第3楽章
いつもの倉庫スタジオ。
亮太は椅子に座り、
ぼんやりと天井を見ていた。
「あのパン屋での演奏……」
ふっと笑う。
「良かったなぁ〜」
机の上には
パン屋の袋が置かれている。
亮太はスマホを手に取った。
「仁メインで……
動画撮っとけば良かったなぁ…」
少し考える。
「……怒るだろうけど」
そしてまた思い出す。
軽快な演奏。
パンの香り。
集まった人たちの笑顔。
「いやぁ、でも本当に良かった……」
亮太は、ニヤけた。
その時だった。
カチッ。
スタジオのドアが開く。
入ってきたのは和馬だった。
亮太を見ながら
「何ニヤけてんだ?」
亮太がびくっとする。
「あっ!えっ⁉︎」
慌てて姿勢を正す。
「いや……その……」
和馬を見て言う。
「和馬どうしたの?」
和馬は少し黙った、言葉を探すように。
そして
「ちょっと相談があるんだ」
「相談?」
亮太の顔が変わる。
「うん?」
和馬
視線を落としたて
「弟がさ……留学することになって」
亮太の
目が少し大きくなる。
「斗真が⁈」
すぐに笑う。
「そりゃそうだよな。
兄貴の背中、ずっと見てきたもんな」
「まぁな……同じヴァイオリンをな」
和馬は小さくうなずいた。
そして続けた。
「それで……ウィーンに留学するんだ」
亮太は何も言わず次の言葉を待った。
和馬
静かに言う。
「それで——」
亮太を見る。
「見送りの曲を——」
一瞬、言葉を止める。
「空港で、やりたいんだ」
亮太は一瞬驚いた顔をしたが
すぐに笑った。
「分かった、みんなにも知らせとくよ」
「ありがとう」
和馬が小さく言う。
「曲は決めてあるのかよ?」
亮太が聞く。
「決めてある」
そう言って和馬は立ち上がった。
亮太が続ける。
「で、いつ?」
「一ヵ月後」
「了解!」
亮太はうなずいた。
すぐにスマホを手に取る。
そして、
ふと思い出したように
「……仁は知ってるのか?」
ドアに手をかけた和馬が振り向いた。
無言で軽く頷くと
スタジオを出ていった。
⸻
その夜。
和馬が家に帰ると、
リビングの灯りがついていた。
ソファに座っていたのは弟の斗真だった。
ヴァイオリンケースが足元に
置かれている。
斗真は立ち上がると和馬を見て
ぽつりと言った。
「俺……」
視線を逸らしたまま。
「兄貴みたいにはならないから」
それだけ言うと
斗真はくるりと背を向けた。
階段を上っていく。
二階のドアが、静かに閉まった。
和馬は、しばらくその場に立っていた。
何も言えなかった。
和馬には今でも
海外公演をという依頼が来ていたが
全て断っていた。
それは——
和馬にとって
音楽は、競うものじゃないからだ。
コンクール。
海外ツアー。
名声。
そういうものを追う音楽も
もちろん否定はしない。
でも。
和馬が弾きたい音はそこには無かった。
幼稚園。
パン屋。
小さな町。
誰かの目の前で弾く音。
笑ったり
驚いたり
泣いたり。
その瞬間に生まれる音。
それが、和馬の音楽だった。
でも斗真は違う。
世界。
コンクール。
大きな舞台。
観客何千人。
それが音楽家の道だと思っている。
だから斗真は言った。
「俺……兄貴みたいにはならないから」
その言葉の意味を
和馬はちゃんと分かっていた。
分かっているからこそ何も言えなかった。
⸻
ほどなくして、いつものスタジオ。
全員集まっている。
亮太
珍しく真顔で
「で、ちょっと報告」
少し間を置く。
「和馬の弟、斗真が留学する」
「えっ!」
圭一が目を丸くする。
「どこに?」
駿が聞く。
「ウィーン」
亮太が答える。
——一瞬、空気が止まる。
浩平
口笛を吹く。
「音楽の都じゃん」
「本気ね」
ゆり子が言う。
仁は静かに和馬を見る。
他のメンバーも、
自然と視線を向けていた。
和馬は何も言わない。
亮太が続ける
「それでな」
少し言葉を探しながら
「空港で見送り演奏する」
「うわぁ!」
圭一が声を上げる。
「トラベリング・オーケストラっぽい!」
駿が笑う。
「で、曲は?」
浩平が聞く。
亮太が和馬を見る。
「タイスの瞑想曲」
和馬は短く答えた。
「いいわね」
ゆり子が静かに言う。
亮太がパンッ!と手を叩く。
「じゃあ決まり!一ヵ月後!」
拳を上げて
「空港ライブだ!」
「いいねぇ……音、響きそうだな」
圭一が笑う。
「普通に止められそうだけど」
駿が言うと
浩平
笑いながら
「逃げる準備しとく?」
「逃げないの」
ゆり子が呆れる。
仁
静かに
「大丈夫だ。音は、そこに残る」
と指揮棒を軽く回す。
亮太が笑った。
その横で——
和馬は小さく息を吐いた。
ほんの少しだけ、肩の力が抜けていた。
⸻
そして一ヵ月後。
亮太が、シャッターを開ける。
中には、あの相棒がいる。
少し年季の入ったワーゲンバス。
白い車体の横には
大きく書かれている。
TRAVELING ORCHESTRA の文字。
亮太が運転席に乗り込む。
エンジンキーを回す。
ゴォン……と少し低い音が響く。
一度だけ、軽く震える。
「全員乗ったか?」
後ろから声が飛ぶ。
「はーい」
「眠い」
「コーヒーないの?」
亮太が笑いながらハンドルを握る。
「行くぞ」
アクセルを踏む。
ワーゲンバスが、ゆっくり走り出した。
和馬が窓の外を見ている。
「……ウィーンか」
仁がぽつりと言う。
少しの間。
「ああ」
和馬窓の外を見たまま答える。
仁
「お前も行けたな」
和馬は答えない。
ただ、小さく笑う。
「俺はいい」
その声は、どこか柔らかだった。
景色はどんどん流れて向かう先は——
空港。
ワーゲンバスは空港の駐車場に滑り込んだ。
亮太がエンジンを止める。
「着いたぞ」
みんな車から降りる。
広い空港ロビー。
スーツケースを引く人。
行き交うアナウンス。
「空港で演奏って……」
浩平がきょろきょろする。
「初めてだな」
駿が小さく笑う。
「目立つわよ」
ゆり子がぽつりと言う。
その時だった。
少し離れた場所で、
和馬は弓を持ったまま動かなかった。
視線の先には、斗真。
何か言いかけて——
やめた。
代わりに、弓を構える。
出発ゲート前。
大きなスーツケース。
肩にはヴァイオリンケース。
斗真も気づいた。
和馬たちを見て驚いた顔をしている。
「……兄貴?」
いつもの調子で
亮太がにこっと笑う。
「よっ」
「なんで……」
斗真が戸惑っていると
「見送り」
和馬は短く言った。
「別にいいのに」
斗真は少し困った顔をした。
「まあまあ」
亮太が肩をすくめて振り返る。
「準備」
その一言で
全員が動き出した。
ケースが開く。
周りの人たちが何事かと足を止める。
仁がゆっくり前に出た。
指揮棒を取り出す。
静かな空気が流れる。
「ちょっと待って」
斗真が言う。
「何する気?」
和馬を見る、でも和馬は答えない。
ヴァイオリンを肩に乗せる。
そして、斗真を見た。
少しだけ間を置く。
「見送りの曲だ」
斗真が息をのむ。
仁が、一歩前に出た。
指揮棒をすっと上げる。
空港の空気が、変わる。
《タイスの瞑想曲》
まるで——
言葉にならなかったものが、
そっと形を持ったように。
和馬のヴァイオリンが、
空気を溶かしていく。
斗真は、動けなかった。
ただ、見ている。
兄の背中を。
幼い頃から、ずっと見てきた背中。
追いかけてきた音、届きたかった場所。
そのすべてが今、目の前にある。
音が、語りかける。
そして同時に”ちゃんと見てる”と。
この場所、この瞬間、
この二人のためだけに。
斗真は目を閉じた。
幼い頃の記憶。
兄の後ろ姿。
初めて同じ曲を弾いた日。
うまく弾けなくて、悔しくて。
それでも——
隣で弾いてくれた音。
兄の音をただ見つめていた。
和馬のヴァイオリンは
静かに、まっすぐに響く。
優しい音。
空港のロビーが
小さなホールみたいになっていく。
斗真は少しだけ目を伏せた。
そして——
くるりと背を向けた。
ゲートへ向かって歩き出す。
一歩。
また一歩。
スーツケースの車輪が床を転がる。
数歩進んだところで、足が止まった。
ヴァイオリンの旋律が、背中に届く。
ゆっくり振り返る。
兄が弾いていた、静かな顔で。
誇るわけでもなく
追いかけるわけでもなく。
ただ——
送り出す音で。
斗真の目が、少し揺れる。
周りには、足を止めた人たち。
知らない誰かが、スマホで撮っている。
小さな子どもが、じっと聴いている。
斗真は気づく。
この音楽は、勝つための音じゃない。
誰かに、届く音だ。
そして曲が、静かに終わる。
最後の音が
空港の天井に溶けた。
一瞬の静寂。
誰もすぐには拍手しなかった。
音の余韻が
空港の天井に残っていた。
拍手が起きた。
小さな拍手。
それが広がっていく。
ロビーいっぱいの拍手。
「大成功だな」
亮太が笑う。
「空港ライブ成功」
圭一が小さく言う。
仁が指揮棒を下ろす。
斗真は、ゆっくり歩いてきた。
和馬の前で止まる。
少しだけ笑う。
「……ずるいよ」
和馬
首をかしげながら
「何が」
斗真は少し震える声で
「こんな見送り…」
と呟くと
「一生……一生、忘れないじゃん!」
少しだけ視線を落とす。
手に持っていたヴァイオリンケース
をぎゅっと握る。
「……なあ」
ぽつりとこぼす。
「その音さ」
顔を上げる。
「向こうでも、探してみる」
和馬の目がほんの少しだけ揺れた。
でも何も言わない。
ただ、静かにうなずいた。
⸻
斗真はスーツケースを引く。
ゲートへ向かう前に
振り返った。
「行ってくる」
少しだけ笑っていた。
和馬が小さくうなずく。
それだけで、十分だった。
「行ってこい」
斗真は手を上げてゲートをくぐった。
姿が見えなくなる。
少しの沈黙。
亮太が手を叩く。
「よし!帰るか!」
駿
「……やったな」
浩平
「次はどこだ?」
「世界ツアー?」
圭一が笑いながら聞く。
「いや」
亮太が笑う。
ワーゲンバスの方を指す。
「まずは……スタジオで打ち上げだ!」
つづく…
お読みいただきありがとうございます。
——第4楽章へ




