第五十一話 疎開
——魔法学院 廊下 数日後
廊下が——静かになった。
一週間前より、人が減っていた。
疎開した生徒がいた。
故郷に帰った生徒がいた。
亡命した生徒がいた。
エルミラは——三日前に正教国へ向かった。
手紙を持って。
一人で。
振り返らずに歩いていった。
◆ ◆ ◆
戦争が始まった。
カルヴァーン軍がラエティア王国の国境を越えた——という報告が届いたのは、五日前だった。
「……始まった。」
私はノートに書いた。
「不可逆な損失が——始まった。」
それだけ書いた。
それ以上——書けなかった。
◆ ◆ ◆
廊下を歩いていると——イルマ・クロースが来た。
黒地に銀糸の装束。
「グラウ・ルナ様。」
「はい。」
「少し——お時間をいただけますか。」
「はい。」
◆ ◆ ◆
中庭の端に移動した。
学院は——静かだった。
以前より、遥かに静かだった。
「カルヴァーン軍が——王都方面に向けて進軍しています。」
イルマが言った。
「速さは。」
「このままであれば——二週間以内に王都に到達する可能性があります。」
「ラエティア軍の抵抗は。」
「各貴族領主の軍が散発的に応戦していますが——統一指揮が取れていません。」
「……想定通りです。」
「はい。」
イルマが少し間を置いた。
「グラウ・ルナ様。」
「はい。」
「正教国に——帰国してください。」
◆ ◆ ◆
「帰国、ということは——私は正教国の人間ということですか。」
「あなたは——正教国の孤児院出身です。」
「そこまで遡るのですか。」
「はい。」
「……理由を教えてください。」
「王都が陥落すれば——学院も危険になります。ルナ様をこの地に置いておくことは——我らの任務として受け入れられません。」
「任務。」
「はい。」
「……私の安全を守ることが任務ですか。」
「はい。」
「私はそれに同意していません。」
「……承知しています。」
「でも——進言する。」
「はい。」
◆ ◆ ◆
私は学院を見た。
静かになった廊下。
減った生徒の声。
でも——まだいる人たちがいた。
「学院に残っている生徒がいます。」
「はい。」
「帰る場所がない生徒も——いる。」
「……はい。」
「私が正教国に帰れば——その生徒たちはどうなりますか。」
イルマが少し止まった。
「……第三騎士団が護衛します。」
「第三騎士団は——王都の防衛にも必要ではないですか。」
「……判断が難しいところです。」
「私がいなくなれば——第三騎士団は王都防衛に回せる。でも——学院の生徒の護衛が手薄になる。」
「……はい。」
「私がいれば——第三騎士団は学院に縛られる。でも——学院の生徒の護衛は維持できる。」
「……正確な分析です。」
◆ ◆ ◆
「イルマ団長。」
「はい。」
「あなたは——私に帰国してほしいのですか。それとも——任務として帰国を促しているのですか。」
イルマが——少し止まった。
「……両方です。」
「どちらが強いですか。」
「……任務として——帰国を促しています。」
「でも。」
「でも——ルナ様が危険にさらされることは——」
イルマが少し間を置いた。
「……私が許さない。」
「感情的な理由ですね。」
「……はい。」
「受け取りました。」
◆ ◆ ◆
「少し時間をください。」
私は言った。
「……どれくらいですか。」
「今夜中に答えを出します。」
「承知しました。」
イルマが一礼した。
でも——去らなかった。
「何かありますか。」
「……一つだけ。」
「どうぞ。」
「ルナ様は——この戦争を——止められると思っていますか。」
◆ ◆ ◆
私は少し考えた。
「止める方法はあります。」
「……あると。」
「あります。でも——条件があります。」
「何ですか。」
「私が——決断することです。」
イルマが——少し動いた。
「……教皇就任の決断ですか。」
「それも含みます。」
「……今夜中に答えを出す、というのは——」
「教皇就任についても——今夜考えます。」
イルマが——また少し動いた。
何かを——抑えていた。
「……承知しました。」
静かに言った。
「お待ちしています。」
◆ ◆ ◆
イルマが去った。
一人になった。
学院が——静かだった。
遠くで——何かが燃えているのか。
空の端が——少し赤かった。
私はノートを開いた。
「カルヴァーン軍——王都まで二週間以内。学院に残る生徒あり。イルマから帰国の進言。」
書いた。
「今夜——答えを出す。」
「教皇就任について。」
「帰国について。」
「この戦争について。」
一行空けた。
「……変数の計算は——終わっていない。」
「でも——」
少し止まった。
「計算が終わるのを待っていては——手遅れになる。」
「それも——計算の一部だ。」
「……分かった。」
ノートを閉じた。
空の端が——赤く染まっていた。
灰色の瞳が——静かに、赤い空を見ていた。
「……今夜。」
静かに言った。




