第20話 スープ2
目の前に置かれた木椀から立ち上る湯気を、シャロンはただ茫然と見つめていた。
立ち込める香ばしいスープの匂いすら、今の彼女には酷く遠い世界の出来事のように思える。匙を伸ばすことなど、到底できなかった。
「西の魔王は嫌なやつじゃない。俺も西のやつも悪いことはしない。」
「……えっ?」
あまりに衝撃的な言葉だった。
「あなたと同じ……? 悪事もしない魔王なんて……そんなの、あるわけないじゃない……っ!!」
声を荒らげることしか、自分を保つ術がなかった。
だが、向かいに座る男は、まるで明日の天気の報告でもするかのような平淡さで言葉を重ねた。
「さっき、良いやつもいると言った。」
「西の魔王は農業技術が高い。特に水稲栽培が得意だ。俺は良くパンや小麦と交換してもらっている。」
「畑のやり方を教えてくれたのは西の魔王だ。」
「す、水稲……!? 農業……!? 嘘、嘘よ……っ!!」
あまりの脱力感と理不尽な事実に声を震わせる。
「魔王がコメを育てて、パンと交換してるなんて……そんなの、魔王じゃなくて、ただの近所づきあいじゃない!!」
勇者が命を賭して立ち向かうべき絶対的な悪の象徴が、まさかの農耕に従事しているという。
そのあまりに世俗的で、あまりに平和な情景が、彼女の脳裏に強制的に描き出される。
「北は倒した。西は良いやつ。他のやつらは良く知らんが、多分悪いやつだろう。」
「頑張れ。」
「……っ、そんな、そんなの言われなくても……っ!!」
北の魔王は倒れた。西の魔王は善人だった。――では、残る魔王たちは。
彼女は、その圧倒的な暴力の前に、一体どう立ち向かえばいいというのか。
その答えは、どこにもなかった。
「仲間を募った方が良い。」
「……仲間……っ!? そんな、今さら何を言ってるのよ……っ!!」
「一人で……一人で戦うつもりだったわよ! 私が、私が全部背負って……っ!!」
誰かを戦いへ巻き込むくらいなら、自分一人で背負う。その覚悟だけを支えに、彼女は剣を振ってきた。
誰かと共に歩むこと。
それは、自分一人ですべてを完結させようとしていた彼女の、強情なまでの孤独を否定する行為だった。
受け入れるのか、拒絶するのか。
答えの出ない問いが、彼女の胸の中で渦巻いていた。
「そうか。頑張れ。」
それ以上、押し付けるような言葉は何もなかった。
二人の間に横たわる沈黙のなかで静かに、スープは熱を失っていく。




