断頭台の朝
――首を落とされる音を、私は知っている。
重く、冷たく、絶対的な音。金属が空気を裂き、骨を断つ音。
セレスティア・フォン・アルヴェインは、その音を知っている。
何度も夢で聞いた。いや、夢ではない。これから聞くのだ。本当に。
処刑広場は人で溢れていた。
何百という顔。何千という目。その全てが、鎖に繋がれた一人の少女を見ている。
「死ね!」「悪女!」「処刑だ!」
罵声が石のように降り注ぐ。
だがセレスティアの耳には、もう何も届いていなかった。
足が動く。石畳を踏む。鎖が鳴る。
一歩ごとに断頭台が近づく。木製の階段。五段。数えた。前から数えていた。自分が死ぬ場所の階段が何段あるか、独房の中で何度も想像した。五段だった。想像通りだった。
階段を上る。膝が震える。だが倒れない。倒れてたまるか。
こんな場所で、こんな連中の前で、膝をつくものか。
壇上に出る。風が吹いた。春の風だ。
三月の風は柔らかいはずなのに、肌を刺すように冷たい。
正面に玉座がある。簡易の観覧席に据えられた、金色の椅子。
そこに座っている人物を、セレスティアは見上げた。
アレクシス・レグナシオン。
レグナシオン王国第一王子。王太子。そして――セレスティアの婚約者だった男。
金髪が風に揺れている。端正な顔。青い目。
その目に、何の感情もない。
怒りもない。悲しみもない。後悔もない。
まるで路傍の石を見るような目で、かつての婚約者を見下ろしている。
ただ一瞬だけ、その指が動いた。肘掛けを握る右手の指が、白くなるほど強く、何かを堪えるように。
だがセレスティアがそれに気づく余裕はなかった。
「……そう」
セレスティアは呟いた。声は群衆の喧騒に消える。
分かっていた。分かっていたけれど。
この人は助けてくれない。最初から、最後まで。
処刑執行人が傍に立った。大柄な男。フードで顔の上半分が隠れている。
だが顎と口元は見える。無表情。これも仕事の一つなのだろう。
今日の仕事は、十八歳の少女の首を落とすこと。
「罪人セレスティア・フォン・アルヴェイン」
宣告官の声が広場に響く。
「王太子アレクシス殿下暗殺未遂の罪により、死刑に処す」
暗殺未遂。
嘘だ。何もしていない。何一つ。
毒など持ったこともない。暗殺の計画など考えたこともない。
だが証言があった。証拠があった。全て偽物だ。全て仕組まれたものだ。
法廷で叫んだ。「私はやっていない」と。
誰も聞かなかった。
証人が立った。知らない男が「この女が毒を購入した」と言った。
かつての友人が「この女は王太子を恨んでいた」と証言した。
証拠の小瓶が提出された。セレスティアの部屋から見つかったという毒薬。見たこともないものだった。
弁護人はいなかった。
家族は法廷に来なかった。
父は――来なかった。
公爵は、娘を見捨てた。政治的に切り捨てた。
一人だった。最初から最後まで、一人だった。
「跪け」
処刑執行人の声。低く、事務的な声。
セレスティアは断頭台の前に立った。木製の台。中央に半月形の窪みがある。
首を置く場所。
膝をつく。
冷たい木の感触。ささくれが肌に刺さる。
首を置く。窪みに顎を乗せる。
木の匂いがする。血の匂いも混じっている。前にここで死んだ誰かの。
視界が斜めになる。逆さまの世界。
群衆の足が見える。石畳が見える。空が見える。
春の空は、どうしてこんなに青いのだろう。
「――もう一度」
声が出た。自分の声だと気づくまで一瞬かかった。
「もう一度、やり直せたら」
それは祈りですらなかった。ただの呟き。
神に祈る気力すらなかった。ただ口から漏れた、最後の言葉。
もう一度。
もう一度、最初から。
今度は誰にも騙されない。今度は一人で死なない。
今度は――
刃が落ちる音がした。
◇
天井が見えた。
白い天蓋。レースの縁飾り。金糸の刺繍。
夢だと思った。
そうでなければ説明がつかない。
だが見覚えがある。いや、見覚えどころではない。
この天井を何年も見て育った。
公爵家の、自分の部屋の天蓋だ。
だがおかしい。この天蓋は、もっと遠くにあったはずだ。
子供の頃はこんなに大きく見えたけれど、十五歳を過ぎた頃にはもう――
手を上げた。
小さい。
異様に小さい手が、視界に入った。
指が短い。爪が小さい。柔らかく、ふにふにとした、幼児の手。
息が止まった。
身体を起こそうとした。だが腹筋に力が入らない。
身体が重いのではない。身体が動かし方を知らないのだ。
まるで生まれたばかりの子鹿のように、手足の制御が覚束ない。
なんとか半身を起こした。
周囲を見回す。大きすぎるベッド。大きすぎる枕。大きすぎる部屋。
いや、違う。部屋が大きいのではない。
自分が小さいのだ。
掛け布団を掴んだ。手が小さすぎて、布団の端を握るのがやっとだった。
シーツに映る自分の影。丸い輪郭。短い四肢。
悲鳴が出た。
「ああああぁぁぁっ!!」
子供の声だった。高く、細く、甲高い叫び。
自分の喉から出た声だとは信じられなかった。
だが声は止まらない。恐怖が身体の底から噴き上がる。
さっきまで断頭台にいた。首を落とされた。死んだ。
なのにここにいる。小さな身体で。子供の身体で。
何が起きた。何が起きている。
死んだのではないのか。天国か。地獄か。それとも――
扉が勢いよく開いた。
「お嬢様! お嬢様! どうなさいましたか!」
駆け込んできたのは、中年の女性だった。
丸顔に、柔らかな茶色の髪。白いエプロン。侍女の装い。
その顔を見た瞬間、セレスティアの中で何かが砕けた。
マルガレーテ。
侍女長マルガレーテ。母の元侍女で、セレスティアの養育係。
幼い頃、毎晩子守唄を歌ってくれた人。
母が死んだ後、解雇された人。
もう二度と会えないと思っていた人。
「お嬢様、悪い夢でも見ましたか? 大丈夫ですよ、マルガレーテがおりますからね」
温かい手が頬に触れた。
皺の寄った、けれどどこまでも優しい手。
涙が出た。止めようとしたが無理だった。
十八歳の精神が、三歳の身体の中で崩壊していた。
泣いた。
声を上げて、幼児のように泣いた。
マルガレーテの胸に顔を埋めて、涙と鼻水を流して、みっともなく泣いた。
マルガレーテは何も聞かなかった。
ただ抱きしめてくれた。背中をさすってくれた。
「大丈夫ですよ。大丈夫。マルガレーテがいますからね」
抱きしめられながら、セレスティアは理解した。
戻ったのだ。
あの地獄の前に。全てが始まる前に。
三歳。自分は今、三歳だ。
窓の外から朝日が差し込んでいた。
春の朝日。あの処刑の日と同じ、三月の光。
だがこの光は温かかった。刺すような冷たさはなかった。
涙が止まった。
マルガレーテの腕の中で、セレスティアは目を開いた。
視界が滲んでいる。涙のせいだ。
だがその奥に、確かな光がある。
朝だ。
新しい朝だ。
十五年前の朝。全てが始まる前の朝。
母がまだ生きている朝。父がまだ敵ではない朝。
首がまだ繋がっている朝。
セレスティアは小さな拳を握った。
三歳の、柔らかく、非力な拳を。
これで何ができる。
この小さな手で、何が変えられる。
分からない。
本当は怖い。目を閉じれば刃の音がする。首筋が冷たい。
握りしめた三歳の拳が、小刻みに震えていた。
だが一つだけ決めた。
もう二度と、あの断頭台には上がらない。
もう二度と、一人で死にはしない。
「マルガレーテ」
声が出た。舌が回らない。幼児の舌だ。
だが言葉は出る。意思は伝えられる。
「……マルガレーテ、ここにいて」
「はい、お嬢様。どこにも行きませんよ」
マルガレーテが微笑んだ。
その笑顔を、セレスティアは記憶に刻んだ。
これが最初の一歩だ。
この腕の中から、全てを始める。
私を殺した世界を、この三歳の手で書き換える。
窓の外で、小鳥が鳴いた。
三月の朝。セレスティア・フォン・アルヴェイン、三歳。
二度目の人生が、始まった。




