱きしめて、背中をさすって、子守唄を口ずさむ。
「大丈夫ですよ、お嬢様。怖い夢はマルガレーテが食べてしまいますからね」
食べてしまう。
前世でも同じことを言ってくれた。幼い頃、悪夢にうなされる度に。
あの頃は何の悪夢だったのだろう。普通の子供の悪夢。暗い場所が怖い。大きな音が怖い。そんな程度の怖さだった。
今の悪夢は違う。実体験に基づく恐怖だ。
前世の処刑の記憶が、傷になって残っている。
癒えない傷。眠るたびに開く傷。首を落とされた記憶が、毎晩蘇って襲いかかる。
三歳の身体に、十八年分の恐怖の記憶。
この身体は小さすぎて、この恐怖を収めきれない。
◇
マルガレーテに抱かれたまま、少しずつ呼吸が落ち着いてきた。
震えが止まるまで、どれくらいかかっただろう。体感では何時間にも感じたが、実際は二十分ほどかもしれない。
マルガレーテは一度もセレスティアを離さなかった。
腕の力を緩めず、背中をさすり続け、低い声で歌を歌い続けた。
古いヴァルトブルクの子守唄。公爵領の農村に伝わる歌。
「月よ月よ おいでなさい
こわい夢を つれていって
朝がくれば ひかりがくる
ひかりがきたら もうだいじょうぶ」
単純な歌詞。単純な旋律。
だがその素朴さが、今のセレスティアには何よりの薬だった。
涙が乾いてきた。嗚咽が止まった。
マルガレーテの胸に顔を埋めたまま、セレスティアは小さな声で言った。
「マルガレーテ」
「はい、お嬢様」
「わたし、おかしい?」
マルガレーテの手が止まった。一瞬だけ。すぐに再開した。
「何がおかしいのですか?」
「まいばんこわいゆめみるの。おなじゆめ。くびがきられるゆめ」
言ってしまった。言うべきではなかった。三歳の子供がこんなことを繰り返し言えば、「魔物憑き」を疑われる。この世界では、悪霊や魔物が人に取り憑くと信じられている。異常な言動は魔物の仕業とされ、最悪の場合、神殿で「浄化の儀式」を受けさせられる。
だがマルガレーテには嘘をつきたくなかった。
この人だけには。
マルガレーテは長い沈黙の後、セレスティアの髪を撫でた。
「お嬢様。マルガレーテは、難しいことは分かりません」
穏やかな声だった。戸惑いを押し隠すための声ではない。受け入れようとする声だった。
「でもお嬢様が怖い思いをしていることは分かります。毎晩泣いていることも分かります。お嬢様の手が震えていることも、金属の音で竦むことも、分かっています」
隠しているつもりだった異変は、とうに気づかれていた。
あの日――三歳の朝に目覚めてから、セレスティアは自分の異常を隠しているつもりだった。だがマルガレーテは、悪夢とその後に残る恐怖を最初から見ていたのだ。
「おかしいとは思いません。お嬢様はお嬢様です。怖い夢を見るお嬢様も、泣いているお嬢様も、全部マルガレーテの大切なお嬢様です」
「……だれにもいわない?」
「誰にも言いません。お嬢様と、マルガレーテだけの秘密です」
セレスティアは目を閉じた。
安堵が全身に広がる。信じられる人がいる。無条件に味方でいてくれる人がいる。
前世では、この腕を七歳で失った。
母が死に、マルガレーテが解雇された後、マルガレーテのように、悪夢のたびにセレスティアを抱きしめてくれる腕はなくなった。
それでも、味方まで失ったわけではない。エドヴァルトは最後まで妹の無実を信じ、命を懸けて助けようとしてくれた。ヘルマンは父に直訴し、フェリクスは秘密の手紙を送った。ナターシャは処刑前夜まで独房へ通い、前世で専属護衛を務めた寡黙な騎士ヴォルフは、独房の前に立ち続けた。名も知らない神官も、処刑前夜に聖水を届けてくれた。
彼らは誰一人、セレスティアを見捨ててはいなかった。それでも、宰相が築いた壁を越えて救い出すことはできなかった。皆の手が届かない場所で、セレスティアは処刑台へ送られた。
今世は違う。
この温もりを手放さない。
「マルガレーテ、ここにいて。あさまで」
「はい、お嬢様。朝までずっとおりますよ」
マルガレーテはベッドの端に腰かけ、セレスティアの手を握ったまま、子守唄を歌い続けた。
セレスティアは薄れていく意識の中で考えた。
この人を守らなければ。
前世では、ディートリヒの進言でマルガレーテは解雇された。母の死後、公爵家の人員整理という名目で。ディートリヒにとってマルガレーテは邪魔だったのだ。忠実な侍女が傍にいると、セレスティアの監視がしにくい。
ディートリヒを排除すれば、マルガレーテは残る。
母を救えば、解雇の理由もなくなる。
全ては繋がっている。
母を救うこと。ディートリヒを排除すること。マルガレーテを守ること。公爵家を固めること。
一つの糸を引けば、全てが動く。
だが今夜は考えるのをやめよう。
今夜だけは、三歳の子供に戻っていい。
マルガレーテの手の温もりに包まれて、眠っていい。
子守唄が遠くなる。
意識が沈んでいく。
今夜は――もう、悪い夢を見ないかもしれない。
マルガレーテの手の中で、蝋燭の灯りが揺れていた。
ただの火なのに、セレスティアにはもっと温かく、もっと優しい光に見えた。
この世で最も頼りない、そして最も確かな光。
セレスティアは眠った。
三歳の少女として。十八歳の亡霊として。
二つの人生を抱えたまま、侍女の手の中で。
朝が来た時、セレスティアの頬には涙の跡が残っていた。
だが口元には、微かな笑みが浮かんでいた。
マルガレーテはそれを見て、そっと涙を拭いてやった。
「おはようございます、お嬢様。今日もいい朝ですよ」
セレスティアは目を開いた。
マルガレーテがいる。朝日がある。
まだ生きている。
まだ戦える。
「おはよう、マルガレーテ。きょうもがんばるね」
マルガレーテは微笑んだ。けれど目の下には、うっすらと疲れの影があった。一晩中、セレスティアの手を握っていたのだ。
「マルガレーテ、きのう、ねてないでしょう」
「これくらい平気ですよ」
「だめ。きょうはおひるにやすんで。わたし、ひとりでおひるねできるから」
マルガレーテは目を丸くして、それから柔らかく笑った。
「承知いたしました。お嬢様がお昼寝なさる間に、私も休ませていただきます」
「やくそく」
「はい、お約束です」
あなたがいてくれるから、大丈夫。
だから、あなたのことも大切にしたい。




