小さな身体大きな記憶
三歳の身体は、牢獄だった。
一歩でよろめいた。三歩で壁に手をついた。
おかしい、と思った。
三歳児は歩く。走る。飛び跳ねる。昨日までの自分は、そうしていたはずだ。中庭を駆け回った感触が、この脚のどこかに残っている。脚が育っていないのではない。育った脚を、こちらが使えていないのだ。
十八年かけて育った身体の感覚が、まだ全身に残っている。踏み出す幅も、腕を振る間合いも、床までの距離も、最後に使っていた十八歳の寸法で覚えている。同じ指示を三歳の脚へ送っても、合うわけがない。他人の靴で走ろうとしているようなものだ。
入れ替わったことの、副作用。
指先も同じだった。力が足りないのではない。匙は握れる。匙ほどの重さなら、三歳の手でも持てる。だが握れることと、狙った場所へ運べることは別だ。口までの距離を、この手はまだ測れない。
前世では刺繍も筆記もこなせた手だ。その感覚が残ったまま、線一本まっすぐ引けない。
そして何より――言葉が出ない。
頭の中には十八年分の語彙がある。政治用語も法律用語も外交辞令も知っている。だが三歳の舌と唇は、その半分も発音できない。「セレスティア」という自分の名前すら、舌がもつれて「シェレシュティア」になる。
「おじょうしゃま、あしゃごはんでしゅよ」
ナターシャ――ではない。この時期にナターシャはまだいない。名も知らない若い侍女が朝食を運んでくる。銀の盆に載った柔らかいパン粥と、温めた牛乳。
普段なら食堂に降りるのだろう。だが今朝は違った。目覚めるなり悲鳴を上げて泣きじゃくった娘を、屋敷は「具合が悪い」と判断したらしい。食堂に降ろされず、部屋に食事が運ばれてきた。
好都合だ。今は一人で考える時間がいる。
パン粥は、匙ですくえば崩れるほど柔らかく潰されていた。
セレスティアはベッドの端に座り、匙でパン粥をすくった。口に運ぶまでに二度こぼした。苛立ちが込み上げる。十八歳の精神が、三歳の肉体に縛られている。この不自由さは、鎖で繋がれた独房に似ていた。
いや、独房の方がまだましだった。あの時は少なくとも、手足は大人の手足だった。
「おじょうしゃま、おくちのまわり、ふきましゅね」
侍女が布で口元を拭う。セレスティアは反射的に顔を背けた。
他人に口を拭かれるなど、屈辱だ。十八歳の矜持がそう叫ぶ。
だが三歳の自分は、それが「普通」なのだ。
落ち着け。冷静になれ。
セレスティアは目を閉じ、深く息を吸った。
胸が小さいせいで、肺活量が足りない。深呼吸すらままならない。
それでも意識を鎮め、思考を整理する。
まず、状況を確認しろ。
今は何年だ。
前世の記憶を辿る。セレスティアが三歳だったのは、処刑の十五年前。つまり――王国暦四八二年の春。三月。誕生日が三月十五日だから、つい最近三歳になったばかりのはずだ。
場所はアルヴェイン公爵邸。領地は王国北部のヴァルトブルク。王都アウレリアからは馬車で五日の距離。
家族構成。
父、ライナルト・フォン・アルヴェイン。四十二歳。公爵。冷徹な政治家。
母、リリアーナ。三十八歳。元王妃候補。病弱。あと四年で死ぬ。
――本当に、病気で?
長兄、エドヴァルト。十八歳。騎士修行中。豪快な性格。
次兄、フェリクス。十三歳。学者気質。書庫の住人。
そして自分。セレスティア。三歳。末子。公爵家の掌中の珠――のはずが、前世では守ろうとしてくれた人たちの手も、最後まで届かなかった。
朝食を終え、セレスティアはベッドの上で膝を抱えた。
侍女が「お着替えしましょうね」と声をかけるが、少しだけ待ってほしかった。
整理しなければならないことが、あまりにも多い。
計画を立てよう。まず何を優先すべきか。指を折って数えようとした。
だが三歳の指はうまく折れない。小指と薬指が一緒に動いてしまう。苛立って手を膝に叩きつけると、力加減を誤って自分の足を打った。痛い。
さらに悪いことに、朝食の満腹感が眠気を連れてきた。瞼が重い。三歳の身体は食後に眠くなるようにできている。
頭の中では十八年分の記憶が渦巻いているのに、身体は昼寝を要求している。この噛み合わなさが、たまらなくもどかしい。
歯を食いしばって眠気を追い払い、思考を再開する。
前世の記憶を、時系列で並べていく。
三歳――今ここ。特に何もない平穏な時期。
五歳――初めての王都訪問。王太子アレクシスとの顔合わせ。
七歳――母リリアーナの死。「病死」と記録される。
あの日、屋敷から色が消えた。
七歳――母の死後、侍女長マルガレーテが解雇される。
七歳――王立クレセンティア学園初等部に入学。
十歳――魔力覚醒。光と闇の両属性。聖魔力。だが制御できず暴走事故。覚醒した力は処刑の日まで消えなかったが、危険視され、「使うな」と命じられるばかりで、体系的な制御は一度も教えられなかった。
十一歳――王太子との婚約正式発表。
十五歳――王太子暗殺未遂事件発生。セレスティアが犯人に仕立てられる。
十六歳――裁判。有罪判決。
十八歳――処刑。
十五年間の年表が、頭の中に展開される。
どこで何が起き、誰が何をしたか。全て覚えている。
処刑台の上で刃が落ちた瞬間まで、一秒の欠落もなく。
セレスティアは小さな拳を握り締めた。
最優先事項を決めろ。全てを同時には変えられない。三歳の身体でできることには限界がある。だが時間はある。十五年という時間が。
最優先:母を死なせない。
前世で母が死んだのは、セレスティアが七歳の秋だった。「長患い」の果ての病死。医師がそう言い、父がそう受け入れ、誰も疑わなかった。セレスティア自身も疑わなかった。母の死から断頭台までの十一年間、ただの一度も。
疑い始めたのは独房の中でだった。全てを失って、時間だけが余った場所で。
順番がおかしい、と思った。母が死に、家臣が離れ、父が孤立し、そして自分が嵌められた。都合よく並びすぎている。誰かが最初の一枚を倒したのではないか。
母の死は、病死ではなかったのではないか。
だが、それは推測だ。証拠は何一つない。独房の藁の上で辿り着いた仮説を、三歳の今、事実として扱うわけにはいかない。間違っていた時に失うものが大きすぎる。
確かめる。それが最初の仕事だ。
母の死は全ての始まりだった。母が死んでから、公爵家は崩れた。
父は政治への意欲を失い、家臣は離反し、セレスティアは孤立した。
母が生きていれば、全てが違った。
次の優先:家臣ディートリヒの監視。
ディートリヒ・クラウスは宰相派の内通者だ。これは推測ではない。前世で露見した事実だ。公爵家の機密が外に流れ、セレスティアの聖魔力の情報まで宰相の手に渡っていた。
だが露見したのは、何もかも手遅れになってからだった。この男がいつから、どこまでやっていたのか、セレスティアは知らない。母の死に関わっていたのかどうかも。
三歳児が「あの家臣はスパイです」と言っても誰も信じない。証拠を集めなければならない。
三番目:父を味方にする。
前世の父は冷たかった。いや、冷たかったのではない。娘に無関心だったのだ。政治と領地経営に忙殺され、末の娘に目を向ける余裕がなかった。そしてセレスティアが処刑される時、父は娘を政治的に見捨てた。
今世では違う。父を味方にする。この公爵家を、自分の最初の砦にする。
「おじょうしゃま、おきがえ――」
「まって」
セレスティアは侍女を制した。三歳の舌で、できるだけ明瞭に。
「マルガレーテ、よんで」
侍女が目を丸くした。この侍女の前で、お嬢様がこれほどはっきりと人の名前を呼んだのは初めてだったのだろう。
数分後、マルガレーテが現れた。
「お嬢様、お呼びですか?」
丸顔に柔らかな笑み。この人は変わらない。十五年後も変わらないだろう。だが前世では、この人は母の死後に解雇された。ディートリヒの進言で。「年を取って使えない」という理由で。
今世では絶対にそうさせない。
「マルガレーテ」
セレスティアは両腕を伸ばした。抱っこをせがむ仕草。三歳児なら自然だ。
マルガレーテは嬉しそうに微笑み、セレスティアを抱き上げた。
温かい。
この温もりを、前世では七歳で失った。
「マルガレーテ、ずっといっしょにいて」
「まあ、お嬢様。今日は甘えん坊さんですね」
「ずっとだよ。やくそく」
マルガレーテの目が潤んだ。
「はい。約束しますよ。マルガレーテは、お嬢様の傍にずっとおりますからね」
セレスティアはマルガレーテの肩に顔を埋めた。
涙を隠すために。
泣くな。泣いている暇はない。
これから十五年分の運命を書き換えなければならない。
だが今だけは。
この温もりの中で、少しだけ。
十八年間の疲れを、ここでほどかせてほしい。
マルガレーテの腕の中で、セレスティアは静かに目を閉じた。
瞼の裏に、断頭台の残像がちらつく。
刃の音。血の匂い。群衆の声。
消えない。
この記憶は、きっと消えない。
だが今世では、この記憶を武器にする。
恐怖を怒りに変え、怒りを行動に変える。
目を開けた。
窓の外には青空が広がっている。三月の空。前世で死んだ季節の空。
「今度は、母も私も死なせない」
三歳の唇から漏れたその言葉を、マルガレーテは聞き取れなかっただろう。
子供の呟きにしては、あまりにも静かで、あまりにも重い言葉だった。




