最初の一手
薬が止まって一週間が経った。
母の顔色が、目に見えて変わった。
頬にうっすらと血色が戻り始めている。目の下の隈が薄くなった。朝食の量が少し増えた。ベッドから起き上がる時間が長くなった。窓辺の鉢植えに水をやるだけで息切れしていたのが、廊下を少し歩けるようになった。
毒が止まるだけで、人はこれほど回復するのか。
逆に言えば、あの毒はそれほど深く母を蝕んでいたのだ。もし気づかなければ――もしフェリクスが処方箋を調べなければ――あと二年で母は死んでいた。前世より一年遅いか早いかの違いだけで。
リリアーナ本人は自分の回復に驚いている。
「お薬をお休みしただけで、こんなに体が軽くなるなんて。不思議ね」
不思議ではない。薬が毒だったのだから、止めれば楽になるのは当然だ。
だが母にはまだ真実を伝えていない。
公爵の判断だ。「リリアーナには余計な心労をかけたくない」と。
セレスティアも同意する。今はまだ時期ではない。
◇
問題は、ここからだった。
薬を止めた。母は回復に向かっている。だが犯人は捕まっていない。
処方箋の出所は「王都の王宮医師団」。だが王宮医師団に「なぜ毒性量の灰銀草を指示したのか」と問い合わせることは、公爵の立場では簡単ではない。
王宮医師団は王家直轄の機関だ。一介の公爵が「処方箋がおかしい」と抗議すれば、「医師団の権威を疑うのか」と反発を買う。まして宰相がその裏にいるなら、問い合わせた瞬間に証拠を隠滅される。
公爵もそれは分かっている。
だから慎重に動いている。表向きは「奥方の体調が回復したため薬を中断した」という体裁を取り、王都には何も報告していない。
だがセレスティアには、もう一つの狙いがあった。
母の薬の問題を解決しただけでは不十分だ。公爵家の中にいる内通者――ディートリヒを排除しなければ、宰相派は何度でも手を伸ばしてくる。
ディートリヒの尻尾を掴む。
それが次の一手だ。
セレスティアはこの一週間、ディートリヒの行動を観察していた。
三歳児にできる観察は限られている。直接尾行はできない。だがマルガレーテと一緒に屋敷の中を歩くことで、ディートリヒの動きを断片的に把握できる。
ある日の午後、廊下でディートリヒとすれ違った。
柔和な笑みを浮かべて「お嬢様、ご機嫌よう」と声をかけてくる。その声の温かさが、背筋を凍らせた。
すれ違いざま、ディートリヒが付け加えた。
「奥方様のお薬が変わったそうですね。ご体調がよろしくなられたと聞いて安心しました」
何気ない一言。家臣として主家の夫人を気遣う、当然の言葉。
だがセレスティアの足が止まった。この男は知っている。薬が変わったことを。公爵が何かを調べていることを。
振り向いてはいけない。三歳の顔が強張っているのを悟られてはいけない。
「おくすりかわったの、よかったね」
声が裏返らなかったのは奇跡だった。
午前中は公爵の執務室。昼は家臣団の食堂。午後は領地の巡回か、薬庫の管理。夕方は自室。規則正しい行動パターン。隙がない。
だが一つだけ、不規則な動きがあった。
三日に一度、ディートリヒは「急用」で屋敷を出る。
行き先は「領内の視察」と申告している。
だが実際にどこに行っているのか、誰も確認していない。
三日に一度。
それは前世でもそうだった。ディートリヒは定期的に領地を出て、王都との連絡を取っていた。宰相派への報告と指示の受け取り。
だが三歳のセレスティアがディートリヒを尾行することはできない。
ヘルマンに頼むか? いや、まだ直接的にヘルマンを動かすのは早い。ディートリヒが警戒する。
別の方法を考える。
◇
「おとうさま」
公爵の書斎を訪ねた。午後三時。公爵は執務中だが、セレスティアの訪問を拒まなくなっていた。ディートリヒ事件――いや、まだディートリヒの名前は出ていないが、母の薬の一件以来、公爵はセレスティアの言葉に注意を払うようになっている。
「なんだ、セレスティア」
「おかあさまのおくすりのこと」
公爵の手が止まった。ペンを置く。
「どうした」
「おくすり、にがかったの。まえからずっと。でもおかあさまは『すこしだけ』っていってた」
セレスティアは三歳児の語彙で、できるだけ明確に伝えた。
「おくすりがにがいのは、おかあさまがずっとまえからきづいてた。でもだれもしらべなかった」
公爵はセレスティアを見つめた。
この子はまた的確なことを言っている。三歳児らしからぬ観察力。以前の灌漑の件もそうだった。偶然ではない。
だが公爵は追及しなかった。代わりに、別のことを聞いた。
「セレスティア。お前は薬に毒が入っていたと知っていたのか」
直球の質問。公爵は回りくどいことをしない男だ。
セレスティアは迷った。
どこまで明かすべきか。全てを言えば「前世の記憶がある」という超常現象を説明しなければならない。それは危険だ。
だが何も言わなければ、公爵は動かない。
三歳児の言葉を信じるほど、この父は甘くない。
ギリギリの線を選ぶ。
「……しらなかった。でも、こわかった」
「怖かった?」
「おかあさまがどんどんよわくなってくのがこわかった。おくすりのんでるのによくならないのがこわかった。だから……おにいさまにしらべてっておねがいした」
嘘ではない。事実のごく一部。
三歳児が母の衰弱を心配し、兄に相談した。それだけのことだ。
公爵は長い沈黙の後、息を吐いた。
「……そうか」
それだけだった。追及はしない。だが目の色が変わった。
この子は「偶然」母の異変に気づいたのではない。意図的に観察し、兄を動かし、問題を浮上させた。三歳児が。
公爵の目が変わった。値踏みの目。政治家が有用な駒を見る目。
セレスティアはそれでいい。使われるなら使われよう。
道具は壊さない。手入れをする。
「愛」ではない。だが今は「守られること」の方が重要だ。
愛は、後から育てればいい。
「おとうさま」
「なんだ」
「おくすりのつくりかた、おうとからくるんでしょ? おうとのだれがきめてるの?」
公爵の目が鋭くなった。
これは三歳児の質問ではない。政治的な質問だ。
だがセレスティアは無邪気な顔を保った。子供の好奇心。ただの「なぜなぜ」。
公爵は答えなかった。代わりに、微かに口角を上げた。
笑顔ではない。だが完全な無表情でもない。
「……お前は面白い子だな」
それだけ言って、公爵は再びペンを取った。
書斎を出る時、セレスティアは背中に公爵の視線を感じた。
観察されている。分析されている。
だがそれでいい。
父がセレスティアに関心を持てば持つほど、この家の結束は強くなる。
公爵が「この子を手放してはならない」と思えば思うほど、セレスティアの安全は確保される。
廊下を歩きながら、セレスティアは次の手を考えた。
父は薬の出所を調べるだろう。王都の医師団に、表向きは穏やかに、裏では鋭く。
フェリクスは母の新しい処方を独自に研究するだろう。安全な薬を。
エドヴァルトは母を守ると腕まくりするだろう。直接的に。
家族が動き始めた。
セレスティアが蒔いた種が、芽を出し始めている。
次の目標はディートリヒだ。
あの男の仮面を剥がし、裏切りの証拠を掴む。
だが焦るな。急いで失敗すれば、ディートリヒは証拠を隠滅し、宰相派に警告を出す。そうなれば取り返しがつかない。
時間をかけろ。三歳の子供にできることを、一つずつ。
セレスティアはマルガレーテの手を握り、自室に戻った。
廊下を歩く足取りが、いつもより重い。手が微かに震えている。
マルガレーテがそれに気づいた。何も言わず、小さな手を両手で包み込むように握り直してくれた。その温もりに、張り詰めていた糸がほんの少しだけ緩んだ。
「マルガレーテ」声がいつもより小さかった。「……つかれた」
三歳の仮面の下で、十八年分の疲労が軋んでいる。
夕日が廊下の窓から差し込み、小さな影が長く伸びる。
小さな影。独房で過ごした夜の数だけ、この影には覚悟が詰まっている。




