二十一.偽物
傍に居たいと熱望したのは。
身を尽くして守りたいと心揺さぶられたのは。
貴方が貴方であるゆえか。
貴方に惹かれたからなのか。
何れも否であるならば、私が、
かつて望んだ「貴方」と重ねているからなのか。
妖王の差金に依り、雪は元居た森から連れ去られた。
尾に絡め取られて妖狐の背から動けず、拘束から逃れられていたとしてもしがみ付くしか無かったであろう。人の足では追い付けぬ速さで、振り落とされれば死んでいたやもしれぬ。
運ばれる間、酷く揺れる獣の背の上で、紗柄のことだけが案じられた。罠だと予想出来たし、物の怪に命を握られた恐さよりも、紗柄の枷に為る悔しさの方に苦しめられた。
やがて足を止めた狐は、尾を雪から離して後ろ足で立ち、彼を乱暴に落とした。
地に着く際、咄嗟に手を付き体勢を保った。周りを見渡せば岩に覆われた洞窟らしき空間で、広々として奥が見えず、出入口は見当たらない。頭上に大きく空いた穴から陽が降り注ぎ、日中のため吹き抜けの下は十分に明るかった。
「紗柄」
自由が戻り、四囲を見回す。紗柄が己を追って来てはいないかと焦ったが、姿は見えない。気付かぬうちに大狐も消えていた。
神気を読む力も無く、五感も人並みの雪だからこそ、何か潜んでいても分からない。己を害する者が岩陰に居るかもしれぬ恐怖が、彼を震慄させた。
――今度こそ、独りに為ってしまった。
誰も助けてくれない寂寞に包まれ、本物の虚しさを味わう。氷姫も火澄も、近衛の兵たちも居らず、紗柄も居ない。此処を切り抜けて本懐を遂げるために、会いたい人々と生きて再会するために、独りで戦わねばならぬ時が来たのだ。
「雪王子」
急に呼び掛けられ、雪の両肩が跳ね上がった。道中紗柄に持たされ、着物の下に持っていた刀を取り出す。恐る恐る声のした方を向くと、袿姿の女人が立っていた。
「霞の……君」
十年近く相見えていなかったが、雪には直ぐ様彼女と分かった。斯様に黒絹のような髪、象牙の如き白肌、欠点の無い造りの貌をしているのは、霞乃江を於いて他には知らない。
ほんの一目、其の妍姿艶質を見せるだけで、霞乃江が誘えぬ男は居なかった。身体を与えるまでもなく、只の口付け一つのみで、溺れさせられぬ男は居なかった。
晟凱が邸の奥で独占しようとした美色は、王師の将官や重臣たちを操った。義父の大逆を成功させるため、彼らに祥岐王への忠を捨てさせた。
其の至美が、何の隔たりも無く、雪の前に現れた。火澄をはじめ多くの男たちへしてきたように、微かに笑い掛けている。
ところが雪は、惑わされるどころか堆積した怨みを暴発させ、眼光鋭く射込む。
小刀の柄に手を掛けたが、手首の震えが止まらない。先日、神殿で兄らが惨殺された際と等しい緊張に覆われていた。
「此れは、此れは」
仰々しく感嘆した霞乃江は、珍しげに雪を見詰めた。
「長らく愚鈍と思っていたが、意外だった。哀しみよりも義心や怒りが強いと見える」
彼女は、己の魔性が如何な力を発揮するか知り得ていた。愛する者を喪失した哀惜、希死する程の挫折、先が見えぬ絶望――深く傷を負った者こそが、霞の如き転瞬の情愛に屈するのだ。
怒れる雪の顔、迷い有る手元を見て、霞乃江はほうと息を吐いた。
「分かるか。貴方の姉君と、その恋人だ」
不意に指差され、雪は後ろを振り返った。背の低い黒い首台が有り、人の頭蓋が二つ載っている。
「うそ、だ」
雪には、目視出来ぬものを視る能力は備わっていない。顔貌すら残っておらぬ髑髏が、姉や其の婚約者のものだと思えるはずも無い。
然れど直観的に、あれらがそうだと思った。理由を並べられずとも、何かが雪に伝えていた。
震慴し、仰け反りそうに為るのを堪えた。目の前が白く染まり、頭の内が空に為ってゆく。
二首に釘付けと為っていた雪へ、霞乃江が背後から囁いた。
「嘘ではない。殺せと命じたのはわたしだ」
煽られた雪は、とうとう鞘から小刀を抜いた。両手で柄を握り、刀身を地面に水平にして切っ先を霞乃江へ向けるまで、少しも躊躇わなかった。
「貴方の姉は、抵抗出来ぬまま全身を刺されて死んだ。剣の姫が、父王の仇に一矢も報いることも出来ず殺されたのだ。あれ程惨めな最期は無かろう」
口元を隠していた袖が退けられると、霞乃江はやはり、微笑んでいた。生まれて此の方、他人に刃を向かわせたことの無い雪が、弧を描いた紅色の唇に吸い寄せられて踏み出した。
憎き女を刺そうとするが、切尖が胸に到達する前に止められた。後方から近付いた鉄面の男が、雪の首根を掴んでいた。
男に鳩尾を殴られ、雪は刀を落として地に倒れた。腹を押さえて蹲り、激痛と息苦しさに身悶えする。
「もう良い、炬」
霞乃江は痛ましげに見下ろし、屈んで雪の頭を膝に乗せた。額に手を当ててやると、雪の目が閉じられ、程無くして眠ってしまった。
「何と、面妖な」
神力で雪の意識を奪った霞乃江が、目の際に残る涙を指で拭ってやり、左右の頬をそれぞれ自分の掌で覆う。
「似ている……あの女が寄り添いたく為るのも頷ける。しかし、まるで違う」
瞼の裏に浮かぶ主の姿が、今は克明に為っている。御前に立つ度、眩さに陶然とさせられた美貌や、交わした言葉から窺える温かい御心――時を共にしたかのように、彼の君を側に感じている。
「似ているとはいえ、彼の君とは違う。紛い物で、偽物だ。朧な記憶を拠り所とし、全く別の、只の人間に心奪われるとは……あの女を情けなくも哀れに思うぞ」
血色の悪い、冷たく固まった雪の唇に、指先で触れる。右の頬骨近くまで伝わせ、やや力を籠めて爪を食い込ませた。
「此の王子が死ねば、あの女はどれ程嘆くだろうか。悲しみの余り気が狂れるだろうか。或いは今生を悲観し、凡て思い出すであろうか――わたしのように」
善良な雪の、陰りの落ち始めた無垢なる顔を眺めつつ、霞乃江はもう一人の巫女へ問う。丁度其の時、呼応するかの如く、明確に判る証が顕れた。
今生では初めて、しかし五百年前、千年前の生では覚えの有る、対極の気配。白の神気が漂う方を見やると、香色の髪をした凛たる美少女を認めた。
「会いたかったぞ、紗柄」




