1章 7話 戦う準備
低い警鐘の音で、玲奈は目を覚ました。
重く響く鐘の音。
規則的な足音。
遠くで飛び交う怒号。
まだ外は暗い。
石造りの宿舎の窓から、赤い火の光だけがちらついていた。
「北壁第二門! 応援急げ!」
「負傷者搬送!」
怒鳴り声が響く。
玲奈は反射的に起き上がった。
その音で、向かいのベッドの真白も肩を震わせる。
「っ……」
毛布を握る手が小刻みに震えていた。
梓はすでに起きていた。
窓の近くへ立ち、静かに外を見ている。
「……まだ戦ってる」
小さな声だった。
玲奈が隣へ向かう。
窓の外では、鎧姿の兵士たちが慌ただしく走っていた。
壁上へ向かう者。
担架を運ぶ者。
血の付いた布を抱えた医療兵。
その全員が、迷いなく動いている。
「演習……じゃないよね」
玲奈が呟く。
梓は静かに首を振った。
「違うと思う」
真白がベッドの上で膝を抱える。
「やだ……怖い……」
玲奈は何か言おうとして、
結局言葉を飲み込んだ。
自分だって怖かった。
ここへ来てまだ一日も経っていない。
なのにもう、
壁の向こうでは戦いが起きている。
⸻
結局その夜、
玲奈たちへ出撃命令は来なかった。
「待機しろ」
兵士はそれだけを告げて去っていく。
それが逆に、
三人を落ち着かなくさせた。
自分たちは何も知らない。
何が起きているのかも、
どれだけ危険なのかも。
ただ、
ここが安全な場所ではないことだけは、
嫌というほど分かってしまった。
⸻
翌朝。
宿舎を出た瞬間、
真白が足を止めた。
「……っ」
中庭。
そこに、負傷兵たちが並べられていた。
包帯。
血。
欠けた鎧。
壁にもたれた兵士が、荒い呼吸を繰り返している。
医療兵たちは慣れた様子で傷を確認し、
次々と処置を進めていた。
「消毒だ、押さえろ」
「次運べ」
短い声が飛ぶ。
誰も騒がない。
泣き叫ぶ声もない。
ただ、
淡々と処置だけが進んでいく。
その光景が、
余計に現実味を帯びていた。
「昨日の……」
玲奈が呟く。
梓は視線を巡らせていた。
運ばれた人数。
空席になっている担架。
返ってきていない兵士。
無意識に数えてしまう。
「……結構いたんだ」
その言葉に、
真白の顔がさらに青くなった。
「む、無理だよ……こんなの……」
玲奈は唇を噛む。
怖い。
だけど。
「……だからって、何もしないと死ぬ」
それだけは分かっていた。
⸻
朝食は静かだった。
硬い黒パン。
温かいスープ。
塩気の強い干し肉。
兵士たちは短時間で食事を済ませ、
すぐ立ち上がる。
食堂には常に足音が響いていた。
壁際には槍。
入口付近には鎧。
誰もが、
次の警鐘へ備えている。
真白はスープを持つ手が少し震えていた。
「……昨日、寝れた?」
玲奈が小声で聞く。
真白は少し迷ってから、
小さく首を振った。
「音、ずっとしてたから……」
確かに、
夜中も外の足音は止まらなかった。
梓はパンを千切りながら静かに言う。
「この国、ずっと動いてる」
その言葉に、
玲奈は返事ができなかった。
⸻
「本日より基礎訓練を継続する」
訓練場。
冷たい風が吹き抜ける。
並ばされた新兵たちの前で、
教官が低い声を響かせた。
「貴様らは未熟だ」
「未熟な兵は死ぬ」
「死ねば、隣の兵も死ぬ」
容赦のない言葉。
だが、
誰も反論しない。
⸻
玲奈へ木剣が投げ渡される。
「前へ」
玲奈は剣を構えた。
次の瞬間。
「遅い!」
鈍い衝撃。
訓練用の木剣が肩へ叩き込まれる。
「っ……!」
痛み。
玲奈は歯を食いしばって踏み込む。
強撃。
スキルを意識した瞬間、
身体がわずかに前へ出た。
想像以上に速い。
重い。
木剣が教官の剣へ叩きつけられる。
「……ほう」
初めて、
教官の目が少しだけ変わった。
だが次の瞬間には、
足払いで玲奈は地面へ転がされていた。
「力だけで勝てるなら苦労はない」
冷たい声。
玲奈は荒い息を吐きながら立ち上がる。
身体の感覚がズレている。
動ける。
でも、
自分の想像より速く動きすぎる。
踏み込みも、
間合いも、
頭と身体が噛み合っていなかった。
「もう一度!」
怒号が飛ぶ。
玲奈は再び木剣を握り直した。
⸻
梓は射撃訓練へ回されていた。
長弓を引く。
視覚強化。
遠くの的が鮮明に見える。
風。
揺れ。
距離。
全部分かる。
なのに。
――外れる。
「……っ」
矢が的の端へ刺さった。
見えているのに、
身体が追いつかない。
感覚が噛み合わない。
視界だけが先へ行く。
「次」
淡々と指示が飛ぶ。
梓は無言で矢をつがえた。
呼吸。
姿勢。
指先。
ひとつずつ調整する。
二射目。
今度は的の外周へ当たる。
ほんの少しだけ近づいた。
それだけで、
梓は小さく息を吐いた。
⸻
真白は走らされていた。
「もっと足を動かせ!」
「止まるな!」
敏捷強化。
身体だけは動いてしまう。
怖い。
苦しい。
でも、
以前の自分なら転んでいた距離を走れてしまう。
「はぁ……っ、はぁ……っ」
涙目になりながら、
真白は足を動かし続けた。
止まれば怒鳴られる。
遅れれば置いていかれる。
それが、
何より怖かった。
途中、
足をもつれさせて転びかける。
その瞬間。
身体が勝手に傾きを修正した。
回避補助。
無意識にスキルが働いたのだと、
真白自身もなんとなく理解した。
「……なにこれ……」
自分の身体なのに、
知らない動きをする。
その感覚が、
余計に不安だった。
⸻
昼過ぎ。
短い休憩。
玲奈は壁へ背中を預けながら息を吐いた。
全身が痛い。
手のひらも赤くなっている。
だが、
訓練場にはもっと傷だらけの兵士が大勢いた。
梓が水筒を持って近づいてくる。
「玲奈、さっき右側空いてた」
「え?」
「踏み込みの時。右、見えてなかった」
玲奈は少し考えて、
苦笑する。
「……全然分かんなかった」
見えていない。
余裕がない。
それを痛感する。
真白もふらふらになりながら戻ってきた。
「むり……足いたい……」
その声に、
玲奈は少しだけ笑った。
「でも倒れなかったじゃん」
「倒れたら怒られるもん……」
真白の返答に、
梓が小さく吹き出した。
ほんの少しだけ、
空気が緩む。
⸻
午後の訓練は、
さらに厳しかった。
盾兵との模擬戦。
回避訓練。
姿勢維持。
反復。
何度失敗しても、
止まることは許されない。
玲奈は何度も打ち込まれ、
腕が痺れる。
梓は矢を射続け、
指先が擦り切れる。
真白は走り続け、
足が震えていた。
それでも。
周囲の兵士たちは、
それを当たり前のように続けている。
「次!」
怒号が飛ぶ。
誰も止まらない。
⸻
夜。
宿舎へ戻る頃には、
三人とも限界だった。
ベッドへ倒れ込む。
身体が重い。
真白は毛布へ潜り込んだまま動かない。
「……いたい……」
玲奈は乾いた笑いを漏らす。
「私も」
梓は椅子へ座ったまま、
静かに窓の外を見ていた。
城壁の上には、
まだ兵士たちの姿がある。
松明の火が揺れていた。
「……明日も続くんだね」
真白の小さな声。
玲奈は天井を見上げる。
そして、
ゆっくり息を吐いた。
「でも、生き残るしかない」
その言葉に、
真白は毛布の中で小さく頷いた。
外では、
まだ兵士たちの足音が続いている。
その音は、
夜が更けても止まらなかった。




