(十七)
「美」とは何だろう?分かり易いのは異性の容姿についての感情
だと思うが、私は美しい人だと思っていた女性に、思いとは裏腹に
邪険に扱われて、言葉を交わす前に懐いていた印象が忽ち色褪せて
、美しく思えなくなることが何度もあった。つまり美しさとは、私
が思い描いた理想なのかもしれない。また逆に、それほど気にもな
らなかった女性が、関わりを重ねていくうちにそれまで歪でおか
しいと思っていた容姿に親しみが生まれ、その歪さに愛おしさや美
しさを感じることもあった。それでは、美しさは親しさからも生ま
れるのだろうか。つまり美しさと言っても様々で、その対象に美し
さが在るというよりも、それと対峙して観る人の認識に「美」はあ
る。学校の授業で縄文土器を教科書の写真で見て、先生は「美しい
」と説明したが、私は子供が創ったようなその稚拙な作りに、どこ
が美しいのか理解出来なかった。たとえば「モナリザの微笑み」に
しても、もちろん実物を見てはいないが、美の象徴のように言われ
るが、私は依然としてあのねえちゃんには馴染めない。日本の浮世
絵にしても歌麿呂だとか写楽の美人画を見ても、どこが美しいのか
分らなかった。浮世絵は江戸時代の風俗画で、言ってみれば今のマ
ンガと同じで、庶民は美術品とは思ってもいなかったが、写実に飽
いた西欧人の眼に斬新に映り、求められて始めて美術として認識さ
れた。つまり我々日本人は浮世絵を西欧人の眼を通して見ることで
、改めて美しいと認めることが出来たが、そうでなければただのマ
ンガだった。藤田嗣治という画家は日本画の技法を使ってフランス
で認められたが、日本では受け入れられなかった。それは藤田自身
による日本画壇への確執もあったが、ただ「お墨付き」が無ければ
価値を認めようとしない日本人独特の主体性の弱さが画壇や文壇に
権威を与えている。フランスでは評価された藤田の絵画表現も、日
本の画壇は頑なに認めたくなかった。ところが印象派を模倣した拙
い画でも画壇はもてはやした。こんな風に「美」とは、人の認識の
違いによって「美」と認められたり認められなかったりする。つま
り、「美」には必ず裏があり、その裏とは見る者の心理に依ってい
る。学校で見た縄文土器の形は、岡本太郎によってその美しさが認
識されて、私も今ではその美しさを多少なりとも「理解」できるよ
うになった。最近では宇宙船から写した「地球の出」の映像は我を
忘れて「美しい」と思った。
(つづく)




