第17楽章
駿は、
ドイツに、一歩踏み入れる。
空気が、冷たい。
石畳を踏む音が、やけに響く。
見慣れない街。
それでも——
目は逸らさない。
音だけは、変わらない。
駿、小さく息を吐く。
タクシーに乗り込む。
窓の外、流れていく景色。
知らないはずの街並みを、
ただ静かに追う。
(ここでいい)
迷いはない。
⸻
アパート。
鍵を回す。
乾いた音。
扉を開ける。
小さな部屋。
ベッドと、机と、椅子。
それだけ。
駿、ゆっくりと中へ入る。
ドアが閉まる。
静寂。
駿、ケースを床に置く。
ベッドに腰を下ろす。
ケースに手を置く。
指先にわずかに力が入る。
(ここで——取る)
窓の外。
異国の夜。
遠くで、誰かの話し声。
駿、ゆっくり目を閉じる。
(……明日だ)
⸻
朝。
薄い光。
見慣れない天井。
一瞬だけ、
ここがどこか分からなくなる。
すぐに思い出す。
(……ドイツ)
ゆっくりと体を起こす。
身支度を整え、
ケースを手に取る。
外へ出る。
冷たい空気。
石畳に
乾いた音が響く。
やがて——
楽団の建物。
重い扉の前で、
一瞬だけ立ち止まる。
息を吐く。
ドアに手をかける。
開く。
リハーサル室。
音が、止まる。
視線が、一斉に向けられる。
新しく入る団員。
ただ、
それを確認するような静かな視線。
そして
指揮者のルーカスが、
楽譜から目を上げる。
「君が、シュンか」
「はい」
ルーカス
小さく頷く。
「紹介しよう」
団員たちへ向き直る。
「今日から加わる、シュン・キドだ」
団員たちが駿を見る。
「楽しみだな」
「……そうだな」
ルーカス
駿を見る。
「こちらへ」
駿、一歩前へ出る。
「シュンだ
日本から来ました」
短く頭を下げる。
「よろしくお願いします」
拍手はない。
ただ、
何人かが小さく頷く。
ルーカスが
口を開く。
「では、席へ」
駿、自分の譜面台へ向かう。
ケースを開く。
静かな動作。
ヴァイオリンを取り出す。
肩へ。
顎を乗せる。
その瞬間——
団員たちの空気が、わずかに変わる。
“挨拶は終わった。”
ここから先は、
音だけが、すべて。
ルーカスが指揮棒を上げる。
「ブラームス、交響曲第1番」
静寂。
そして——
最初の一音が、鳴った。
音が、重なる。
その中へ、
駿の音が溶け込む。
……はずだった。
一人だけ前に出るわけじゃない。
強く弾いているわけでもない。
それなのに——
なぜか、その音だけが耳に残る。
団員の一人が、
わずかに目を上げる。
隣の団員も、
譜面から視線を外した。
(……なんだ?)
音は、
ちゃんと全員と重なっている。
なのに、
一本だけ違う色の糸が、
織り込まれたようだった。
そして
ルーカスが指揮棒を下ろす。
「十五分」
空気がほどける。
譜面をめくる音。
椅子を引く音。
誰かが水を手に取る。
駿も静かに
ヴァイオリンを下ろした。
一人の団員が近づいてくる。
「なぁ」
マティアスが声をかける。
駿
顔を上げる。
「ん?」
マティアス
「ドイツは初めてか」
「ああ」
「寒いぞ」
「分かってる」
マティアス
「そうか」
フェリックス
肩をすくめる。
「相変わらず聞き方が雑だな」
マティアス
「じぁあ、お前は何を聞くんだよ?」
フェリックスはチラッと
マティアスの方を見る。
少し考えるような間。
そして
口を開く。
「……ソーセージは食ったか?」
駿
「まだ」
「じゃあ人生半分損してる」
駿、
少し笑いながら
「大げさだな」
フェリックス
真顔。
「いや、本気だ」
マティアス
吹き出す。
「結局、俺と変わんねぇじゃねーか」
周りから笑いが起きる。
駿もつられて苦笑した。
すると年配のクラウスが口を開く。
「さっきの音」
空気が少しだけ止まる。
「誰に習った?」
駿は
少し考える。
「基礎は先生」
「あの音は?」
「俺」
クラウスは
じっと駿を見る。
「そうか」
それ以上は聞かなかった。
———
ルーカスが
パンッ!と手を叩く。
「始めるぞ」
誰かが、小さく言う。
「来週が定期公演か」
「ああ」
「新入りには、ずいぶん早いな」
空気が、さらに締まる。
指揮棒が上がる。
静寂。
振り下ろす。
音が重なる。
止まる。
ルーカスの声が飛ぶ。
「チェロ、もう少し」
「そこ、遅れるな」
「もう一度」
ページがめくられる。
何度も。
何度も。
何時間も。
朝だった光は、
いつしか夕日に変わっていた。
駿の額を汗が伝う。
それでも、
弓は止まらない。
「今日はここまで」
ルーカスの一言で、
張りつめていた空気が解けた。
⸻
そして定期演奏会
当日。
ホールの灯り。
人のざわめき。
ステージ袖。
駿、静かに立っている。
でも——
空気は、違う。
遠くで、拍手。
名前が呼ばれる。
一歩。
踏み出す。
席に着く。
指揮者のルーカスが入ってくる。
空気が、静まる。
指揮棒が上がる。
全員が、見る。
振り下ろす。
《ブラームス 交響曲第1番》
音が、立ち上がる。
重い。
だが——
止まらない。
駿、入る。
出ない。
引かない。
そこにいる。
流れの中。
埋もれない。
浮かない。
ただ——
噛み合う。
誰かの音が揺れる。
一瞬。
駿、わずかに寄せる。
戻る。
何も起きていないようで——
崩れない。
進む。
止まらない。
駿、わずかに目を上げる。
ルーカスを見る。
——合う。
次の瞬間。
音が、さらに深く重なる。
駿は、その流れを逃さない。
一つの音が、
また一つの音を呼ぶ。
気づけば、
ホール全体が一つの呼吸になっていた。
駿は、そこにいる。
前に出ない。
だが——
消えない。
その存在だけで、
流れが、変わる。
やがて——
最後の一音が、落ちる。
静寂。
ひと拍手。
——爆発。
拍手。
駿は動かない。
ゆっくりと、弓を下ろす。
横顔。
何も語らない。
ただ——
ほんのわずかに、息を吐く。
指揮者のルーカスが、一礼する。
それに続いて、
団員たちも立ち上がる。
鳴り止まない拍手。
それでも——
駿は、振り返らない。
(……まだだ)
⸻
楽屋。
ドアが閉まる。
ようやく、
張りつめていた空気がほどける。
「……ふぅ」
フェリックスが大きく息を吐く。
「今日の客、すごかったな」
「ああ」
誰かが笑う。
ケースを閉じる音。
椅子に腰を下ろす音。
さっきまでの緊張が、
少しずつ部屋から抜けていく。
マティアスがジャケットを羽織る。
「行くぞ」
顎で外を示す。
「祝杯だ」
駿
一瞬だけ目を瞬かせる。
「俺も?」
フェリックスが笑う。
「当たり前だ」
「初舞台だぞ」
駿
小さく笑う。
「ああ」
⸻
夜の街。
石畳を歩く。
小さなビアホール。
木の扉を開ける。
笑い声。
グラスが触れ合う音。
店員が顔を上げる。
「いつものか?」
マティアス
頷く。
「頼む」
テーブルを囲む。
大きなジョッキが運ばれてくる。
フェリックスが持ち上げる。
「新入りに」
みんなもジョッキを持つ。
「乾杯」
ガチン、と音が鳴る。
駿もジョッキを合わせる。
一口。
「……苦っ!」
フェリックスが吹き出す。
「ははっ!」
「その顔!」
店の空気まで笑った。
駿も笑う。
「日本のより苦いな」
マティアス
「そのうち慣れる」
さらっと言う。
それからは、
なわいもない話が続く。
ビールグラスは、いくつも空になり
笑い声が絶えない。
駿はそんな会話を聞きながら
(こういうのも悪くないな)
と小さく笑った。
——
ビアホールを出る。
夜風が少し、冷たい。
誰かが、くだらないことを言う。
笑いが、起きる。
クラウスが帰り際に
「キド」
駿が振り向く。
「今日は悪くなかった」
それだけ言って、歩いていく。
駿はその背中を見送る。
(最高の褒め言葉だな)
その時
ポケットの中で——
スマホが震える。
駿、足を止める。
取り出す。
画面。
蓮からのメッセージ。
“メンバーになった”
一瞬。
駿、動かない。
次の瞬間——
ふっと笑う。
何も打たない。
(……だろうな)
スマホを閉じる。
顔を上げる。
前には
仲間たちの背中。
少し、先を歩いている。
駿、一歩踏み出す。
(……始まったな)
夜の中、
笑い声が、風に流れる。
ドイツで。
日本で。
それぞれの場所で——
音が動き出す。
つづく…
お読みいただきありがとうございます。
第18楽章へ———




