二十二.心戦
はるか昔、心を通わせた二人の少女。
志を共にし、同じ男を愛した、一対の巫女。
今、赤々と焼けた鏃の矢を番えて相対し、
互いの胸元へと狙いを定めていた。
紗柄と霞乃江――五百年という空白は有れど、彼女らの出会いは再会であった。
誰何するまでもなく、おまえがそうかと問う必要すらも無かった。目と目を見交わした刹那、互いに確信を得ていた。
妖王が去った後、紗柄は雪を追って黒の気を目指し駆けた。全速力で、立ち止まらず疾走したが、息切れはしていない。
「思ったよりも早かったな。邪龍さまとは戦わなかったのか。親兄弟の仇を前にしても揺るがぬとは」
初めて会った気がしないのは、紗柄にも受容出来たが、霞乃江の見通した発言には驚愕した。
「雪を放せ」
傍らに居る面形の男に注意を向けつつ、気を失っている雪を見た。眠っているだけのようだが、此の状況では質に取られたも同然である。
「誇りよりも王子が大事なおまえのこと。渡せば連れて逃げかねぬ。わたしはおまえと話がしたい」
優艶な笑みに、紗柄は激しい寒気を覚えた。霞乃江という、自身と同じ歳頃の嫋やかな少女が、あの妖王よりも得体の知れぬ怪物に思えた。
まるで血を分けた弟にしてやるかのように、黒巫女は眠る雪の髪を撫でてやる。害を加える素振りは一切無い。しかし彼女の穏やかな眼差しが、徐々に肉親ではなく男に対するものに見えて、紗柄は烈々たる嫌悪を催した。
「雪王子を殺めたがっていた晟凱は、わたしが殺した。あの男に最も苦しみを与える方法でな」
話したいと言う霞乃江が、嬉々として先ず告げたのは、父であるはずの男の死だった。
「やはり、おまえの目的は王の娘と為ることではないのか」
依水や妖王の言を纏め、紗柄も霞乃江の行動原理が俗世と掛け離れた所に在ると見ていた。
「我が君をお迎えすることだ」
闇龍・霞乃江の口から「我が君」と放たれた時、紗柄の心臓が止まりそうに為った。
「彼の御方をお救いするには、わたしだけでは力不足。此の地影に人柱の命を集めねばならぬ」
そう言って霞乃江が見上げたのは、炬が持っている黒色の御剣。次に見たのは、首台に載せられた二首の髑髏であった。紗柄には一見して、氷姫と火澄の成れの果てだと分かった。
「はじめは祥岐王。王に従う重臣や将軍たち。そして、氷姫と火澄殿。地影を用いて殺させた」
勝利を誇る戦士のように、手に掛けた者たちを揚々と呼び並べる。魂に刻まれた記憶に動じていた紗柄だが、義憤や忠義の心を起こされ、次第に怒りを取り戻していった。
「其のために罪の無い者たちを殺め、贄としたのか。此の国を揺るがし、危険に晒したのか」
霞乃江を糾弾した際、紗柄の胸には不可思議な思いが浮かんでいた。
――「彼の方」が、左様なことを望む訳が無い。
思わず右手で額を押さえ、霞乃江から目を逸らした。錯綜する記憶に戸惑い、敵を前に迷いを隠せなく為っていた。
そうした紗柄の揺らぎを見抜いてるのかいないのか、霞乃江は畳み掛けた。
「わたしは己の分を弁え、為すべきことを粛々と全うしている。おまえと同じだ」
何故「同じ」に為るのか、紗柄には呑み込めない。俄かに右腕を上げた霞乃江が、人差し指を突き付けたのは、紗柄が握っている神剣・天陽だった。
「光龍の宿を否定しながらおまえは人を守り、妖を殺している。其のおまえが、光龍以外の何者だという? 口で如何言おうが、結局軛からは逃れられぬのだ」
愛し愛されたかった者を殺め、宿を拒んだ時より、紗柄自らが定めた生き方。霞乃江は、何人にも侵させぬ信念の矛盾を突いた。
其れでも紗柄は、僅かな狼狽えさえも勇む麗貌に押し隠し、天陽を封じて魂へと納め直した。
「霞乃江。おまえに信じる道が有るように、私にも貫くと決めた意地が有る。おまえにとやかく言われる筋合いは無い」
予期せぬ形で前世の楔を打ち込まれ、動揺する紗柄にも、此れだけは堂々と言えた。彼女を取り巻く人々が、勇気付け、生き様から学ばせてくれた姿勢だ。
「宿の軌道上に在る、無いに拘らず、為すべきことは自分で見定めていると言いたいのか」
口角を上げたまま、含みを持たせて尋ねる霞乃江に、紗柄は否定しなかった。
「差し出がましいことを申した。おまえはおまえの、わたしはわたしの信条に従おうではないか」
雪の額から手を離した霞乃江が、控えていた男を呼ぶ。男が持つ地影に触れると、巫女と共鳴した黒の気が波紋を成した。
地影に溜められた神気を直接浴びた紗柄には、総身に鳥肌が立つ程の悪寒が走った。
「あと一人。あと一人喰わせれば、彼の君をお呼びする力が満ちる。そう邪龍さまが仰せになった」
邪神を放つ方法は、紗柄の知るところではない。しかし、邪剣が取り込んだ気の質量から窺えば、可能と言われても違和感は無い。
「わたしの地影が喰らう命は、人でありながら高い徳を有する者。そして、神にも近しい力を湛えた者」
黒の気が誘起する目眩に耐えながら、紗柄は己を奮い立たせる。
「雪の命か、私の命か知らぬが、何方にせよ使わせてなるものか」
「では――守ってみせよ」
霞乃江が目配せで下命し、男が鞘から地影を引き抜いた。紗柄も凛鳴を呼び出して抜刀し、呪を唱えて刃に神気を纏わせる。
かくして、紗柄と霞乃江の争いが始まった。




