(五十一)
ホテルのラウンジは人の出入りが頻繁で落ち着かなかった。もう
すでに一時間以上も待たされていた。女社長からは一度デンワがあ
ったが、「すぐ行くから」と言って私にカウント・ダウンする時間
を与えなかったので、そこを離れる訳にはいかなかった。ロビーを
行き来する着飾った人々を、私は防犯カメラの様に虚しく眺めて居
た。テレビで見覚えのある人が何人か通り過ぎた。彼等の服装は一
般に紛れようと心掛けていたが、どこかに人に気付いてほしい思い
もあってそれが返って目立った。この頃はやたらと人の存在感を云
々するが、それは畏敬や好意を持って見る者の意識がそうさせるの
だ。本当に優れた人は「オーラ」などという怪しいものは出さない
、ただ優れているだけだ。とその時、襟元にファーが付いた黒っぽ
いロングコートの女性が、特異な「オーラ」を発して現れた、女社
長だった。
「待たせたわね」
確かに。ただ、これだけ待たされると怒りが不安に転じ、遂に彼女
が現れた時には安堵の気持ちに変わってしまった。彼女は遅れた言
い訳をして私を宥めた。そして腰を下ろす前に、私と交わした契
約書のコピーをテーブルに置いた。そこには、私が守らなければな
らない箇所にマーカーが記されていた。私は仕方なくそれを手に取
って眺めた。
「断りもなしに勝手に画風は変えられないのよ」
彼女はそう言った。契約書には細かい約束事が書かれていて、確か
にそうなっていた。
「どうも、すみません」
とは言ったが、実は私はもう高層ビルを描く事に飽き々々していた
。ちょっとした思い付きから描き始めたが、描いていて全くおもし
ろくないのだ。気に入ったビルを東京中探して歩いたがもう関心が
湧かなくなった。無駄を排した高層ビルの機能性は、同時に人の感
情も排除するかのようだ。絵にしたいと思わない街とは果たして楽
しい街なのか?私は東京という街の本質的な欠陥を知った。つまり
、無駄を欠いてるのだ!まるで乗るあてもなく紛れ込んだ新幹線の
ホームのように、目的を持たない者は冷たく拒絶される。新幹線の
駅は新幹線に乗る人のために効率的に機能するように設計され、東
京という都市もまた何らかの目的を持った人の為に機能する手段と
しての場所なのだ。目的などは何だって良いのだ、起業家でも政治
家でも芸人でも詐欺師でも作家でも、目的さえあれば励ましてくれ
るが、しかし果たして我々は迷いのない目的を持った存在なのだろ
うか?ひとたび生きる目的を見失って立ち止まると、この街の機能
的な手段は意味をなくし、何と殺伐とした街に思えてくることか。
かつて励ましてくれた高層ビルも係わる事を拒むかのように無愛想
に聳え立っていた。
「もう、描けないんです」
彼女は無言だった。
「個展が終わったらすこし休ませてくれませんか」
私はか細い声で訴えた。そもそも画家とかは個人事業者なので、誰
かに休みを申し出る必要などなかったが、ただ、彼女の励ましに何
かしらの言い訳を伝えたかった。女社長は席を替えようと言ってエ
レベーターホールへ向かった。私は彼女の後を臆病な犬のように辺
りを確かめながら続いた。恐らく私の心の尻尾は警戒心から股間に
仕舞われていたに違いない。ドアが開いた所は東京の夜景を見渡せ
る高層階のバーだった。派手なシャンデリアや高級なインテリアに
圧倒されてたじろいだ。しかし、眼下には多くのホームレスが寄り
集まって年を越した公園が見えた。木陰から漏れるブルーシートの
小屋の灯りや、外灯の下で寒さを堪えて佇む人々に見入ってしまっ
た。
「気になる?」
「あっ!いいえ」
ホームレスを見下ろす高層階のバーはまさに格差社会の象徴だった
。貧困の忌避からより高く離れたいと望み、ここまでは来れまいと
いう安心と同時に、それでも地に足が着かない不安が残る。そして
その安心と不安が更に地べたでの暮らしから逃避させる。人は地面
から離れるほど鳥のように高慢になるに違いない。彼女は「いつも
の」とオーダーしたが、私は「いつもの」酎ハイを注文する訳にい
かずに途惑っていると、彼女が代ってブランデーをオーダーした。
彼女は私の正面ではなく横に居たので、私は常に彼女の横顔を目に
していた。それは宮永武彦という画家の美人画のように、つんと尖
った鼻先や細く長い首が美しかった。私は美人の条件は絶対に横顔
にあると思っている。否、私はただ鼻の高い女性に弱いだけかもし
れない。カメラが出来てから我々は当たり前のように人の顔を正面
から見るが、それは随分大胆なことで、その人格と向き合って様々
な感情の変化を読み取ろうとする。エジプトの壁画に描かれている
人は何故横を向いているのか?それは、見る者にそういった感情を
与えない為ではないだろうか。あの壁画の作者こそが第三者に徹し
た人類最初のジャーナリストかもしれない。
「お休み、いいわよ」
彼女は「いつもの」シャンパンを飲み干して、私を見ずにそう言っ
た。グラスを傾け顎を上げた首筋が、さらに細く伸びて食道を落ち
るシャンパンの流れが分かるほどだった。私は喉の渇きを癒すため
に一機にブランデーのグラスを空けて、咽てしまった。ステージ
ではジャズの演奏が始まった。女社長はさっきからフランスでの見
聞録を語っていた。私は慣れない世界での緊張が限界を超えて、空
腹に垂らし込んだ飲み慣れないブランデーのせいもあって、ついに
脳が私の支配を見放した。誤操作によって変換がおかしくなったP
Cのように、彼女の言葉が訳の解らない記号のフォーマットの羅列
のように聞こえた。それでもジャズの演奏は心地よかった。足下で
はホームレス達が飢えと寒さに耐えていた。私は戦地から奇跡的に
生還した兵士のように感謝の気持ちから泣き出してしまった。それ
を見て女社長は私がおかしいことに気付いた。
「ちょっと!酔っちゃったの?」
思春期の頃、早朝の微睡の中で何度か夢精をした。夢の中で、好
きな同級生の娘と抱き合って、雑誌に載っていた「こうすれば彼女
はとろける」というテクニックを駆使して快楽に導き、いざ本番と
いう時になって、その娘の股間には肝心の性器が見当たらず、のっ
ぺらぼうだった。私は驚いて目が醒めた。童貞の私は大人の女性の
性器を見たことがなかった。つまり、私の記憶の中に女性の性器の
情報がなかったので、夢の中の彼女をのっぺらぼうにさせてしまっ
たのだ。それからは必死に為ってアダルトビデオを漁ったが、「薄
消し」とか「ほぼ無修正」といったサブタイトルに随分騙されて、
結局モザイクの壁を超えられなかった。やがて学校を出て職場の年
上の女性と付き合ったが、それは愛とか恋とかでなく、ただただ性
的好奇心だけだった。「そんなに見ないでよ」と言われるほど思春
期の恨みを晴らしてやった。
気が付いたのはホテルの部屋のベットの上だった。サイドテーブ
ルの照明だけが怪しげに燈っていたが、他に誰も居なかった。何故
そこで横たわっているのかさえ全然覚えがなかった。私は身体を起
こしてしばらく記憶を辿った。それから堪らなく喉が渇いたので、
水を飲むためにバスルームへ行った。ドアを開けると、女社長がシ
ャワーを浴びていた。
「あっ!すっ、すみません」
すると、
「あら、もう酔いが覚めた?」
私は慌ててドアを閉めた。
(つづく)




